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第108話
冷えた机に頬を当てぼう、とするアゼルの視線の先には、紙に包まれた割れたカップの破片があった。
『申し訳ございません魔王様、大事なティーカップを割ってしまい……処罰はいかようにも』
『……別に、どうでもいい。下がれ』
数刻前、割れた破片を差し出して頭を下げていた鬼の従魔。アゼルがいつも使っているそのカップが、態と砕かれた事を知っている。
アゼルが怒らないから、肝試しに使ったのだ。
鬼という種族は比較的上位の魔族だから、腑抜けた主に仕える従魔なんて真面目にやらないのは仕方がない。
この頃アゼルは、まだ眷属を作っていなかったので、彼の身の回りの世話は従魔達がしていたのだ。
今回砕かれたカップ。
それは、多くは語らないがいつも微笑みを浮かべて自分を眺める、よくわからない不死鳥の贈り物だった。
人目を忍んで一人で過ごすティータイムは心の安らぎだった。
それを察した宰相の彩りを添えようという気遣いなのだが、アゼルにはよくわからない。
だが、割れてしまったのは、悲しかった。
書類仕事にももう慣れたが、上がってくる書類にミスが多く、アゼルが政治に明るくないと広まったのか不明瞭な資金申請。
もはやなにかしらがある前提で疑って精査しているので、精神の摩耗が酷かった。
どんなに仕事が多くても文句を言わずに淡々と処理をするものだから、人に任せるシステムなんて作る思考もない。
それに今日は珍しく天界との会合があって、天界の王子に酷い罵倒をされた。
彼はなぜかアゼルを目の敵にする。
どう返すのが正解か考えて黙っていると、王子は怒ったし、部下にはよくわからない嫌な感情を出された。
赴くまま魔法を使って殺せばよかったのだろうか。だが、竜の卵を盗んだ人間達をなるべく細かく刻んで箱に詰めて帰ってくると、誰もが黙り込んでいたじゃないか。
どうしろこうしろ、言えばいい。
言われなければわからない。
わからないのに、無駄にカンがよくて違和感だけは敏感に察知する。
……少し疲れた。
魔境よりずっと沢山の仲間が居る筈なのに一人きりの現実を見たくなくて、目を閉じる。
少しだけ、目を閉じて休んだら、また頑張ろう。積まれた書類を処理して、割れたカップの片付けをしよう。
そう思っていたアゼルの背中を、そっと暖かなものが包んだ。
「……は、…」
明確に感じる重さ。
普段なら飛び起きているが、不思議と危険だとは思わなくて、そっと目を開いた。
そこには、カップの破片に触れる誰かの手があった。触れられたカップが、瞬きする間に元通りになる。
手の持ち主が、音もたてずに歩いて近づき、アゼルの髪を優しく撫でた。
ゆらりと首を動かす。
角度を変えると、身体を覆っているのが暖かなブランケットだとわかる。
そして恐らくそれをかけたのであろう髪を撫でている者は、深海のような優しい瞳の男だった。
男は、愛しく尊いものを見るように自分を見つめ、微笑みながらそっと身をかがめ寄り添う。
──あぁ、一人じゃなかった。
不思議と、確信を持ってそう思った。
胸の内の重く冷たいものが溶けていくような安心感。
アゼルはそっと目を閉じる。
今度は現実逃避じゃない。
この身に触れる泣きたくなる程優しい熱を深く噛みしめる為に。
孤独で眠れぬ夜が嘘のように、そこには幸福な微睡みが訪れる。
もういいと、言われたような気がした。
そんな夜だった。
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