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第62話

『おはよう、愛しの姫。朝なら問題ないかな?』 「ぅ、…は、っ」 昨夜ぶりの甘い声は、景色を浮き彫りにさせたように実体を持って現れた。こちらの困惑なんてまるで知らない、邪気のない微笑み。 ゆるりと微笑んでいる彼にそっと手を取られる。 甲にキスをされたが、濃密な空気の塊がぶつかったような感覚で、微塵も人の温かみはない。 唇が離れると途端に体の自由が効き、俺は無言のまま、掴まれていた手をそっと払って戻す。 「おはよう、リシャール。早速だが、俺の身に起こっている事の説明を頼めるか?」 『やれやれ……急ぐじゃないか。だがまぁいい。──おいで、シャル』 「く、っ…!」 前置きを省いた問いの返事に両腕を広げて呼ばれ、否が応にも体が勝手に動き出し、リシャールの胸にそっと寄り添った。半透明の彼は、やはり空気の塊のようだ。そこにあってそこにない。 人と触れ合うのが嫌いな質じゃないが、強制されるのは嫌だ。 今朝目を覚ました時と同じように寄り添っていても、半透明なこの胸では優しいまどろみなんて訪れるわけがない。 それなのに、俺は微笑みを浮かべて頬を擦り寄せるのだ。 『王子の手を振り払う姫はいないのだよ?』 優しく抱きしめる腕と、笑いを含んだ声が耳元で霧がかって聞こえた。 振り払ったのが、気に食わなかったのか。笑っていても笑っていない。怒ってもいないが、さも当然のように俺を抱く。 だがここは……俺の居場所じゃ、ない。 違和感と不安に溢れる腕の中。真逆だ。今すぐにでも逃げ出したくなる。 「あぁ……ごめんな」 『ふふふ、構わないとも。今は無事触れ合っているのだから』 クスクスと面白げに笑われた。 怪しい手つきで髪を撫でられ、キスされる。 その仕草に心がギシ、と痛んだ。俺の髪にキスをするのは、いつも後ろから抱きしめるアゼルの癖だ。幸福な日常を穢された気がして、今すぐに振り払って洗い流したくなる。 嫌だ……ここじゃない……、俺が抱きしめられたいのは、お前じゃ、ない。 自分を好いてくれる存在に抱いた事のなかった嫌悪感。リシャールは外側に殺される俺の心を置いてけぼりに、機嫌よさそうに馬鹿げた状態の説明を始めた。 『私は、愛の天使に描かれた、姫を愛する王子の絵なのだ。そして君は私を連れ出してくれた。つまり君は姫……今まで(・・・)の姫もそうだったのだ。姫は王子を裏切らないものだよ。だから当然、不利になる事は言わないし危険な時は身を挺して庇ってくれる。姫と王子はそうあるものだ。……あぁ、勿論君が危険な時は私が守るとも』 甘ったるい猫撫で声。それは至極当たり前と言わんばかりなもので、ごく自然に異常だった。もしも否定すれば、異常だと思う俺がおかしいんじゃないかとでも言い出しそうだ。 それに今までの、と言ったには、俺以外にも何人もの〝姫〟がいたのだろうか。 つまり、こういう事。 愛の天使に描かれたリシャールに好意を告げ、絵から連れ出す事が契約のようなモノで、契約したからには意志関係なくその人物は彼の〝姫〟になってしまう。 リシャールからすれば〝姫〟は当然王子の味方。 契約は、それを強制する。 どうして俺を標的にしたのかは分からないが不可思議なシステムの一部分を把握して何も言えない木偶になっている俺に、リシャールは密かに無邪気な狂気を孕んだ瞳でニコリと笑ってみせる。 『大丈夫。怯えずとも良い。姫と王子は相思相愛だ……そのうちに、君が愛する人も私になるだろう。いずれ君の全てが私の〝姫〟になるよ』 余裕のない俺は、最後に告げられた囁くよりも小さなその声に気が付かなかった。

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