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第1話

 それは春風に乗ってやってきた。  運命の香り。  離ればなれになった半身と、今世で出会えた瞬間。  どうしようもない恋しさ、愛しさ、懐かしさ。  ――やっとあなたに会えた。  思慕に心が震えた。  十二歳だった柊木(ひいらぎ)瑠佳(るか)は音もなく泣いた。  意志とは関係なく涙が溢れて仕方ない。 「何……これ?」  戸惑う瑠佳の頬を、彼は指で親拭ってくれた。  静かに自分を見下ろす男――三峯(みつみね)隼人(はやと)と出会った瞬間を、今でも忘れることができない。 【1】嫌いな男  ヒヨドリの鳴き声が聞こえる。  白樫にはぷっくりとした実がなり、もう少し秋が深まれば茶色く色づくだろう。小さい頃は宝物のようにどんぐりを集めたものだ。  舗装された小道の沿道には銀杏が植えられ、黄色に染まった葉が日差しを受けて輝いている。  手入れされた芝は青く、花壇にはサザンカやサフラン、シオンが咲き、夏に比べれば色味が落ちついた庭に彩りを添えていた。  都心であることを忘れさせる緑豊かな岸田(きしだ)邸は、さながら国立公園のようだ。  シンプルな外観の屋敷は、昭和初期に建てられた物にしては珍しい、鉄筋コンクリート製だ。内装は著名なフランス人建築家が手がけ、当時流行したアール・デコ様式の装飾が至るところに施されている。  紅茶とクッキーを載せたカートを押し、二十二歳になった瑠佳は窓の外を眺めた。  今日もいい天気だ。  青い空には雲一つなく、先ほど鳴いていたヒヨドリが飛んでいく。  長い廊下を歩いて応接室へ向かうと、襟を正すように赤い首輪に触れた。蔓バラが彫られた扉をノックする。 「お茶をお持ちいたしました」  一礼して中に入ると、主である岸田秋廣(あきひろ)が迎えてくれた。 「ありがとう。テーブルに置いてくれるかい」 「かしこまりました」  対面するソファーに座り、黒いスーツの男と話している秋廣は笑顔だ。  白いシャツにグレーのスラックスを穿いた秋廣は、すっと背筋を伸ばし、指の動き一つとっても優雅だ。さすが華族の血を引く岸田家の次期当主。品位が違う。  主の柔らかな物腰に見惚れながら、静かにお茶の準備をした。  ソーサーにカップを置き、金色の液体を注ぐ。  今日の紅茶は、英国の老舗紅茶店のロイヤルブレンドだ。まろやかな口当たりにコクのある香りが特徴で、ミルクとよく合う。  秋廣の好みを熟知しているので、角砂糖を二つ入れてたっぷりとミルクを注いだ。  しかし客人は、 「ミルクも砂糖もいらない」  視線が少しぶつかっただけなのに、瑠佳の心を読んだかのように言った。  何も答えずに俯くと、客人の前に紅茶を置く。  返事もしないなんて失礼だとわかっている。  客人に対してなんと無礼だろう。  けれども瑠佳は、男と口を利く気にはなれなかった。 「相変わらず三峯が嫌いかい?」  困ったように秋廣に笑われ、露骨すぎた自分の態度を恥じる。 「別に構わないさ。今に始まったことじゃない」  三峯にも笑われ、かぁっと頬が熱くなった。  これじゃあまるで、人見知りを引き摺っている子どもじゃないか。……十歳も年上の彼らからすれば、自分はまだ子どもかもしれないが。  カチャッと音を立て、カップを口元へ運ぶ三峯を見た。  因縁浅からぬ男。  自分がこの世で一番嫌いな人間。  腰がある黒髪を整髪料で後ろへ流し、鋭角的な横顔を晒している彼は、きっと美形の部類に入るだろう。見る者を惹きつける男性的な魅力がある。  太くてきりりとした眉に、意志の強そうな二重の目。鼻は高く、肉感的な唇は野性味を感じさせる。身体も鍛えているのか逞しく、一八〇センチある秋廣より数センチ背が高い。  秋廣の幼馴染みだというこの男は、アルファなだけあって内面のみならず、外見も優れているということか。  心の中に嫉妬という醜い感情が生まれる。  オメガである瑠佳は、一六〇センチと小柄な体型に、コンプレックスを抱いているというのに。    この世には、自分で選べないものが三つある。  両親、血液型、そして性別。  人口衰退を回避するため進化したといわれるが、太古の男女性を残したまま、人類はバース性といわれる三つの性に分かれた。  それがアルファ、ベータ、オメガだ。  バース性はさらに男性と女性に分かれ、生殖機能も大きく変化した。  男性はみな直腸の奥に子宮を持ち、妊娠や出産が可能となった。  女性もヒートという興奮状態に入ると、クリトリスがペニス状に勃起し、射精が可能となる。  このことにより、人類は人口衰退という危機から脱することができたが、遺伝子の特異性から、バース性は社会階級制度を作り上げた。  最上位に位置するのは『アルファ』だ。  知能指数も高く、運動能力にも優れ、強いカリスマ性を持つアルファは、全人口の二十パーセントしかいない。しかもスポーツ選手や会社経営者、有名投資家や政治家に多く、世界を動かしているのはアルファだといっても過言ではない。 『ベータ』は俗にいう普通の人。  努力次第ではアルファと肩を並べて活躍することもできるが、大多数はアルファに雇用されて一生を終える。  最下位は『オメガ』。  全体の十パーセントと人口が一番少なく、小柄で中性的な容姿をした人が多い。  知能指数も運動能力もベータとなんら変わらないが、オメガだけアルファを惹きつけて、ヒートさせる性フェロモン……オメガフェロモンを発する。  そのためヒートしたアルファに無理やり番にされないよう、瑠佳のように護身用の首輪をつけている者も多い。  発情期は月に一度一週間程度やってきて、期間中はアルファを不用意に惹きつけないよう、性フェロモンを抑制する発情期抑制剤を服用する。  社会的地位が低くなってしまった理由は、発情期抑制剤が開発される数十年前まで、オメガはアルファを惹きつける淫魔という差別意識があり、オメガは家庭に入り、番となったアルファの子どもを産んで育てることに専念させられた。  百パーセントアルファの子どもが生まれるのは、アルファとオメガの番だけだからだ。  番となるためには、オメガの首筋をアルファが噛む必要がある。  また番になると、オメガはパートナーであるアルファだけを惹きつける性フェロモンを発し、アルファはパートナーであるオメガの性フェロモンのみに欲情する。  昨今は発情期抑制剤の開発も進み、効きも良くなったことから、オメガの社会進出も増え、人権回復運動も盛んだ。  しかし実際は職に就けるオメガは少なく、瑠佳のように大学も出ていないオメガは、ほとんど就職できない。  自宅が全焼し、唯一の家族だった父親も亡くなった瑠佳は、バイトをかけ持ちして糊口を凌ぐつもりでいた。  そんな自分が使用人としてここで働けているのは、秋廣の優しさのおかげだ。 「とっても美味しそうだね。瑠佳は紅茶を淹れるのが本当に上手だ。このガレット・ブルトンヌも瑠佳が焼いたのかい?」 「はい。お口に合えばいいのですが」  秋廣の前に紅茶を、テーブルの中央にクッキーの載った皿を置く。  瑠佳は料理を作るのが得意だ。岸田邸の近くで、小さな洋食店を営んでいた父親の血かもしれない。高校在学中に調理師免許を取り、将来は父親の店を継ぐつもりでいた。  それなのに、あんなことが起きるなんて。 「うん、美味いな」  クッキーを食べた三峯が、小膝を打つ。  嫌いな男に褒められて、どんな反応をすればいいのかわからない。  むっすりと黙り込んでいると、秋廣が小さく吹き出した。 「瑠佳。こういう時は『ありがとうございます』って笑っておけばいいんだよ」  恩人である秋廣の言葉は絶対だ。 「……ありがとう、ございます」  なんとか従ったものの、笑顔を浮かべることはできなかった。

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