「うえぇぇ……」 　扉を開けた途端、とてつもない異臭が鼻を刺して、オレは思わず、その場に座り込んだ。 　部屋から変な臭いがするなんて、綺麗好きの幼馴染らしくもない。アイツの机周りはいつだって綺麗だし、部屋も小さな頃からずっとずっと、綺麗なままだった。 　それなのに、こんな異臭がするなんて。よっぽど調子が悪いんだろうか。トイレまで我慢できずに吐いてしまった、とか？　でもそれなら、アイツの母親に部屋へ行くのを止められるのも納得する。それだけ調子が悪いんだったら、アイツも人と会いたくないだろうし。 　……でも、アイツの母親は仕事熱心だけれど、子供を放っておく人でも、子供の不調に気付かない人でもない。アイツが高熱を出した時は、いくらアイツが隠し通そうとしても簡単に気が付いて、適切な処置をしていた。それが夜中だって、仕事の途中だって、アイツの傍にいて、必要があれば病院へ連れて行くような人。 　そんな彼女が、そこまで調子の悪い息子を放っておくなんて事も、やっぱり有り得なくて。 　じゃあ、なんで。 　「見るな」「顔を上げるな」と、うるさいくらいに訴える本能を無視して顔を上げたオレの目に映ったのは、散々訪れた幼馴染の部屋とは似ても似つかない惨状だった。 　いつも綺麗に磨かれていた床は、ある場所を中心に酷く汚れている。色々な液体を、種類問わずぶちまけたみたいに。 　その汚れも様々で、黄色味がかったものや、半透明のもの。茶色いもの、赤黒いもの。元の色なんて分からないくらいに、元の色なんて分かりたくないくらいに、ぐちゃぐちゃになっていた。多分、異臭の根源はコレだ。 　吐瀉物に、糞尿に、血液。 　そして、それらの中心では、ゆらりと、見慣れないインテリアが揺れていた。 　結構大きい。アイツくらいはありそう。 　それに見慣れたパジャマを着ていた。床と同じような色で汚れてはいたけれど、間違いなく、アイツが持っているパジャマの１つ。 　ところでオレの幼馴染は料理が得意なんだ。だからよく、オレに手料理を振る舞ってくれた。左手に握った包丁がリズム良く食材を刻んでいく音は、オレにとって心地良くて、それだけですっかり腹が空いてしまうのだ。 　その包丁も、見慣れないインテリアに突き刺さっていた。あるべきはキッチンなのに。アイツは使った物を元の場所にきちんと戻すし、自室に包丁を持ち込む事なんてしないのに。 「……なん、で……。ねぇ、なんでっすか？」 　……分かってる。本当は全部、分かってる。見慣れぬインテリアはインテリアなんかじゃないって事。アイツの首吊り死体だって事。 　包丁が刺さっているのはアイツの胸元だって事。 　だから血のにおいがするし、首吊り自殺の結果として弛緩した体から、体内の何もかもが流れ出て、部屋を異臭で満たしていると。 　でも、なんで。なんで、アンタがこんな風に自殺なんてしているんすか。そんなに思いつめていたんすか？　今まで１５年以上も一緒に居て、色々な事を話してきた。喜びも、悲しみも、時には憎しみだって一緒に積み上げてきたのに、そんなオレにも相談出来ないくらいに？ 　オレもオレだ。なんで幼馴染が苦しんでいるのに気が付かなかったのだろう。アイツは、胸を刺して、更に首を吊るなんていう、「少しでも助からない可能性を高くする」方法で自殺するほど思いつめていたっていうのに。 　昨日の別れ際は極々普通だと思った。１０年以上続いている、いつもと同じ別れ際だって。それなのに何で、いつもと変わらずに訪れる筈だった「明日」は、こんなにも変わり果てた姿で、オレを迎えたんだろう。 　それとももう、あの時アンタは覚悟を決めていたんだろうか。オレがアンタの自殺を止められる最後のチャンスを、オレはみすみす逃していたんだろうか。１人、おめでたい事を考えていたばかりに？　大分覚悟を必要としたとは言っても、自殺を決心してしまったアイツに比べれば、おめでたい考え以外の何物でもないじゃないか。 　……今日、１０年以上続いた朝は、終わりを迎えると思っていた。良くも悪くも、幼馴染ではいられなくなると。 　オレはピアスを開けているけど、アイツにピアスホールはないから。アンタの好きなメーカーで、オレのピアスとお揃いのイヤーカフを買っていた。「ずっとずっとアンタが大好きなんすよ」「愛してるんすよ」そうやって、告白しようとして。 　幼馴染でさえいられなくなるのが嫌で、随分時間を掛けてしまったけれど、昨日アイツを待っている間クラスメイトと話したのも、オレの背中を押してくれたのだ。 　だから、幼馴染としての朝は、もう訪れないと思っていた。思っていたけれど。 　アイツに贈る筈だったイヤーカフの入った箱が、オレの制服から転がって、床の、綺麗な部分に落ちる。 　死んでしまったアイツに渡せる事もなく。アイツに流れていた血液にさえ、触れる事もなく、なにもない、綺麗な床に。