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第276話(sideアゼル)

 ♢  朝日に照らされ目が覚めた俺は、自分の目から涙が流れていることに気がついた。  それをぬぐって、立ち上がる。  服を着替えて顔を洗うと、昨日は気が付かなかったが今日は俯いていたので、洗面台の端に指輪がおいてあるのを見つけた。  手に取るとそれは、俺が外してからずっと付け忘れていた結婚指輪だとわかる。  リングの裏に俺の名前があるのだから、俺のだろう。名があるのも初めて知った。  あるべき場所に収める。  手を握って、開いて。  そうするとなかなかどうして、当然そこにあるべきようにそれは馴染んだ。  なるほど。  記憶は全部忘れていても、体はそのままそれに慣れていたということか。  アイツはきっと、俺の指にコレがないことにもっと早く気がついていたはずだ。  じっと指を眺めて、俺は洗面所を後にして一人で朝食を取った。  美味な朝食を黙って食べながら、ぼんやりと思う。  一人のほうが気が楽で、アイツとは一度も一緒に食事をしなかった。  馴染みのない誰かと食事を取るのが嫌なのは、テーブルマナーを少しも知らなかった頃に笑いものにされたからだ。  怖かったからか嫌がらせなのか、理由はわからないが、誰にも指摘されず貴族との食事会に出てさらし者。  俺のほうが強いから逆らうことはない魔族だが、気に食わないならば敵意を隠さない。  今は普通くらいに出来ていると思うが、その出来事と結びついて警戒してしまう。  だけど今思うと、一度くらい一緒にテーブルを囲んだってよかったんじゃないかと、思う。  本当の笑顔を見るには触れ合う必要なんてなくて、ただアイツの作ったお菓子を食べながら、一緒にお茶を飲むだけでよかったのかもしれない。  食事はいつも美味しい。  なのに今朝は、少し苦かった。  食器を片付ける従魔が出ていって、俺はいつも通り代わりにおいて行かれた奪われた過去の資料を読み込む。  あの俺の眷属だという従魔も、俺は知らなかった。  俺の知る従魔は本心では俺に従いたくない奴等だったのに、今の従魔は眷属なので従順で嘘はつけず、信頼がある。  紅茶の入ったカップに口をつけた。  今朝届けられた茶葉は、オレンジフレーバー。文句なしに美味しい。  この部屋に常備されているこの漆器のカップは、珍しい。俺の記憶にはないものだ。  アイツはコレに口をつけるたびに、ほんの少しだけ長く目を閉じる。  その理由は多分、俺の知らない話。  結婚してからのことは、教えてくれなかった。  どうして自分が妃なのかが分かればよかったので、説明する必要がなかったからだ。  だから、コレはもしかしたら幸せなものだったのかもしれない。  カップを置いて、窓の外を見る。  もうすっかり朝だ。  昨日からして、今日は明日だ。明日になったら、帰ってくると言ったのに。  閉じた扉を見つめる。  眺めていたって、書類の内容が頭に入ってこないからだ。  見つめていたって、誰も帰ってこないが。  迂闊に部屋の外に出るのは、城を警備してくれているガドやマルガンにすると良くないとは思う。  記憶喪失を隠しているから、それを知らない者に声をかけられると困る。  だけど、夢の中で考えたこと。  泣いていた俺の心のこと。 「今度は俺から、会いに……」  自然と言葉が出た。  帰ってこないのはもう嫌われたからだろう。  当然のことをしたし、言ってしまった。  自分で会いに行くのは、とても怖い。勇気がいる。  会えば面と向かって別れを告げられるのかもしれない。なら会わないほうが望みがあるかも。  格好悪い俺が言う。  だが怯えてばかりでは俺はいつまでも、自分も誰かも傷つけるだけだ。  どう謝れば許してもらえるのかわからない。  どんな顔で会えばいいのかもわからない。  書類を置いて立ち上がる。  なんにもわからないしまた傷つけるかもしれないが、俺はここで動かないと一生間違い続けるだろう。  探しに行こう。  そして謝るんだ。  俺は扉を開けて、自分から一歩を踏み出した。

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