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第1話

1  左側のデスクに座る西島(にしじま)が、低い呻きを漏らした。  大輔(だいすけ)はパソコンの画面から顔を上げ、山積みになった資料ファイルの向こう側を覗く。西島の報告書は白紙のまま、一時間前とほとんど変わらない。  刑事部組織犯罪対策本部暴力団対策課。一昔前は『マル暴』が略称だった部署だ。今は『組対』と呼ばれているが、所属する刑事たちの外見は『マル暴』の方が似合う。  三宅(みやけ)大輔とコンビを組んでいる西島もそういうタイプだ。ヤクザよりもヤクザらしい固太りの体格に、短く刈り込んだ髪。顔は岩のようにゴツゴツしていて、いかつい。 「よー、西島。聞いたか。あれ」  西島に声をかけたのは、同僚刑事だ。ガラガラした声を出しながら寄ってくる。こちらも、本職顔負けのいかつい雰囲気だ。 「なんだよ」  西島は、うっとうしげに返事をする。苦手な書類仕事のせいで目に見えて苛立っていたが、同僚刑事は気にもしなかった。西島の手元を覗き込む素振りで身を寄せる。何ごとかを耳打ちした。  密談の気配を察した大輔は視線をそらした。盗み聞きをするつもりはない。  パソコン画面に向き直り、キーボードの上に指を乗せる。 「おい、大輔」  数行も進まないうちに声がかかった。コマ付きチェアに座った西島が近づいてくる。 「なんですか?」  同僚刑事はすでに西島から離れていた。自分のデスクへ戻っていく背中が見える。 「おまえ、知ってたか」 「知りません。っていうか、狭いです」  西島のチェアを食い止めた。二人を隔てる荷物の山を越えるのはいいが、大輔に並ぶのには無理がある。 「大滝(おおたき)組の伊達男が、年貢を納めるらしいぞ」  西島を阻むことに必死になっていた大輔は、 「はい?」  間の抜けた声を返した。  広域指定暴力団・大滝組は、関東一帯をまとめ上げている大組織だ。そこの『伊達男』と言えば、一人しかいない。  大滝組の核になっている『直系本家大滝組』の若頭補佐・岩下(いわした)周平(しゅうへい)のことだ。  インテリ臭漂う三つ揃えと、怜悧な印象の眼鏡がトレードマークで、女衒でノシ上がった経歴に裏打ちされた男の色気を感じさせる、いわゆる『絵に描いたような二枚目』。  実際に会うと、恐ろしいほど濃厚な存在感がある。ヤクザというよりマフィアの幹部だ。面と向かったときのことを思い出したが、西島には秘密にしている話だ。うっかり口にはできない。 「だからな。結婚、するらしい」  西島の太い腕が、大輔の首をぐいっと引き寄せた。 「は?」  大輔は思わず身を引く。男くさい汗の匂いには、かすかな加齢臭が混じっている。 「結婚って、あの岩下がですか? 誰と」 「そこだよ」   大輔が嫌がっているのをわかっていて、西島はなおも首に腕を回してきた。肩にずっしりと重みがかかる。 「真偽を確かめてこい。相手の女の情報もな」  西島の拳がぐりぐりとみぞおちをえぐってくる。やめてくださいよと押し返した手に紙の感触がして、大輔は目を伏せた。押しつけられたのは、一万円札だ。 「軍資金。……頼んだぞ、エース」 「うぇ……」  思わず呻いた。『できれば』なんてのは建前で、本音は『絶対に』『どうしても』だとわかる。  カンパなんて初めてのことだし、『エース』などと持ち上げられたら、事の重大さは説明されなくてもお察しだ。 「書類は、誰かに押しつけておくから」  早く連絡してこいと言わんばかりに引かれたチェアがくるりと回る。肩を押された大輔は立ち上がった。背もたれにかけていたスーツを手にする。携帯電話は胸ポケットの中だ。  フロアから廊下へ出る直前、別チームの安原(やすはら)たちとすれ違った。軽く会釈した大輔の耳に、会話が聞こえてくる。 「縁故なら、勢力図が変わるぞ。きっちり、調べとけよ」  しわがれ声の安原と話しているのは、後ろに続いている若手刑事だ。  大輔は気を引き締め直した。手柄争いはすでに始まっている。西島が軍資金を握らせてきたのも、安原たちを出し抜きたい一心だろう。  結婚するだけで警察をざわつかせる岩下が若頭補佐に就任して二年。情報のガードは硬いままだ。  岩下の動きはいつもトリッキーで、大滝組でいざこざが起こっても、それが収まっても、後ろで糸を引いていると噂される。真偽は確かめようもないが、息のかかった人間が確実に噛んでいて、後からよくよく考えれば……ということが多い。  ずっと独身を通してきた色男がどんな美女を選んだのか。それも気になるところだが、恋愛結婚だとは誰も思っていない。安原たちもそうだ。  岩下の本性を考えれば、政略結婚としか思えない。  東の大滝組、西の高山(たかやま)組。それが暴力団の二大勢力だ。  西の高山組は先の後継者選びの遺恨を引きずり、平穏を取り繕った水面下で分裂の危機を抱えている。  大滝組だけが、うまく世代交代できるはずもないだろう。次期組長としてもっとも有力なのは、現組長の娘婿・若頭の岡崎(おかざき)だ。岩下が後押ししてきた兄貴分でもある。  だが、岩下自身が組長候補の神輿に乗るという話は後を絶たない。  今回の結婚が事実で、幹部の誰かと縁戚関係を結んだとしたら、岡崎と岩下の間に亀裂が入った可能性もある。そうなれば、大滝組の後継者争いはいっそう熾烈だ。  暴力団の組織内が荒れると末端が食えなくなって軽犯罪が増える。警察としては、その辺りも懸念事項だ。  廊下の突き当たりで携帯電話を取り出した大輔は、人目を避けながら電話帳のアプリをいじった。  探すのは、クリーニング店の電話番号だ。相手はもちろん、クリーニング店なんかじゃない。  発信ボタンを押して画面を見つめる。  大輔から連絡を入れるのは一ヶ月ぶりだ。向こうからは一週間に一度、頼んでもいないのに連絡が入ってくる。ワンコールで切れる電話は、着信履歴に名前が残る。それを確認するだけで、大輔が折り返しを入れることはなかった。  そういう関係ではないからだ。田辺(たなべ)との関係は、仕事以上のものじゃない。  通話中の文字が出て、大輔は携帯電話を耳へ押し当てた。 『まだ仕事中の時間だろう? 外回りしてんの?』  名乗りもしない声が、回線の向こうで笑っている。後ろから聞こえるのは、喫茶店に流れる有線放送だろう。  ヤクザなんて、いい気なもんだ。そう思いながら、大輔は靴の先で廊下の壁を蹴った。 「今夜。十時でいいか」  出し抜けに言う。田辺はひっそりと笑った。 『あんたのためなら、今からでもいいけど……』 「いつもの部屋で」 『……あー、マジで? なら、八時にしてよ』  若い男の声は、いつも通りの軽薄さだ。会わなかった間も、暮らしに変化のなかった証拠だ。 「じゃあ、八時。俺は明日も仕事だからな」 『泊まれよ。一週間、同じ服でも、気づくヤツなんかいないだろ』 「うっせぇよ」  画面に向かって悪態をつき、大輔は通話終了のマークを押した。高性能なマイクは、きっちり音声を拾っただろう。  田辺のしかめ面を思い出し、大輔の胃は重苦しくなった。  シャレた眼鏡をかけ、高級スーツを颯爽と着こなすインテリヤクザ。大滝組構成員の田辺は、大輔の情報源だ。  部署内でも、西島にしか知られていない。投資詐欺を主たるシノギにしている田辺が、若頭補佐・岩下周平直下の舎弟だからだった。

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