6 / 6
第6話
今年はもうプレゼントを渡すことは諦めていた。出会ってから毎年欠かさず、誕生日プレゼントを渡してきたのに……。
「そうだ。時間も体力もあるんだから、今買いに行けばいいんじゃない?」
起き上がるとスマートフォンを手に取った。
地図アプリを開くと、屋敷のすぐ近くに花屋を見つける。
幸い秋廣は花が好きだ。今年のプレゼントは花束にしよう!
思い立ったのと同時に、自分の身体の匂いを嗅いだ。
発情期もあと二日で終わる。性フェロモンの甘い香りはほとんどしない。これなら外出しても身の危険はないだろう。
着替えると、少し多めに服を着込んだ。
風邪が治ったといっても病み上がりだ。ぶり返しては困ると、インナーシャツにワイシャツとセーター、その上からパーカーを着て、薄手のジャケットも羽織った。下はジーンズだ。
寝ぐせがつきっぱなしだった髪も整え、部屋を出る。
皆が忙しく働いているリネン室と調理室を横目に、従業員通用口から外に出た。
久しぶりの外気はさらにひんやりと冷たく、紅葉もぐっと進んでいる。
深呼吸を一つすると、瑠佳はきょろきょろと周囲を見渡した。
「えーっと、ここが裏門だから。お花屋さんはこっちの方向か」
滅多に外出しない瑠佳は、地図アプリが手放せない。地元とはいえあまり道を知らない上、方向音痴だからだ。しかも近年再開発が進み、ルフュージュにいる間にずいぶん街並みも変わった。
自分の脇を黒い車が通り過ぎたことも気づかず、瑠佳は頼りなげな足取りで花屋へ向かう。
アプリによると徒歩五分の距離だ。そんなに遠くはない。そもそも、この店は小さい頃よくお使いに行った店だ。母の仏壇に供える花を買いに行くために。
それを思い出した途端、瑠佳は急に気持ちが大きくなって鼻歌まで歌い出した。
近所とはいえ、久しぶりの買い物は想像以上に楽しい。
今日は晴天だ。突き抜けるような青空を見ていると、気分もすっきりとし、意味もなくワクワクしてくる。このまま羽が生え、どこか遠くへ飛んでいけそうだと思った。
軒先に花の入ったバケツや植木が置かれている店内を覗くと、ショートヘアーの若い女性がアレンジメントを作っていた。
「あの、すみません」
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えられて、軽く会釈する。
「えぇっと、誕生日プレゼントに花束を贈りたいんですが」
「かしこまりました。ご予算はいかほどですか?」
「あー……五千円ぐらいで。あ、あと黄色いバラをたくさん入れてください。大好きなんです。彼が」
秋廣のことを『彼』と言ったのは、この界隈で岸田一族があまりにも有名すぎるからだ。
もし「岸田秋廣に渡す花束を作ってください」と言ったら、店員の女性も緊張してしまって、バラの棘で指を怪我するかもしれない。
黄色いバラを基調とした明るい色の花束は十分ほどで出来上がり、瑠佳は笑顔で店を出た。
――秋廣様、喜んでくれるかな?
子どものように無邪気な気持ちで花束を抱える。
屋敷を出た時に比べて日差しが強くなり、うっすらと汗をかいた。ちょっと服を着込みすぎたようだ。
その時、自分の汗がふわりと香った。
甘い性フェロモンの匂いが、花束の芳香とともに鼻先まで届く。汗に混じって性フェロモンは発散されるのだ。
――いけない、早く屋敷に帰らなきゃ!
通りを歩く人たちの視線が急に変わった。
瑠佳のことを皆ちらちらと横目で見ていく。
中には物欲しげにじっと見つめる者もいた。
あと二日で発情期が終わるからと、気軽に考えていた自分が迂闊だった。
瑠佳は歩く速度を速めると駆け出す。
たった五分の距離だ。
岸田邸の従業員通用口までもうすぐ。
肉食獣に追われた小動物が巣に逃げ帰るように、瑠佳は全速力で駆け抜けた。
「――ねぇ、君」
しかし、屋敷の壁に沿って角を曲がった時。正面にいかつい男性が現れて影が落ちた。焦る瑠佳を静かに見下ろしている。
「なんで……しょうか?」
身体つきの良さから、アルファだとわかった。
表情は能面のように冷たく、目はギラギラと血走っている。呼吸は荒く、性フェロモンを過剰に分泌していた。むっとする香り。彼がヒートしている証拠だ。
額から一筋の汗が流れる。
この男と面識はない。
向こうも瑠佳のことを知らないようだった。
「――――っ!」
肩が抜けそうなほど強い力で腕を引っ張られ、屋敷まであと少しというところで捕まってしまった。
「いやだ! 離して!」
ヒートしたアルファに捕らえられたオメガが、どんな目に遭わされるか。一瞬で考えて必死に抵抗した。しかし暴れると担ぎ上げられてしまう。
「誰か……助けてっ!」
街行く人に叫んだが、一瞥をくれるだけで誰も助けてくれない。むしろ面倒事に巻き込まれたくないと足早に去っていく。
愕然とした。
これがオメガに対する扱いなのだ。
どんなに人権回復運動が盛んでも、国が保護施設を作っても。
性フェロモンを発散させて街を歩いたオメガに、人々は冷たい。
アルファがオメガを強姦しようとしても、誰も助けてはくれないのだ。自業自得と言わんばかりに。
これがオメガの人権の低さを如実に表していた。
本来ならば、どんな理由があろうと強姦したアルファが悪い。しかし世間では、性フェロモンでアルファを誘惑したとして、オメガが悪者にされるのだ。
現実に打ちのめされた。
それでも瑠佳は必死に抵抗し続けた。
建設途中のビルの隙間にある路地に放り込まれ、したたか尻を打つ。
どん詰まりの造りだとわかっていても、立ち上がると奥へ奥へと逃げてしまう。
「こ、来ないで!」
行き詰まりの壁に背中をつけると、瑠佳は精一杯男を睨んだ。
岩のような顔にねっとりとした笑みを浮かべると、男は舌なめずりし、ズボンのベルトに手をかけた。
そこからエレクトしたペニスを引き摺り出す。
吐き気がした。
それは自分にだってついているものなのに、赤黒くて禍々しくて、まるで違う生物のように見えた。
瑠佳は男の脇を通り抜けて危機を打開しようとしたのだが、易々と捕らえられ、ジーンズに手をかけられる。
「いやだっ!」
両手で引っ張り上げて脱がされまいとしたが、男の方が力が強く、瑠佳のジーンズは細い腰から抜けてしまう。
「あぁっ!」
下着ごと脱がされて、縮み上がった性器を掴まれた。
ぐにぐにと揉みこまれ、嘔吐する。吐しゃ物が男の腕を汚した。
――気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪いっ!
瑠佳の頬を涙が伝う。屈辱の涙だった。
がさついた無骨な指はさらに奥へと進んでいき、瑠佳の後孔を捉える。
「やぁーっ!」
ぐりっと指を入れられそうになって、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「瑠佳っ!」
その時、男の背後で何かが煌めいた。
高く振り上げられたそれは、ガツッと鈍い音を立てて後頭部を打ち据える。
前のめりに崩れ落ち、男はあっけなく倒れた。完全に気を失っているようだ。
「大丈夫か!?」
きらりと光った物は鉄パイプで、路地に落ちていたことを思い出す。
同時に足から力が抜けて、ぺたりと地面に座り込んだ。
「瑠佳? 瑠佳!?」
スーツが汚れることも厭わず、膝をついて肩を抱いてくれたのは三峯だった。
恐怖から解放されて放心状態の瑠佳に、ジーンズを穿かせてくれる。
「三……峯、さ……」
屈辱の涙は安堵の涙に変わり、彼のスーツに縋りついた。
「三峯さん……三峯さん……」
「もう大丈夫だ。大丈夫だよ、瑠佳」
優しく背中を撫でられて、いつしかしゃくりあげながら大粒の涙を零していた。
書籍の購入
ともだちにシェアしよう!