107 / 615

第107話

──初めて、ここがこれから貴方の居場所ですと魔王城にやって来た日、アゼルは一度も言葉を発する事がなかった。 魔族とは、人語を解する知能がある魔物より上位な存在である。姿形は関係なく、魔物語以外の共通語を理解できる魔力を持った知的生命体をさすのだ。 便宜上そういう定義を設けられている。 諸説他にもあるが、これが一般的な定義。 彼は魔物だった。 アゼリディアス・ナイルゴウンは、気がついた時には魔界の果て、砂漠の向こうの魔境にいた。 そこに住む魔物は全てが巨大で、獰猛かつ凶悪な弱肉強食の世界。 その生態系の頂点にいた。 最も強かった為に何時の間にか自分の種族の群れの長として本人も気付かぬうちに一線を画され、気ままに一人で百年生きてきたのだ。 生きていくのに快適な住処は、何故か既にあった。 何世帯か分の家々が無人で立ち並ぶそこが、アゼルの住処。仲間の魔族は一人もいないのに。 そこにあった書物で文字も勉強した。 子供がいたのか児童書もあり、時間は山程あったので住処の書物を読みふけった。 自分の名前を知ったのもそのあたりだ。 だが言葉は、わからなかった。 魔物の言葉は生まれつきわかったのだ。 感情も情緒も薄い魔物たちはカタコトだが仲間と会話をしている。 『ハラヘッタ』『ウルサイ』 そんな程度の本能を基盤にした単純な感情の赴くものだが、愛の言葉を吐いたりもしていた。 『スイコロシテ』『ワタシモ』 そう仲のいい相手に言っていた個体が大抵その後番っていたので、所謂殺し文句も理解したり。 意外と、魔物は仲間となら面白おかしく暮らしているのだ。 そしてアゼルは自分もと、そんな相手に憧れてみたりしていた。 ……諦めても、いた。 自分以外の同じ姿の生き物を見た事がないからだ。 魔物はアゼルを見ると逃げていく。 理由はわからなかったが、王になってからそれを知った。怖いと言う理由を。 そんな周りが魔物だけの環境では、耳にする言語が魔物語でしかない。 まず、人語を知らないアゼルにとって、魔族は普段使わない魔物語を普通の言葉として認識するのは当然の理だった。 だから、初めて人語で語りかけられても、自分の意志を伝えられなかったのだ。 ガタン、と机と自分の額がぶつかる音がした。明かりを消すと室内には惨めな自分を包み込む闇に侵される。 背後にある大きな窓からの月明かりだけが書類だらけの書斎机に突っ伏したアゼルを優しく照らしてくれた。 ──物語の世界に憧れた。 魔物として生きていた彼が紋章の本能に従い魔王城へ駆けてきたのは、そんな幼稚な理由だ。 馬鹿らしいだろう? 百年経たないと寂しいと言う自分の気持ちに気づかなかったんだ。 蓋を開けてみれば出迎えの魔族達の言葉がわからない。それ以前に観察するような視線に戸惑ってならない。 人に見られて初めて自分の姿や振る舞いが気になった。 見栄っ張りな自分はそれが恥ずかしくて、ほんの一瞬だけ漏らした言葉を次ぐんだきり黙りこくる。 黙り込むと、訝しげな視線で埋め尽くされる。それがより戸惑いを連れてきた。 そんな彼に気がつき魔物語で案内をしたのは、今代の宰相ライゼンだけであった。 それからの日々で更に襲い来る不慣れと知らない物事の連続で、不安になった心が目の力を使ってしまう。 アゼルの知らない事だが常に威圧するスキルがあった事も起因した。 恐怖を煽る魔眼に当てられた城の魔族達は、アゼルに畏怖の目線で突き刺される痛みを教えてしまったのだ。 幸い、アゼルは器用な男だった。 話を聞いて行動と照らし合わせて言葉を理解した。国の歴史や成り立ち、常識、感情についても密かに勉強した。 怯えられ、遠巻きにされる恐怖が、初めてうけた他者からの複雑な感情。 それは素直になれない彼をどんどん丸め込んでいく。怒らず従順で物静かで笑わない。 どうにか生活に慣れた頃には、アゼルはすっかり穏和な魔王……裏では無能な魔王と揶揄されていたのだ。 そんな痛みに彩られ、アゼルはついに仕事の手を止めてやるせない気持ちで机に張り付く。 魔境で見つけた物語……本の中では、主人公は最後は必ず幸せになった。 黙って耐えれば見出され認められ、悲しんでいれば誰かが慰めてくれる。 優しい世界に憧れたのに、どうして今俺は一人なんだ。 自分がなれるのは魔王だけ。 魔王は、悪役だから。 答えはとっくに知っていた。 毎日毎日必死に仕事をこなして、頼らなくても済むように全部一人でやり続ける。 全部全部全部、一人でやってやればいい。 だからいつか──もういいと、言ってくれ。 誰かが隣に居てくれるまで……強いつもり(・・・)で、頑張るから。

ともだちにシェアしよう!