2 / 12
第2話
シャークスモールクレスト重工業株式会社の本社は大きなセントラルパークを持った洒落た外装と引けを取らない内装をしていた。デザイナーこだわりの1階には自社の新製品を展示し、フードコートやビアガーデンのあるセントラルパークからよく見えた。2日交代で2人並ぶ4人の受付嬢は快活で器量も良く、機転もよく利いた。顔を合わせず、挨拶も小声なセオノアにも彼女は別け隔てなく話し掛けた。それが厄介なものだとは思わなかった。彼女たちの仕事であると理解していたから。営業の質を下げないためのものだと分かったいたから。それでも上手くは話せなかった。少しずつ、少しずつ、同じ会社の一員であることの認識と共に個人的な会話も交わすようになった。同僚や先輩からは時折冷やかされもしたが、彼等もまた彼女とはよく話していたし、仲も大変良いくらいに思うほどだった。セオノアの生活を一変させる罠がその頃から張られていたものなのか、セオノアだけを狙っていたものなのか、それを知る由はない。
惣菜弁当を買って社員住宅へと帰った。陰鬱だった。部屋には必要最低の物しかない。後は前の住民の置いていった物が纏められていたため、それを借りた。扉が叩かれる。集金かと思い扉を開けると黒髪の女が立っていた。赤い双眸が真っ直ぐにセオノアを見ている。表情はない。見た目こそ美しいが、不気味さに扉を閉めた。ドアスコープから覗き見る。長身の女はまだいた。身震いして部屋へと戻る。然るべき機関に通報しようか。だが赴任して間もなく騒ぎは起こしたくなかったし、何より完全に知らないという相手でもない。
「か、かか、帰って、くださ…!い、要らないです!」
安い作りの住宅はドアも薄かった。おそらく壁も薄いだろう。また女性問題をとやかく言われたら。頭を抱えて蹲った。ここでも居場所を失ったら次はどこへ飛ばされるというのだろう。故郷でも人付き合いを避けてきたが近くの店の店員の顔や近隣住民の顔や名前や習慣くらいは覚えていた。だがここは土地すら知らない。心細さが落ち込んだ彼をさらに苛んだ。
「蜜柑、食べてください。元気が出ます」
謎の女の声が曇って聞こえた。まだいたのか。ドアスコープで確認すると、女の姿はなかった。
上司は優しかった。毎日話し掛け、話題が途切れてもまた懲りずに雑談を仕掛けた。上手く話を続けられずに終わらせてしまうことへの申し訳なさを抱きながらも、屈託なく接する姿勢に少しずつその罪悪感も薄らいでいった。彼は誰にも、やはり分け隔てなかった。部下からは慕われ、上層部からの信頼も厚かった。既婚者である彼が受付嬢の中でもとりわけ人気が高かった女性社員と不倫の関係にあると噂が出たのは、セオノアが彼等を慕い、信用し、安らぎ、長らく経ってからだった。それでも敬慕は揺らがなかった。
ドアを開き、ノブに掛けられた袋を手に取った。蜜柑がいくつか入っている。知らない相手ではない。けれどまた騙されたら。知らない相手ではないから。罠だったら。高額な請求をされはしないか。近隣住民に有る事無い事吹き込みはしないか。疑いの念が次々と溢れていく。あの女を信じたいというのはあった。だが一度の大きな裏切りがそれを簡単にはさせない。裏切り。セオノアの脳裏を過ぎった単語。そもそも裏切りなどではなく、それを正当な扱いとして、彼女は、彼は、近付いたのではなかろうか。不倫の噂が流れた頃から、疑惑を逸らすために。最初から隠れ蓑にするつもりだったのではあるまいか。怒りを上回った悲しみに視界が滲んだ。何も無い、まだ慣れもない部屋が四方八方から新たな入居者を責める。食べかけの弁当の味もどこか他人行儀だった。望んだものだ。望んだことだ。この地では失敗したくない。ふらふらと狭いユニットバスに入り、濡れた髪も乾かないうちから分厚い寝袋に入った。
仕事仲間として好感を抱いていた彼女と、尊敬していた上司の社内での密会を目撃してしまったのが全ての始まりだったのだと思う。セオノアは何度も考え、考えたところでどうにもならないことを知った上で、何度も何度もあの日を過ごす。
数日間は何事もなく仕事をこなしていた。本社と違い建物的にも企画部やデザイナー部、営業部たちと顔を合わさず済んだし、片田舎の工場にはオフィスはあれど華やかな受付嬢などはなかった。直接外にある事務所に行けばいいので所長以外であれば作業に関わるような最低限の会話だけだった。ぶっきらぼうだったり吃ったり、小声だったり早口だったりなどはあったが特別、彼等・彼女等が喧嘩腰や不機嫌でないということも理解していたし本社であれば殺伐とした空気がむしろ心地良くすらなっていた。
工場で今日の作業に使う部品と部品を繋ぎ合わせていると、少し遅れてやってきた所長が薄暗い工場の中で強くライトの当たる作業机の前に立った。淡い人影に手元を狂わせる。
オウミ様の誘い断ったんだってな?まぁ、お前さんの自由ではあんだが…
溌剌とした所長に似つかわしくない難しい顔で、歯切れの悪い物言いだった。張りのある脂ぎった頬を太く短い指で擦りながら、苦々しげにまるで相談を持ち掛けるような調子で話す。
いや、お前さん、断りそうなツラしてるもんな…まっさかクレーム入れてくるたぁな…
クレームってほどじゃぁねぇんだけどよ、と付け加えると、どうしろとも言わず、伝えるべきことは告げたとばかりに作業机を去っていく。大きな不安が過ぎった。手にしていた金属部品が温くなっていた。それを作業机へ投げ捨てるように所長を追った。
「め、迷惑、かけ、か、かけま、せん!」
所長は事務所に戻ろうとしていた。身を翻し、肩を竦める。
別にメーワクとは思ってねぇさ!一流企業はクレームが尽きねんさね!
所長はげらげらと笑った。だが長くは続かず短すぎるほどに短く、快活な中年男の表情は固くなる。
ただオウミ様が関わってくるとなぁ…お偉いさんどころじゃねぇから…
やはり苦々しく言い、話は終わったとばかりに「仕事に励めや」と残して事務所に戻っていく。仕事にはなかなか集中出来なかった。身が入らず、だが失敗だけはしないようにと努めた。胸が苦しいまま昼食の時間を迎える。敷地内に提携している弁当屋の炙りチキン弁当のキャロットソースは美味しかった。自由参加であることに甘え、今日ばかりは工場裏の青空食堂に行くだけの愛想笑いは出来そうになかった。昼食の場に選んだ、広い駐車場がよく見える防災倉庫裏はアスファルトにハルジオンが芽吹いていた。敷地のあちこちに置かれた、まるでベンチにでもしろといわんばかりの滑らかなコンクリート廃材に腰を下ろす。弁当を食べていると視界が陰った。気配も足音もなく、ただ微かな甘い柑橘の香りが漂った。セオノアは顔を上げる。逆光した女。赤い双眸が静かに驚愕に目を剥く若者を見下ろしている。
「オウミ様には貴方が必要です」
「っひッ」
全てを忘れ、悲鳴を上げかけた口元を冷たい指が押さえた。唇に人差し指と中指、薬指が添えられる。長く艶やかな黒の毛先が頬を撫でた。
「オウミ様には貴方が、」
「あッ、あっ、あなたは、だ、誰なんで、すか…なんでオレに付き、つきつき、付き纏うんで、すか…!」
女の手を振り切った。
「………シャヤと申します。以前、お会いしたかと」
悲しそうな顔をされ、女は名乗った。聞き覚えがある。
「し、しました!しましたけど!そんな親しく…ないはずです…!」
女は唇を尖らせ、美しい眉を下げ、さらに鬱ぎ込んだ顔をした。
「沢山お話をさせていただいたと思います…オウミ様と同席させていただいたときに」
ハーブレイと共にいたときに話をしたのは他にひとりしかいない。だがそのようなはずはない。確認のつもりで半信半疑のまま、否定を待つ。流れでさらなる情報を与えてくれるかも知れない。
「ってことは、ス、スティカさ…ん?」
確かハーブレイはそう呼んでいた。慣れた名を呼ぶ。女のハーブレイと揃いの赤い目が見開いた。表情に乏しい不気味な女の人間らしい顔の動きにセオノアもつられて目を剥いた。女は光に包まれた。レーザースキャナーに似ていた。黒かった髪は色を失っていく。体格すらも変わっていた。そして下半身が羽毛に覆われ、鋭い爪がアスファルトに刺さっていた。胸部や腹部が日に照っている。互いに顔を見合わせたまま硬直していた。乾いた風が金髪を揺らす。
「その…、あの…」
「そのように呼ばれると…術が解けてしまうんです…シマウンデス…」
下半身が鳥類に酷似した半裸の男が敷地内にいる。セオノアは理解が追い付かなかった。ばさり、と分厚い布を叩きつけたような音に気を引かれると、目の前の青年のしなやかな筋肉の付いた両腕も鳥類と化していた。スティカは明らかに落胆していた。
「その、ご、ごめん…なさい…」
セオノアよりも数歳は上に思えた青年は俯き黙ったまま首を振る。意地を張っている子供のようだった。
「セオノア様の所為ではありません…アリマセン……」
「ど、ど、どうすれば元に戻るんですか…?」
「ハーブレイ様がいなければ…イナケレバ…」
スティカは再び首を振る。叱られた仔犬を思わせる仕草でセオノアの顔色を伺った。通った鼻梁が近付き、美しい顔面が視界に入りきらなくなった。唇が柔らかく包まれる。淡く赤みを帯びた光が上がる。それは埃が舞う様に似ていた。セオノアの青い瞳が内部から赤く煌めいた。身動きを取ることも忘れていると、さらに柔らかな唇は押し付けられた。光が眩しかった。目を細める。誰もいない会議室で、彼等もキスしていた。その目撃者であった。悪寒が走り、スティカを突き飛ばす。
「ちょっ…!いきなり、何…」
「これで、大丈夫です…大丈夫デス…」
「な、何が…」
スティカは平然としていた。疑問だらけのセオノアに構うこともせず、むしろスティカがセオノアを不思議そうな顔で見下ろす。
「私の名を、お呼びください。私の…仮の名を」
姿はスティカだったが声はウィンドウチャイム的な繊細さを持った女のものだった。
「シャヤさん……?」
羽毛や羽根が散る。道端でカラスの羽根を見つけたような感じがあった。気を取られているうちに、目の前には黒髪の女が立っている。スティカは全裸だったが、黒髪の長身美女は服を着ていた。セオノアは容赦のない怪訝な眼差しを隠せなかった。驚愕のあまり失神することはなかったが、白昼夢でないと理解しているくせ、白昼夢のような光景にどこか気分の悪さがあった。昼食の時間が終わる5分前のチャイムが鳴った。一度シャヤを向くが、何も言わずに食べかけの弁当を片付けた。あの時、爛漫な受付の女に言えなかったし、思わなかったこと。だが同じ轍 を踏みたくない。あの女もまた、工場を休んだ日に差し入れを持ってきた。ひとりの昼飯時にやってきた。何を企んでいる。ハーブレイとはどういう関係だ。また、スケープゴートにされるぞ!遠くない過去の傷がもうひとりの自身と化し、セオノアに敵意を抱かせる。
「すみません…そろそろ戻ります…あの、あの…もう付き纏わないでください。あと、その…クレームみたいなのも、やめていただきたいです…」
事務所へと戻った。気に掛かっていたことを解決出来たためか昼後の作業は集中できた。設計部から頼まれていた部品を製造する機械の一部も納品出来そうだった。所長に「青空食堂」だの「寄席 」だのと呼ばれるひとり所長が話す静かな昼食の場に来なかったことを心配される。気分が悪いならすぐに言えと快活な笑い声を上げて背中を叩かれた。いい仕事場だ。手放したくはない。もしシャークスモールクレスト重工業株式会社に買われ続けるのなら次に向かわされるのは極寒の地方か砂漠地帯だ。柔らかな感触の残る唇を拭う。自身を陥れた女のひとつひとつの仕草をまだ憎めないでいた。上司にすら恨みは抱けないでいる。
帰り際に突然後方から腕を掴まれた。
「オウミ様のところへお連れします」
咄嗟に掴まれた腕を振り払う。呆気ないほど簡単に手は離れた。暗い空の下で深い赤の瞳が光っている。猫の目のようだった。心臓を押し潰されたも同然の不意打ちにセオノアは声も言葉も聞いていなかった。状況を理解することすらもしなかった。長いこと呼吸をしていない感じまである。相手が誰で、何を言ったのか反芻する。昼に突き離した女がまだ懲りずにいる。
「スティ…」
「シャヤと申します」
「シャヤさん…オレが言ったこと……」
物静かな女は無表情で立っているが威圧感があった。
「オウミ様の元へお連れします」
「なんでっ!なんでオレなんですか…?」
今日1日中考えていた、答えを出す術もなく、答えがあったところでどうにもならない問いが全く的の外れた相手へ投げかけられる。
「何故?考えたこともございません。オウミ様のもとへお連れします」
「い、いやだ……」
「貴方の恐れるものはありません」
見透かしたような女の声と眼差しに立ち竦む。この女が何を知っているというのか。この工場の者はどの程度知っている。左遷の理由を。その経緯を。所長の喧しいくらいの威勢と同部署の当たり障りの無い態度が掌を返したら。
「そこまでにしろ、シャヤ」
プラスチックの軋む音がした。シャヤと2人で新たな声のほうを向く。パールホワイトを基調とし、溝を淡いオーロラ塗装のブラックで覆った義手が会話をやめろとばかりに手叩く。ハーブレイ本人が現れる。シャークスモールクレスト重工業株式会社のサメのデフォルムされ、中心から極小のドットが波紋のように拡がるロゴマークが入った作業着の下にパイロットスーツを着ていた。伸縮性に優れた薄手の特殊な繊維で作られていた。本社にもマネキン人形が身に付け、飾られていた。
「ハーブレイさん…」
「不躾な真似をしたな。すまない」
「あの…その…」
「帰るぞ、シャヤ。もう彼に迷惑をかけたらいけない」
ハーブレイが足を踏み出すたびに作業着の下の義足が小さく軋む。シャヤは歩いていくハーブレイを目で追いながらもまだセオノアに未練があるようだった。
「ハ、ハーブレイさん…」
「すまなかったな。君は人と話すのがあまり好きそうでないことは薄々感じていたのだけれど」
ハーブレイはそう言うと、まだ動かないシャヤをもう一度呼んだ。
「失礼します…」
シャヤは諦めの悪い子供に似た顔をしてセオノアの前から辞した。
「あっ、あ、の…オレ、ハーブレイさんに、何か…失礼なことをしてしまいまし、たか…?」
ハーブレイは立ち止まり、そのすぐ後ろに控えるシャヤもまた足を止める。
「いいや。何故だ?もしかすると俺のほうこそ、君に無礼な態度をとっていたかな」
「い、いえ!そんなことは、な、ないんです、けど…」
シャヤを見る。シャヤもまたセオノアを認め、そして彼女自身の主人へ説明した。
「私はセオノア様を初めて目にしたときから彼だと決めておりました」
彼女はあくまで主に報告しているだけのようだったがセオノアにも丸聞こえだった。ハーブレイは眉を顰める。セオノアは関係ないはずの、あの忘れ難い一件が呼び起こされ寒気がした。
「セオノア」
「は、はい…」
「何の話だか分かるか?」
セオノアは激しく首を振る。少し長めの髪が頬や耳を打った。
「シャヤ。彼は1人が好きなんだ。無理強いはよくない。本当にすまなかったな」
「彼は1人が好きでも、人が嫌いなわけではありません」
シャヤは突然、はっきりした口調で言い切った。ハーブレイはシャヤを睨むように見、セオノアも誰の話をしているのか一瞬分からなかった。
「ある女が孕んだ子の父親にされてしまったんでしょう」
シャヤは言った。赤い目が4つ、セオノアを捉える。ある朝に向けられた大勢の眼差し。好奇の色に染まり、ある者は的外れな尊敬や憧憬の念までぶつけていた。何か言わねば。弁解が自身をさらにまずくすることを理解していた。言葉が出てこない。何の話か分からないとばかりに恍けられ、また一方的な作り話に集う。逃げたい。口ではもうどうにもならない事態に、口ではどうにも説明出来ない恐怖に襲われたセオノアは走り出した。相手が"オウミ様"だろうと半人半獣であろうと関係がなかった。仕事を辞める選択まで浮かんだ。何故あの仮面的な女は知っているのか。皆知っているのか。
「セオノア。待ってくれ」
軋む音が聞こえる。固く平坦な質感の掌で肩を掴まれた。指の関節が折れ曲がる微弱な振動が伝わった。
「長距離走るようには出来てない」
「…なんで、知ってるんですか…みんな知ってるんですか…全部…」
返答によってはもう辞めるのだ。尻尾を巻いて逃げるのだ。技術や経験を活かせなくはなるが全く関係のない職種なら或いは可能性がある。両親を説得出来るだろうか。まず信じてもらえるだろうか。
「少なくとも俺は知らない」
「左遷 されてきたんです…不祥事を起こして……でもオレじゃない。オレじゃないんです…」
ハーブレイの顔が見られなかった。言ったところで無駄だ。愛想笑いか、恍けられるか、もしくは叱責するか、嫌味を言うか。学んだことだが学べていなかった。身を翻され、少し背の高くなったハーブレイに視界を塞がれた。
「落ち着くことだ、まずは」
肩を掴む義手が背に回る。彼の片手もまた背に回った。
「体温感知の機能を外してしまったことが悔やまれるな」
少し高いところにある口が関係のないことをこぼす。セオノアは成されるがままにハーブレイの胸の中に閉じ込められていた。躊躇いがちにシャヤも近付く。
「申し訳ございません。軽率でした」
「い、いいんです…そういうことがあったというのは……本当ですから……びっくり、しちゃって……」
「シャヤ。お前はそれをどこで聞いたんだ?」
誰からも聞いていません。静かに彼女の声は溶けていく。
「流れ込んできたのです」
「流れ込んできた?」
「口付けを交わした時に」
平然と女は答え、ハーブレイはセオノアを一瞥した。そうして理解したらしかった。
「災難だったな」
プラスチックに覆われた掌と指を模したプラスチックの合間の関節の金属がセオノアの髪を梳く。慣れない感触にセオノアは顔を上げた。柔らかな表情が星が輝きはじめた夜空を背景にセオノアを見下ろしている。
「セオノア様」
「オレは……人と話すの得意じゃない、し…つまらなくさせるだけだから……」
「それが君を苛むんだな。気にしなくていい。そのままの君を、ドライバーの礼も兼ねてもてなしたいのだけれど、やはり重いかな」
人工的な冷たい手が髪を撫でていく。心地良さにセオノアは、彼に委ねてみたくなった。頷く。
「よかった」
髪越しに額が柔らかいものが当たった。
ハーブレイに連れられ、旅館に着く。部屋に入ると女は一瞬にして金髪の美青年へと変わり、長い尾が畳に引き摺られ乾いた音をたてた。ハーブレイは義足の膝から下を外し、着替えを始める。スティカが手伝っていた。作業着の下に着ていたパイロットスーツはハーブレイの体型に合わせて丈や袖がカットされ、義手義足は装着していないことを前提とした作りになっていた。
「温泉に入ってくるといい。トモエ県の素晴らしい文化だ」
義足も外し、スティカによって窓際の赤いクッションが煌びやかなラタンチェアに座らされたハーブレイはセオノアへ風呂を勧める。
「あ、ぅ…はい…」
「スティカも一緒に入ったらどうだ」
スティカは首を振る。ハーブレイは穏やかに笑った。
「ここでは敬意の表明に背中を流す文化があるらしい。俺も支度をしたらすぐに行くよ」
「あ…でも、裸見せ合うの、恥ずかしい…です…」
ハーブレイは面食らった。そして朗らかな笑みを浮かべるも、照れ臭さが混じっていた。
「……男同士で何を言っているんだ?」
「でも、オレ…あの…あんまり筋肉とか、ないし…」
スティカの逞しい胸板や腹筋が目に入る。ハーブレイもしなやかな肉体をしていた。義手義足は強化プラスチックに覆われ軽量化が図られていたが、軸や関節部、指先のセンサーは金属であるためそれなりの重量がある。
「俺は両手両足が無いぞ………冗談だ。ここの文化は素晴らしいが押し付けるつもりもない。ゆっくり入ってくるといい」
「あ…ぁ、はい」
セオノアは道順を教えられ、浴場を目指した。ガラス張りのロビーに並ぶラタンチェアに少年が雑誌を読んでいた。深くキャスケットをかぶり、黒いマスクに大きく太い黒フレームの眼鏡をかけていた。地元では野暮な格好だが、少年の体格や雰囲気のせいか似合っていた。この地方の流行りであるならセオノアには理解に及べそうもなかったが、やはり少年には似合っていた。男湯と複数の言語で染め抜かれた暖簾の前を通り過ぎる。グレン地方は特殊であったが、大体の地方は州に統一され少しずつ言語や通貨も統一されていくらしかった。朝昼ならば温かい日差しの射し込みそうな、時間帯のせいか少し寂しさを残す長い廊下の先にハーブレイが貸し切った浴場があった。お兄さん。背後から声がした。廊下には自身しかおらず、セオノアは振り返った。キャスケットと黒マスクを外した少年が退路を塞ぐように立っていた。帽子の下には豊かな栗色の茶髪があり、被り物の跡を残していた。大きな黒フレームの眼鏡も外し、この地方の澄み渡った空を映したような淡い青の瞳がセオノアを真っ直ぐに射抜いていた。オウミ様の知り合いですか。問うた彼はもうすぐ21歳になるセオノアより少し若く思えた。
「…仕事上の、…その…はい…」
そうですか。セオノアの返答に彼はすっかり興味を失っていた。踵を返し、カーキグリーンの長丈のコートが翻った。改めてハーブレイとの関係を考えたが、やはり仕事上の付き合い以外に思い当たるものがなかった。この地へ新たに引っ越してきたり、シャークスモールクレスト重工業株式会社の支社に赴任してきた者たちをこうして労うのだとしたら、ひどく手間をかけさせてしまったことに気付く。悪いことをしてしまった。悪いことをしてしまった。悪いことをしてしまった!セオノアは反省を繰り返し、衣服を脱いでいく。浴場は広かった。湯殿の構造を象るように下からライトを当てられ、マットな質感の黒タイルで覆われた薄暗い空間だった。湯には黄色の花々が泳いでいる。シャワーを浴びると、湯船の前に立った。飛び込んでみたくなったのだ。好奇心と良心に挟まれる。
「失礼します」
聞き慣れた声に驚いて、すでに内心で決まっていた秤同様、わずかに傾いた爪先が滑りにくい表面のタイルに掬われる。土のない可憐な黄色の花畑へ不本意にダイブした。飛沫が上がった。少し熱めの湯に全身を包まれる。直後に引き上げられる。
「スティカさ、」
選択肢は2つあったが慌てて呼んだほうは間違っていた。衣服を濡らし、セオノアを抱く女は途端に発光した。火照った身体は固い肉感に支えられ、冷たいシャワーをかけられる。掌が薄い胸や腹を這う。冷たい水の中で湯の熱や体温とはまた別の穏やかな感覚が広がる。長期間の肉体労働で、ある程度の筋肉はセオノアにもあったがハーブレイやスティカとはまた違った肉付きで、線が細いこともあり華奢だった。
「どこか熱いところはありませんか…アリマセンカ…」
セオノアは頷く。熱い湯に浸かったのが嘘のようだった。
「それ、より…なんで…」
「スティカの身体にコンプレックスがあったようなので…ヨウナノデ…セオノア様にはスティカ、女性の身体ですから…デスカラ…」
「女性に見えたら、もっとまずいんです!」
寒くなり震えた。セオノアは湯船に急ぐ。スティカもゆっくりと湯船に近付いた。水を吸った下半身の羽毛は重そうだった。下された金の毛先も濡れていた。湯船には入らず、セオノアの傍に屈んでいた。セオノアは目の前を揺蕩う黄色の花弁を摘み上げた。花型の入浴剤でも、造花でもない本物だ。
「ハーブレイ様の出身地の伝統です…デス…黄色は歓迎。赤色は敬慕 。青色は激励 です…デス…」
「じゃ、じゃあこれは歓迎…ですね。あの……ありがとうございます。もてなそうとしてくれたのに、オレ…疑ってばかりで…その…」
俯いていると、スティカは桶を手に取り、露わになった頸や肩に湯を掛ける。
「セオノア様」
顔を上げる。額に張り付いた髪を払い、そのまま体温を計るように押さえられ、スティカは目元を深く覗いた。シャヤの真っ赤な林檎の皮のような瞳とは違う、金色の双眸。虹彩の模様まで見えそうだった。
「綺麗」
スティカはそう呟いた。
「ずっと見ていたいです…デス…ずっと…」
ぼそぼそとスティカは喋り、湯が跳ねたように涙を溢す。
「スティカさん…?」
「貴方の瞳は、とても懐かしい感じがします…シマス…」
半獣の美青年は涙が湯かも分からない雫を手の甲で拭った。セオノアは何と声をかけていいのか分からなかった。
「セオノア様は、ハーブレイ様に必要なお方です…デス…」
「それが……分からないんです。ドライバーなら渡しましたし……オレよりずっと腕のいい整備士は、他にいるのに…」
あんたって、都合のいい男。最後にあの娘はそう言った。余計なことを言うなとばかりに上司があの娘を阻み、その翌日には社会生活が一変した。
「都合のいい…男だからですか…」
スティカの恐ろしいほどに整った顔面が近付く。唇が塞がれた。触れた粘膜が光を放つ。心地よさに目を閉じた。瞼を隔ててもまだ明るかった。。思考が掠め取られていく。
ともだちにシェアしよう!