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第5話
【2】獣の刃
ルフュージュとは、フランス語で避難所を意味する。
西洋の処女信仰と、武家社会の不義密通が複雑に絡み合い、発情期にアルファを惹きつけるオメガは貞淑でないとされ、日本では近年まで差別意識が強かった。
しかし戦後、オメガの社会的地位の低さを国際社会から非難され、日本は彼らの人権と権利を回復させようと、あらゆる改革に乗り出す。
その中で最も重要視されたのが、保護だ。
権利だけでなく、不本意にアルファに強姦されてしまうオメガの心身を守ろうと、オメガのみが入所できる保護施設を作った。それがルフュージュだ。
ルフュージュへの入所は個人の自由とされ、一生ルフュージュに入らないオメガも多い。
瑠佳ももともと入るつもりはなかったが、三峯と出会ったその日の夜。初めて発情期を迎えた瑠佳は、ルフュージュへの入所を秋廣に勧められた。
「若いうちにルフュージュに入っておくことに、なんのデメリットもない。一度入ってしまえば、国の助成金で中学から大学まで卒業することができるし。何より発情期がきても、アルファに襲われるかもしれないという恐怖を感じなくて済むよ」
普段から一緒にお茶を飲み、花見の会まで呼ばれるようになった瑠佳は、この頃すでに秋廣をじつの兄のように慕っていた。
聡明な彼の言葉は最も正しいことに思えたし、何よりルフュージュに併設されている学校へ通えば、学費などの経済的負担が減らせる。
秋廣からもらった助言と、家計への負担軽減のため、瑠佳は中学入学と同時にルフュージュへ入所した。
全国数か所あるルフュージュの中でも、瑠佳が入所した施設は最小規模のものだった。
入所者数は発情期を迎えた十歳から二十二歳までのオメガ、百五十人。瑠佳の学年は十六人しかおらず、一クラスしかなかった。
外観は人里離れた山の中にぽつんと立つ、学校のようなものだ。
たとえ身内であっても、ベータとオメガしか入れない施設のため、塀や入り口は刑務所のように物々しい。しかし内部は広い校庭に果樹園、農業学部が管理する畑や家畜小屋、園芸学部が手入れする庭園まであり、閉塞感はまったくなかった。
日用品が購入できるコンビニもあり、寮では一人一部屋与えられ、自由にテレビを観ることもできた。病院だってあった。
けれども見方を変えれば、それしかないということだ。
発情期の時はありがたい施設だったが、そうでない時はじつに退屈なところだった。
教職員や寮長たちとの関係は良好で、一学年の人数が少ないことから、みな仲も良かった。だから生活面において不満はなかったが、好奇心旺盛な子どもが過ごすには何もなさすぎた。
「ねぇ先生。どうしてここには何もないの?」
ぽつりと訊ねると、
「ここには何もない代わりに、絶対的な安全があるんだよ」
ベータであるベテラン教師はそう言った。
瑠佳は彼の言葉に納得した。
――なるほど。何もない代わりに、僕たちオメガは絶対的な安全を手に入れてるんだ。
施設を出た後も、この考えはすべての根底にあった。だから今でも、瑠佳は滅多に岸田邸から出ない。
屋敷で必要な物は他の使用人が買いに行くので問題なかったし、本や服など個人的な物は通販で買えた。どうしても瑠佳でないとできない用事の時しか敷地から出ない。なので外出は年に数回だ。
こんな生活を退屈だと思うが、俗世から隔離され、娯楽を捨てることで、身の安全が確保されている。
故に瑠佳は、私設のルフュージュのような岸田邸から出ない。自分は将来秋廣と結ばれるため、純潔を守らなければいけないのだ。
瑠佳は読み始めたばかりの本を閉じ、ベッドに横になる。
自室の上部の細い窓から、温かい午後の日差しが入り込む。
机の上にあったペーパーウェイトのプリズムが、その光を七色に分散させていた。
「綺麗……」
呟いてからため息をついて目を閉じる。
他の使用人たちは、今頃忙しく働いているだろう。
本当は自分だって働きたかった。今週は銀食器を磨こうと思っていたのだ。
しかしそれもできなかった。
三峯が裏庭に現れた日曜日。雨に打たれたのがいけなかったのか、瑠佳はひどい風邪をひいてしまったのだ。しかも今月の発情期と重なって、体調は最悪だ。
ただでさえ発情期は身体が怠く、微熱が続き、集中力も散漫になる。
一見、風邪の症状とよく似ているが、性フェロモンの発散が強くなるので発情期だとわかる。
瑠佳が初めて発情期を迎えた時も、最初はただの風邪だと思われた。けれども過剰な性フェロモンの発散に父親が気づき、発情期だとわかった。瑠佳の母親もオメガだったので、父親にはその知識があったのだ。
しかも、風邪薬と発情期抑制剤は飲み合わせが悪い。たとえ一緒に飲んだとしても互いの効果を打ち消し合い、まったく効かないのである。
そのため瑠佳は、今回は風邪薬を飲むことを選択した。一刻も早く鼻水と咳を止めたかったのだ。おかげで三日ほどで風邪の症状は治まった。
しかしこの期間は、アルファを惹きつける性フェロモンの抑制が効かないので、部屋にこもって静養するよう秋廣に言われた。屋敷には秋廣以外のアルファはいないが、三峯をはじめ多くの客人が出入りする。大事を取っての休みだった。
「はぁ……退屈」
体調もよくなり、発情期も終わりに差しかかると、体力と時間が余って仕方がない。
発情期抑制剤が飲めないということは、性欲を抑えることもできないので、瑠佳は身体の芯が疼いて大変だった。普段はまったくしないのに、発情期に入ってから毎日のように自慰をしている。
「ほんっと、最悪」
両腕で目元を覆って吐き捨てた。
自慰は嫌いだ。
行為に打ち込んでいる時はいい。ペニスを扱き、分泌液が溢れるアナルを弄り、ただただ快感に酔いしれて絶頂を迎えればいい。
しかし射精した後、一気に虚しさが襲ってくる。あぁ、やってしまった……という後悔にも苛まれた。
「これもみんな三峯さんのせいだ」
ぷくっと頬を膨らませたまま、ごろりと寝返りを打った。
壁に貼られたカレンダーが目に入る。
今日は秋廣の誕生日だ。
ずっと前から楽しみにし、何をプレゼントしようかワクワクしていた。
しかし考えれば考えるほど何をプレゼントしていいのかわからなくなり、そうこうしているうちに風邪をひいて発情期に入ってしまった。
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