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6 months 後半
夕刻。
仕事が片付き、一息つこうかと紅茶を頼もうとして、手を止める。
「そういえば、夕刻にくると言っていたな」
時計を見遣れば、ちょうどいい時刻だ。
なに、暇なのだからいいだろう。少し覗くだけなのだから。
そうと決まれば即行動するのみ。西日で赤く染まる大地を馬で駆ける。
屋敷に辿り着くと、使用人が慌てて駆け寄ってきた。前触れもなく帰宅したのは俺の方だ。シュア達には秘密にするよう伝えて下がらせる。
客室へ向かいこっそりと中を覗けば執事長を筆頭に使用人達が集まっていた。その横にはシュアと予想外の料理人まで居る。
屋敷の者にはかろうじて怯えないウェルだが、人の多さに酔ってしまったのか浮かない顔をして俯いていた。
ドアの隙間から覗いていた俺が、わざと靴を鳴らして部屋の扉を開くのと、ウェルが俺を見つけるのはどちらが早かっただろうか。
「らんーっ!」
とてとてと必死に走ってきたウェルが飛びついてくる。その大きな瞳には涙の膜が張っていた。
「どうした」
「らん、らんっ」
抱き上げるとウェルが首元に顔を埋める。
深呼吸をして俺の匂いを吸い込むと、張り詰めていた緊張の糸がきれたかのように脱力していった。
「おや、やはり来ましたね」
「ちっ。いちいち煩いぞ」
「ふふ、それで此方と此方で悩んでいるのですがどうです?」
シュアがそう言って差し出したのはウェルの大きな瞳の色と同じ美しい翡翠の宝石がついた首輪と、俺の髪色と同じ灰色の生地に銀糸で模様が描かれたリボンがついている首輪だった。
どちらも可愛らしい。だが、ウェルは拒絶するように俺の服を強く握り締めた。
「ウェルにはもっと良いものを用意しろ」
俺の睥睨に商人が顔を青ざめる。
「……俺の不備だ。すまないが首輪は駄目だ。こいつにつけるのは首輪ではなく、アクセサリーにしろ。宝石はクリスタルを用意しておけ。デザインは貴様に任せた。いいな?」
俺の問いに、こくこくと商人が頷く。
何か言いたげなシュアを無視すると、俺はウェルを連れて部屋をあとにした。
ウェルが怯えているのは首輪を見たからか。
とはいえ、首輪とは程遠く豪奢で洗練されたデザインなのだが、ウェルにとっては何かを首につけるということがトラウマを呼び覚ましたのだろう。
シュアが選んだのは我が帝国のオメガ性ならば喜んで受け取る代物だった。
だが、どんなに宝石をつけようと、どんなに色鮮やかで華美であろうと、囚われていたウェルにとってそれは絶望の象徴だ。
「すまないなウェル」
「……」
すっかり落ち込んでしまったウェルを向き合うように膝に座らせる。長い睫毛が涙で濡れていた。また泣かせてしまったと、腹の底に鉛でも詰め込まれた気分だ。
「少し話をしてもいいか?」
「……ぅん」
こくりと頷いたウェルが、おずおずと顔を上げる。
何故ウェルが俺の元に来たのか。
権力以前に俺が少々特殊な魔法を使える上に、アルファのなりそこないだからだろう。アルファの俺は、本来ならばオメガであるウェルの傍にいる事は危険だ。
だが、昔とある事件により人間の国で捕虜となった俺は拷問を受けた。
それがきっかけにより後遺症が残ったのだが、その中の一つに嗅覚の喪失が含まれている。
獣人として鼻が効かない。それはとても屈辱的なことだ。戦いの一線から退けた今になれば悔しく思うこともなくなったが、当時は酷く落ち込んだ覚えがある。
鼻が効かないことはオメガのフェロモンに影響されることは無い。
発情期という月に一度やってくる、オメガの特殊な時期に遭遇しても、匂いの分からない俺には無意味だ。
フェロモンに影響され──我を忘れ強制的に発情する──ヒートなど起きるわけもい。
これはある意味、とても有利であった。
そして、もう一つ。俺がオメガ封じの魔法を使えることが最大の理由なのだろう。
事故が起きないように、オメガとその相手が互いに強く惹かれた時にのみフェロモンが香るように、封じることが出来る。
だからウェルは俺の元に預けられたのだろう。
奴隷として扱われ、性の対象にされることはいわば暴力である。
一度だって勝手な欲望に晒された者にとって、例え愛があれど肉欲とは暴力だ。
そんなウェルがもし万が一にでも酷い目にあう事がないように。
心から誰かと繋がりたいと願った時にだけ、フェロモンが放たれるようにと。
そして獣人としてアルファとしてなり損ないの宰相と皮肉られる俺の元に、ウェルはやってきた。
ただ間違える者が多いのだが、オメガ封じの魔法はフェロモンを抑えるだけであり、発情を止めることは出来ない。
発情期のフェロモンに誘われて何者かが襲ったり、誘われたりすることは止められても、オメガの者は月に一度、酷い発情期を過ごさなくてはならない。
その症状を抑えるのは未だ薬のみである。
フェロモンがなくとも、弱ったオメガにつけ込み悪戯をする者はどこの世界にも居るのだ。
オメガを丁重に扱う我が帝国でさえ、首輪無しのオメガを無理矢理に手篭めにした下衆は居るのだ。
「ウェル。お前はもう時期、発情期というものが来るだろう。それはオメガにとって酷く辛い症状を伴う。だが、薬を飲めばある程度は抑えることもできるようになった。ただな、思わぬ事故や薬が効かない者も中にはいる。その万が一の時に、望まぬ悲劇が起こるのを防ぐ策でオメガには首を守るため首輪を付けてもらうように協力してもらっているんだ」
「……っ」
「お前を管理しようだとか、酷い扱いをしようだなんて思っていない。──護る為の手段なのだ」
こんな形でしか民を守れないとは情けない。
ウェルに説明をすることが自ら恥じていることを再認識させる。
「必ずお前を幸せにすると誓う。お前を傷つけるものはなんびとたりとも触れさせないと誓う。──だから今だけはこの情けない願いを聞いてもらえないだろうか?」
首輪を嫌がる子供になんてことを願うのだろう。
酷い記憶を呼び覚ます忌まわしいものをもう一度付けてくれと頼まざるを得ないこの現状が憎い。
「らん」
「……すまないウェル」
「らん、いいこ、いいこ。痛い、ないない?」
小さな手が頭を撫でる。
細い腕が頭を抱きしめる。
その小さな体に抱きしめられて初めて気付く。
小さいと思っていた弱い子供は、いつの間にか大きな大きな心を育んでいたことに。
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