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第256話

 久しぶりに触れられた。  嬉しい。嬉しい。凄く嬉しい。  温かい、体温。お前の、温度。  嬉しい。 「……殴り飛ばしたりするわけないじゃないか。あまりたくさんは色々と困るが、好きにしていいぞ」 「ッ」  俺がニコニコとそんなことを言って首筋をそらせると、アゼルは予想外に驚いた様子で少し目を丸くした。  それから返事をせずに、握っていた俺の腕を持ち上げて、シャツとセーターの袖をグッとおし上げる。  腕には案の定、薄く痕がついていた。  それを見つけて、アゼルは苛立ちを増して歯噛みする。痛くないのに。  少し焦って俺は明朗に、掴まれたままのその手を何度かグーパーと動かしてみせた。 「ははは、気にしないでくれ。俺は城から出ないので肌が白いから、目立つだけだ。ほらほら、ぜーんぜんだろう? よく動く」 「っあぁ? ……チッ、これだから弱いヤツは大嫌いなんだよ、興醒めだ。失せろ」 「っぇ、あ、っ……」  パシッ、と掴まれていた腕が振り払われて、アゼルの手のぬくもりが離れていった。  俺は名残惜しく、咄嗟に物欲しそうな目をして追いかけてしまう。  もっと触れてほしいのに、なんで。  ……弱いから、か。  本当はお前の隣にいるには、強くなくてはならないのだ。  それが弱いままの俺がそばにいることを許されていたのは、アゼルが許してくれたからだ。  足枷になるのにそれでも諦められないと泣いた俺を、お前の我侭が嬉しいと言ってくれたからだ。  更に図々しくも、それを生涯ずっととしてもいいか、なんて願ったことも許してくれたからだ。  強くなくてはならない。  俺はあーあ! と肩をすくめて、軽い足取りで浴室へ向かって歩き出す。 「残念だ。魔王様と一緒にいいものを食べさせてもらっているから、俺の血はそれなりに美味しいのにな〜」 「ハッ、別に種族共通の好物なだけで、なくても死なねぇ。一滴も必要ないからさっさと行け」 「ふふ、かしこまりました」  後ろ手に手を振ってバタン、と浴室に入り扉を閉める。  ゆっくりとセーターを脱ぎ、シャツと、インナーを二枚とも脱ぐ。  今日はもうアゼルとしか会わないので、これはもういいな。  裸になって、鏡の前に置いてある小さな籠に黒いピアスを外して置く。  コレは初めてデートに行ったときの贈り物。 「…………」  鏡に映った自分の顔は、なにかがごっそりと抜け落ちた生き物らしさのないものだった。  あぁ、そう言えば元々こんな顔だったな。  出会ってから変わったのは、アゼルだけじゃない。  薬指から指輪をはずす。  そのリングの内側にはアゼルの名前が彫ってある。  俺は指輪にそっと口付ける。  毎日やること。一日のうちに一度は必ず。  あの日彼が外してからずっと付け忘れているもう一つの指輪には、俺の名前が彫ってある。  それは洗面所の隅に置きっぱなしで、手を伸ばせばすぐに届いた。 「もう、もしかしたら……、……いや。……首輪は、返そうか」  自分のそばにアゼルの指輪を。  そして気がつくよう、洗面台の目立つとこほに自分の指輪を置く。  別に諦めたわけじゃない。  俺の取り柄は前向きにどうにか頑張ることだけだから、いつまでだって頑張る。  だけど、罪悪感に苛まれる。  アゼルはそれらしく見えるように振る舞うと言ってくれているが、俺を愛しているわけじゃない。  もしも、もしもアゼルの記憶が戻らなかったら、俺ではない、子供も残せて強く美しい誰かを、愛するかもしれないのだ。  本当に愛する人が出来た時、知らない男の名が刻まれた指輪なんて渡せないだろう?  それから少しだけ。  意地悪をしてもいいかと思った。  俺と誓ったあの日のアゼルなら、俺以外を選んだりしないと思う。  そう思えるくらい愛されていたから。  これはあの日のアゼルへの、祈り。  俺はもう一度その指輪を、できれば渡してほしいと思ってこれを返すんだ。  バチンッ、と頬を叩く。  大丈夫、ご機嫌麗しいぞ俺は。  アイツに好かれるくらい強くなくてはいけないからな、些細なことで折れたりしない。 「よし! とびきり冷たいシャワーを浴びよう。気分は滝業、強さは修行だな」  顔を上げて前を見据えて歩き出す。  手首の痣に、俺は自分で噛み付いた。

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