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第289話

 しばらくぐったりと貼り付けにされたまま、黙っていた。  拷問部屋の中はシンと静まり返って、誰もやってこない。  そっと顔を上げて、こわごわと周囲を伺う。 「だ、誰か……誰かいないか……っ?」  すがるようにそれなりの声量で叫ぶ。  それを何度か繰り返してみたが、やはり誰もやってこない。  おそらくさっき言っていた通り、アゼルをおびき出す作戦会議をしているのだろう。  魔界が厳戒態勢であるように、出方によっては魔王を迎え撃たなければならない天界も兵士を総動員しているのだ。 「……ふぅ」  俺はそう仮定してから、すぐに自分の枷の具合を確かめる。  ならば今が最高の好機。  この部屋は拷問部屋で牢屋ではない。  アゼルに憎悪にも似た執着を抱いているメンリヴァーが、アゼルに選ばれた俺を痛めつける為にここを選んだ。  当然強度はかなりあっても、閉じ込めることを想定はしていない。  そして俺を捕らえてから記憶の返還、おびき出しと重要な事項が連続して、バタバタと忙しないこのタイミングが一番スキがある。  記憶の消去と俺の捕獲が終われば、後はどうにかなる。  そんな成功目前の状況が、最も油断しているはずだ。 「……天界の思いどおりには、ならない」  諦めているわけがないだろう?  俺はアイツに関しては、自分でも馬鹿だと思うくらい、諦めが悪いからな。  拷問中、懸命に目を走らせたところ、この部屋は聖法には耐性がある。  俺を甚振る攻撃が漏れたり巻き添えになったりしても、どこも壊れたりしなかった。  それに、物理攻撃にもそれなりの耐性があるようだ。  メンリヴァーのレイピアが当たっても、やはり無傷だったからな。  だが、完全無欠かというとそんなことはない。  眠っていたから俺の魔力は回復していたので、バレないようににじませてみると、弾く様子はまったくなかった。  天使を拷問する前提であり、魔法を使えない天使たちは魔力がなんたるかも不明瞭なのだ。  魔族が聖法に明るくないのと同じ。  書物による朧な知識だが、プライドの高い彼らは余計に魔法なんて嫌悪していた。  そんな状況確認をしていた俺は、四肢を狩られながら考えついた脱出方法を行うべく、深く深呼吸して、うるさい心臓を無視し、覚悟を決める。 「切断。固定」  フォン、と俺の両手の先に四枚ずつ、直径十センチほどの魔法陣が現れた。  それを慎重に飛ばして、ズレがないようぴたりと重ね合わせる。  魔法陣の重ねがけは、高等技術だ。  魔力を持たない天族は目視できないだろう。  そうしてできた魔法陣四枚を、俺の手足にくぐらせ、まずは、両手首。  発動タイミングは任意に書き込んである。  ──あまりやりたくないが……速さと確実性において、これが最善策。  きつく目を閉じて、ぐっと身を固めた。 「……ッ」  バツンッ! 「────ッ!」  食いしばった歯の隙間から、声にならない悲鳴を上げる激痛とともに、俺の手首が二つとも切断された。  ──痛い、痛い、痛いッ! 痛いッ!  ──この痛みは、ついさっきまで味わっていた、一度だって味わいたくない激痛だッ!  頭の中に警鐘が鳴り響く。  馬鹿なことをするなと怒り狂う体の悲鳴と自分の覚悟が衝突し、唇がブツッ、と切れた。  普通なら出血多量で死んでしまうだろう。  けれど魔法陣の固定のおかげで、切断面から血が流れることはない。  その間に片方ずつ枷から手の先を外して、今度は接着の陣をはさみ、ぴったりと合わせる。  時間性の能力だが、固定で止めたものはミリ単位でも動かない。  だからこそ元通りにすることができる。  しかも断面は切断で切り落としたため、まったくの平面。  接着で繋ぎ留めて身体強化をかければ、応急処置にはなる。  そうして何度か意識が薄れ気絶しそうになりながらも、俺はなんとか、両手を自由にした。 「ひッ……い、う……うううう……ッ」  あぁクソ、痛い、死にそうだ。  頭がおかしくなる。  他人に強制させられるより、自分でするほうが恐ろしい。なにごともそうだ。  脂汗と涙が滲み、呼吸が乱れる中、召喚魔法でしまっておいた緊急用のポーションを取り出す。  それを両手首の傷に振りかけると、ようやく痛みが引いていく。  昔使っていたような粗悪品じゃない。  わざわざ人間国から取り寄せてくれた、最高級のポーションだ。  魔界にそんなものはない。  俺のために、用意してくれたもの。  これだけ完璧な状態であれば、最高級ポーションならどうにかまた繋ぐことができる。  死んだ時のように突き刺さったつららと、血も流れすぎて満身創痍であれば不可能だが、今は万全の状態での致命傷だからな。  魔法が使えると確認をしていたこと。  切られた時に、ある意味で枷から逃れられていると気がついたこと。  そして俺の怪我がトラウマになったアゼルの気遣いがあったのが、この逃走法を決行した理由だ。  ──急ぐ必要がある。  これが一番手っ取り早かったのだ。  だから俺は、ガタガタとこれから襲い来る痛みに震えながらも、残りの両足を切断した。

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