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第6話

 今年はもうプレゼントを渡すことは諦めていた。出会ってから毎年欠かさず、誕生日プレゼントを渡してきたのに……。 「そうだ。時間も体力もあるんだから、今買いに行けばいいんじゃない?」  起き上がるとスマートフォンを手に取った。  地図アプリを開くと、屋敷のすぐ近くに花屋を見つける。  幸い秋廣は花が好きだ。今年のプレゼントは花束にしよう!  思い立ったのと同時に、自分の身体の匂いを嗅いだ。  発情期もあと二日で終わる。性フェロモンの甘い香りはほとんどしない。これなら外出しても身の危険はないだろう。  着替えると、少し多めに服を着込んだ。  風邪が治ったといっても病み上がりだ。ぶり返しては困ると、インナーシャツにワイシャツとセーター、その上からパーカーを着て、薄手のジャケットも羽織った。下はジーンズだ。  寝ぐせがつきっぱなしだった髪も整え、部屋を出る。  皆が忙しく働いているリネン室と調理室を横目に、従業員通用口から外に出た。  久しぶりの外気はさらにひんやりと冷たく、紅葉もぐっと進んでいる。  深呼吸を一つすると、瑠佳はきょろきょろと周囲を見渡した。 「えーっと、ここが裏門だから。お花屋さんはこっちの方向か」  滅多に外出しない瑠佳は、地図アプリが手放せない。地元とはいえあまり道を知らない上、方向音痴だからだ。しかも近年再開発が進み、ルフュージュにいる間にずいぶん街並みも変わった。  自分の脇を黒い車が通り過ぎたことも気づかず、瑠佳は頼りなげな足取りで花屋へ向かう。  アプリによると徒歩五分の距離だ。そんなに遠くはない。そもそも、この店は小さい頃よくお使いに行った店だ。母の仏壇に供える花を買いに行くために。  それを思い出した途端、瑠佳は急に気持ちが大きくなって鼻歌まで歌い出した。  近所とはいえ、久しぶりの買い物は想像以上に楽しい。  今日は晴天だ。突き抜けるような青空を見ていると、気分もすっきりとし、意味もなくワクワクしてくる。このまま羽が生え、どこか遠くへ飛んでいけそうだと思った。  軒先に花の入ったバケツや植木が置かれている店内を覗くと、ショートヘアーの若い女性がアレンジメントを作っていた。 「あの、すみません」 「いらっしゃいませ」  笑顔で迎えられて、軽く会釈する。 「えぇっと、誕生日プレゼントに花束を贈りたいんですが」 「かしこまりました。ご予算はいかほどですか?」 「あー……五千円ぐらいで。あ、あと黄色いバラをたくさん入れてください。大好きなんです。彼が」  秋廣のことを『彼』と言ったのは、この界隈で岸田一族があまりにも有名すぎるからだ。  もし「岸田秋廣に渡す花束を作ってください」と言ったら、店員の女性も緊張してしまって、バラの棘で指を怪我するかもしれない。  黄色いバラを基調とした明るい色の花束は十分ほどで出来上がり、瑠佳は笑顔で店を出た。  ――秋廣様、喜んでくれるかな?  子どものように無邪気な気持ちで花束を抱える。  屋敷を出た時に比べて日差しが強くなり、うっすらと汗をかいた。ちょっと服を着込みすぎたようだ。  その時、自分の汗がふわりと香った。  甘い性フェロモンの匂いが、花束の芳香とともに鼻先まで届く。汗に混じって性フェロモンは発散されるのだ。  ――いけない、早く屋敷に帰らなきゃ!  通りを歩く人たちの視線が急に変わった。  瑠佳のことを皆ちらちらと横目で見ていく。  中には物欲しげにじっと見つめる者もいた。  あと二日で発情期が終わるからと、気軽に考えていた自分が迂闊だった。  瑠佳は歩く速度を速めると駆け出す。  たった五分の距離だ。  岸田邸の従業員通用口までもうすぐ。  肉食獣に追われた小動物が巣に逃げ帰るように、瑠佳は全速力で駆け抜けた。 「――ねぇ、君」  しかし、屋敷の壁に沿って角を曲がった時。正面にいかつい男性が現れて影が落ちた。焦る瑠佳を静かに見下ろしている。 「なんで……しょうか?」  身体つきの良さから、アルファだとわかった。  表情は能面のように冷たく、目はギラギラと血走っている。呼吸は荒く、性フェロモンを過剰に分泌していた。むっとする香り。彼がヒートしている証拠だ。  額から一筋の汗が流れる。  この男と面識はない。  向こうも瑠佳のことを知らないようだった。 「――――っ!」  肩が抜けそうなほど強い力で腕を引っ張られ、屋敷まであと少しというところで捕まってしまった。 「いやだ! 離して!」  ヒートしたアルファに捕らえられたオメガが、どんな目に遭わされるか。一瞬で考えて必死に抵抗した。しかし暴れると担ぎ上げられてしまう。 「誰か……助けてっ!」  街行く人に叫んだが、一瞥をくれるだけで誰も助けてくれない。むしろ面倒事に巻き込まれたくないと足早に去っていく。  愕然とした。  これがオメガに対する扱いなのだ。  どんなに人権回復運動が盛んでも、国が保護施設を作っても。  性フェロモンを発散させて街を歩いたオメガに、人々は冷たい。  アルファがオメガを強姦しようとしても、誰も助けてはくれないのだ。自業自得と言わんばかりに。  これがオメガの人権の低さを如実に表していた。  本来ならば、どんな理由があろうと強姦したアルファが悪い。しかし世間では、性フェロモンでアルファを誘惑したとして、オメガが悪者にされるのだ。  現実に打ちのめされた。  それでも瑠佳は必死に抵抗し続けた。  建設途中のビルの隙間にある路地に放り込まれ、したたか尻を打つ。  どん詰まりの造りだとわかっていても、立ち上がると奥へ奥へと逃げてしまう。 「こ、来ないで!」  行き詰まりの壁に背中をつけると、瑠佳は精一杯男を睨んだ。  岩のような顔にねっとりとした笑みを浮かべると、男は舌なめずりし、ズボンのベルトに手をかけた。  そこからエレクトしたペニスを引き摺り出す。  吐き気がした。  それは自分にだってついているものなのに、赤黒くて禍々しくて、まるで違う生物のように見えた。  瑠佳は男の脇を通り抜けて危機を打開しようとしたのだが、易々と捕らえられ、ジーンズに手をかけられる。 「いやだっ!」  両手で引っ張り上げて脱がされまいとしたが、男の方が力が強く、瑠佳のジーンズは細い腰から抜けてしまう。 「あぁっ!」  下着ごと脱がされて、縮み上がった性器を掴まれた。  ぐにぐにと揉みこまれ、嘔吐する。吐しゃ物が男の腕を汚した。  ――気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪い! 気持ち悪いっ!  瑠佳の頬を涙が伝う。屈辱の涙だった。  がさついた無骨な指はさらに奥へと進んでいき、瑠佳の後孔を捉える。 「やぁーっ!」  ぐりっと指を入れられそうになって、喉が裂けんばかりに叫んだ。 「瑠佳っ!」  その時、男の背後で何かが煌めいた。  高く振り上げられたそれは、ガツッと鈍い音を立てて後頭部を打ち据える。  前のめりに崩れ落ち、男はあっけなく倒れた。完全に気を失っているようだ。 「大丈夫か!?」  きらりと光った物は鉄パイプで、路地に落ちていたことを思い出す。  同時に足から力が抜けて、ぺたりと地面に座り込んだ。 「瑠佳? 瑠佳!?」  スーツが汚れることも厭わず、膝をついて肩を抱いてくれたのは三峯だった。  恐怖から解放されて放心状態の瑠佳に、ジーンズを穿かせてくれる。 「三……峯、さ……」  屈辱の涙は安堵の涙に変わり、彼のスーツに縋りついた。 「三峯さん……三峯さん……」 「もう大丈夫だ。大丈夫だよ、瑠佳」  優しく背中を撫でられて、いつしかしゃくりあげながら大粒の涙を零していた。

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