2 / 6

第2話

 西島から握らされた一万円札なんて、何の足しにもならない。  恐ろしく金回りのいい岩下の舎弟が、ご飯を食べさせ酒を飲ませたぐらいで、情報をぼろぼろこぼすはずがないのだ。たった一万ぽっきりじゃ、キャバクラだって危うい。  それとも、何もかもを知った上で、ねぎらいのために渡してきたのかと考え、大輔はぶんぶんっと頭を振り回した。  知られているなんて、思いたくない。  エレベーターホールを出て、右に曲がる。そこそこ高級なホテルだ。廊下にはクラシック音楽が流れていた。  自分の価値は一万円かと悪態をつき、大輔はふいに足を止めた。だいそれた金額だと思う。今年で三十一になる男の身体なんて、二束三文だろう。それとも、売ってみれば、それなりの金になるのか。それこそ、岩下が得意とする分野だ。  元は雇われ女衒だった男も、今では会員制高級デートクラブの経営で荒稼ぎをしている。岩下の金とコネの使い方はヤクザらしくなく、警察でさえ舌を巻くほどだ。  会員リストのメンバーが別件で事件を起こし、これを機に家宅捜索へ乗り出そうとしたときは、令状を取る寸前で警察官僚の名前が出てきて、こちらが慌てふためく結果になった。  デートクラブの若い男を買っていたという噂だったが、田辺から聞いた真相は、大輔の想像と違っていた。  官僚側が、買った若い男の下になっていたらしい。つまり、掘られる側だったということだ。現場を収めた、えげつない写真を岩下が持っているとか、持っていないとか。どちらにせよ、真実は闇に紛れ、官僚は地方へ飛ばされた。  笑えない話だと、大輔は思う。  官僚はどうでもいい。問題は行為の方だ。  男が、男に掘られる。ケツに入れられて、セックスをするわけだ。抱かれる、なんて言い方はふさわしくないと思う。  真顔で廊下を歩いた大輔は、見慣れた番号の前に立つ。眉根を引き絞った。  握らされた一万円札を思い出し、だから来たのだと自分に言い訳する。これは仕事のひとつだ。  刑事と、ヤクザ。大輔と、田辺。  二人は、利害関係のあるなしの前に、男同士だ。  なのに大輔は、一週間に一度、履歴にだけ残る着信を待っていた。大義名分を必要とする自分の本心なら、とっくに自覚している。  ときどきは、呼び出し音に気づいた。そろそろだと思うこともある。でも、ワンコールの電話はすぐに切れる。折り返すこともない。  なのに、着信が十日もなければ、胸の奥がざわめいて仕方がなくなる。岩下の舎弟である田辺は、いつ、どんな事件に巻き込まれてもおかしくない。ヤクザなんてそんなものだ。  事件がなくても、連絡が途絶えたら、二人の関係は終わりになる。田辺が終わらせると決めれば、大輔から連絡しても相手には二度と繋がらない。  この関係を続けるかどうかの主導権は田辺にあるのだ。大輔はただ、情報欲しさに身体を開くだけだった。  ドアを決めた数だけ叩き、もう数回。そして、最後に三つ。  チェーンをはずす音がして、わずかに開いたドアの隙間から腕が伸びてくる。手首を掴まれ、部屋の中へ引きずり込まれた。 「んぅ……」  相手を確かめる暇もない。ドア裏の壁に肩がぶち当たり、大輔は顔をしかめた。頬を両手で押さえられる。間違いなく、田辺だ。  認識したと同時に、相手の膝が足の間へ割り込んできた。顔が近づいてきて、キスされる。大輔が肩を殴っても、田辺は知らんふりでキスを続ける。  下くちびるに吸いつかれ、息を継いだ瞬間を縫った舌が、ぬるりと絡んできた。生温かくて気持ち悪い。  なのに、息は弾んだ。短い呼吸を繰り返し、大輔は目を伏せる。薄く開いた視界の端で、改めて互いの顔を確認し合う。  田辺は一ヶ月前と何も変わらないように見えた。  女泣かせの整った顔立ちのアップに、大輔はこみ上げてくる笑いを噛み殺す。男相手に、何を必死になっているんだと、からかいたい気持ちの裏に、同じ言葉をかけられたくない本音が渦を巻く。  行き場のない拳が、田辺の手にほどかれ、指が絡む。  こんなことは悪趣味だ。  会うたびにそう思うのに、互いの行動はますます酷くなっていく。 「一ヶ月ぶりの、キスだった? もう、勃起してるけど、こっちはいつ、いじった?」   腰をすり寄せられ、逃げ場のない大輔は息を詰める。答えようにも、くちびるを吸われ通しで声にならない。 「……っ。いい、かげん、に……」 「まだ一ヶ月で呼び出してくるってさ……。こっちが寂しくなったってことだろ?」  相手の腰骨にごりっとこすられ、スラックスを押し上げる股間が脈打った。 「妄想、だっ……。やめろ、バカ」  互いの腰の間に手をねじ込み、ワイシャツ姿の田辺を押し返す。 「あんたにしては、早い勃起だよ。理由があるんだろ? もしかして、久しぶりに嫁とヤッたとか?」  胸を押し返す手が掴まれ、大輔はもう片方の手を拳にして、田辺の肩へ思い切りぶつけた。顔をしかめた田辺の手が、どんっと壁を殴る。 「……嫁を孕ませたとか、そういうの?」  ぎりっと厳しく見据えられ、大輔は呆然と肩を落とした。 「お疲れだな、おまえも……。バカ言ってんなよ」  田辺を押しのけて、部屋の奥へ入る。  三つ年下の倫子(のりこ)と結婚して七年目になる。冷めきった夫婦関係はそのままの温度で継続中だ。昼も夜もなく働く大輔は、ときどき小遣い用の銀行口座から金を引き出すだけで、自分の給料がどうなっているかも知らない。  マンションに帰れば必然的に顔を合わせたが、近況の報告さえしなくなっていた。 「いまさら、そういうことする仲じゃねぇよ」  ジャケットを脱いで、椅子の背に投げる。ネクタイの結び目を指先で引っ張ってゆるめ、煙草を口にくわえてからほどいた。 「男は信用ならないからなぁ。あんたなんか特に。誰にでもついて行きそうで……さ」  いつのまにか背後へ寄っていた田辺が両肩を掴んでくる。大輔は肩越しに睨んだ。 「おまえほど暇じゃない」 「そんなご多忙な中、俺を選んでくれたってこと? うぬぼれそう」 「それ以上、うぬぼれるな。めんどくさいから」  煙草を指に挟んで笑うと、田辺がテーブルに置いたライターを手に取った。火を向けてくる。  私用では声がかからないと承知している田辺の顔からは笑みが消え、大輔も黙って煙草に火を移した。赤く灯り、フィルターに包まれた葉っぱが燃えていく。  煙を吸い込んで、煙草をくちびるから離す。すると、奇妙な侘しさが湧き起こる。  煙草が離れてさえも物足りなく感じるくちびるの感覚は、大輔をひどくいたたまれない気持ちにさせる。  田辺との関係が始まって、もう三年だ。初めは最低だった。それが低空飛行のまま続いて、どうしてだか、お互いに終わりを見つけ出せないでいる。  田辺だけが岩下の窓口だなんてことは、体のいい言い訳だ。それだけのことで、男同士がこんなに長く、肉体関係を続けていられるはずがない。  三年前はまだ二十代だった二人も、今はもう三十路に片足を突っ込み始めている。  そろそろ潮時だ。そう考えた大輔は、二ヶ月に一度の関係を、三ヶ月に一度に伸ばし、四ヶ月に一度に変えてみた。確かに肉体関係は回避できる。でも、やっぱり二ヶ月に一度は酒を飲んでいた。身体を重ねないまでも、顔を合わせているのだ。仕事という大義名分がなければ、友人関係になれるわけでもない。越えてしまった一線を引き直すことは容易じゃなかった。

書籍の購入

ともだちにシェアしよう!