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第3話

 死体が運ばれていく。布を被せられ、担架からだらりと腕と黒髪が垂れていた。白く細い腕だった。水中のような曇った響きが耳に纏わり付いている。ピィ、ピィ。鳥にも思えたがまだ目の開かない仔猫の鳴き声にも聞こえたか細い音。2人掛けのテーブルと生活感のある部屋にスーツを着た男たちが入り込み、ソファの隙間やベッドの下、家具の裏などを調べていた。扉が勢いよく開く。ピィ、ピィ。また高い音が鳴る。銀髪の青年が現れ、翠の両目を見開いた。担架を一瞬にして認めると、室内の男たちなど気にも留めずに飛び付いた。だが担架には届かなかった。水の中の雑音だらけの曇る聴覚に爆音が響いた。銀髪の青年は肩を撃たれ、床に崩れ落ちる。 「上気(のぼ)せたのか」  目が開くと、視界いっぱいに紅い目が入った。縫合の跡が稲妻のように走った、丸みを帯びた腕がセオノアの頬に触れた。 「…え…」  慌てて起きると、ぶつかる前に銀髪の青年も慌てて顎を引いた。浴場にいたはずが今はハーブレイの脚の間で柔らかな枕に横たわっている。 「まだ少し顔が赤いな」 「えっと…スティカさんは…」  ハーブレイは笑った。夢の中で撃たれた翠目の男によく似ている。じっと見つめてしまった。赤い瞳に捉えられると咄嗟に逸らす。 「奥で反省しているよ。君を長湯させてしまったとね。怒っていなかったから、顔を見せてやってくれないかな」 「お、怒ってないです、全然…」 「そうか。なら良かった。君に興味があるのだろう。俺以外にあまり人間とは深く関わらないものだから」  セオノアは突然奇声を上げ、唇を押さえた。一度ならず二度までもキスを交わしてしまった。 「舌でも噛んだか」 「い、いえ…」 「もうすぐ食事が運ばれるけれど、明日は休みだろう。泊まっていくといい。帰らなければならないというのなら送ろう」  襖が開いてスティカが隙間からセオノアを覗く。きょろきょろとしながらセオノアを躊躇いがちに見る。 「スティカ、セオノア様の邪魔ばかりしてしまうみたいです…デス…ごめんなさい…ゴメンナサイ…」  深々と畳に付きそうなほどスティカは頭を下げた。 「お、怒ってないです。ハーブレイさん、そういうことなら、あの、い、いただきます」  機嫌を窺いながらスティカは顔を上げた。 「よかった。3人分予約してしまったから」  夢の中で担架に顔を歪ませた若者に瓜二つで、セオノアはハーブレイをちらちらと見ながら何度も比べた。驚愕と落胆に固まった表情が焼き付き、夢のことだというのに鮮明だった。物悲しさがまだ残っている。 「どうかしたか」 「あッ、いや…今あまり、持ち合わせ、ないので、その…」  穏やかな声で問われ、セオノアは首を振るが、まったく違うことを白状した。 「何を言ってるんだ。君の歓迎会だ」  夢に出てきた若者よりも纏う雰囲気は柔らかい。再び彼を追っていた。 「そんなに見られたら気にしてしまうよ」  威嚇や警戒を含ませない、あくまで寄り添うような色を持たせハーブレイは問う。言おうか否か迷った。意識するだろう、君を。困ったように笑みを浮かべながらそう付け加えられる。冗談なのか分からなかった。 「夢に、出てきたんです…さっき…ちょっと…」  ハーブレイはセオノアに注目していたが、訳を話すことに決めると顔を赤くして俯いた。 「困るな…」  その声は上擦っている。気持ち悪かったんだ!言うんじゃなかった!セオノアは狼狽えながら何か言わねばと言葉を探す。 「き、気持ち悪いで、すよね…で、でも変な夢じゃなくて……ちょっと悲しい夢でしたから…」  入口の襖越しに従業員が声を掛けた。そろそろ料理が運ばれてくるらしかった。生魚の切り身や卵黄を土瓶で蒸したものなどが出された。他にもきのこや魚の網焼き、酢漬け、ピラフに似た味付きの米、葉が浮いた透明感のあるスープなどが次々と運ばれた。グレン地方は独自の食文化を持っていたが、閉鎖的というわけではなく遠方の地まで届いたし、専門店まであるほどだった。驚きや躊躇いはなく、セオノアが見たことあるものよりも運ばれた料理は質が良いことが見ただけで分かった。食事中は当たり障りのないことを話したが、ハーブレイはどこかぎこちなくなり、セオノアのほうでもまた(まず)いところがあった。スティカは2人の話を聞きながら黙々と器を空にしていた。セオノアは後は寝るだけといった頃合いにスティカとハーブレイは風呂に行った。布団が広い部屋に3枚並べられ、セオノアは端を選んだ。居づらさが増している。避けられている感じもあった。とてもとても一夜を明かせない気がしてタクシーか何かを用意するような口振りだったか徒歩で帰れないほどの距離でもないため、それらを断って帰ろうという考えもあるにはあった。この地のような片田舎は短距離でも気持ちを長い道程にさせたが、実質は本社に勤めていた時のほうが長く歩いていた。もてなされるだけもてなされ、気も済んだことだろう。むしろ帰ってくれたほうが助かるくらいに相手は思っているのではなかろうか、などと疑心が蘇り、或いは責任を放り投げて自己を正当化しようとさえしていた。悶々としながら部屋の隅にあるメモパッドから1枚千切るとボールペンで急用を思い出したので帰る旨と感謝の意を書き留めた。朝に手洗いし、干した洗濯物が狭いベランダにぶら下がっているはずであることを思い出したのだから強ち嘘ではない。やはり誰とも関わらずひとり部屋に籠っていたほうが楽なのだ。楽しくはあったし料理も美味かったが他者との関わりは疲れてしまう。バスローブに似た衣類を脱ぎ、着替えると湯呑みをペーパーウェイト代わりにして部屋を発つ。  お兄さん。ロビーの出口で先程と同じ調子で再び、同じ人物から声を掛けられた。セオノアと揃いの青い瞳を向けられる。反応を示しても何か言う様子はなく、その眼差しは無遠慮にセオノアを品定めしていた。知らない類のものではない。見ず知らずの部署の違う社員が態々噂の渦中の張本人を見ようとやってきたものだった。だが慣れはしない。 「な、なんですか…」  彼はやはり何も言わなかった。無視することに決め、背を向けるとやっとセオノアを人として扱うのだった。もう帰れないあの場所のあの人々もそうだった。お兄さん。再び呼び止められるが、もう構わなかった。ロビーでハーブレイと鉢合わせるのも面倒だ。洗濯物を入れていないという急用を済まさねば嘘になってしまう。  それからはシャヤが姿を現すことはなかった。所長の開く宴会のような昼食の場にも顔を出せたし、日々の仕事も順調だった。その日の昼食の時間の終わりに、メンテナンスが終わったため"オウミ様"が来ることを告げられるまでは。所長はセオノアの傍に忍び寄ると背中を何度か叩いた。げらげらと笑いながら、お前さんが案内係な!と言った。首を振ってみるも、ダメだよ。もう決まったことだ。お前さんが一番愛想がいいんだから。まぁ新入りの仕事ってことだぃな。所長はそう並べたて、昼食の会は解散した。  気は重いままだったが仕事だ。案内係なのだから案内をすればいい。無駄口を叩く必要もない。多少の失礼は確かにあったが、連絡の手段もなく、結局あの日は無事に短いローテーションで使用している洗濯物は取り込めたのだ。雨の予報も強風の予報もまるで無かったけれど。駐車場で待っていると時間通りに大型高級車(ショーファードリブンカー)がやってきた。運転手が軽やかに後部座席を開き、乗降口から鉄板が伸び、駐車場のアスファルトへ傾斜を作る。ハーブレイは義手だけを付け、電動車椅子に乗り鉄板を伝って駐車場へ降りた。遠慮がちに立っているセオノアに気付くと、霜柱に覆われたような目を丸くした。 「お世話になるよ」  セオノアは呆気にとられて何を言うべきか忘れ、途切れ途切れに形式的な挨拶をした。本社に入ったばかりの時に仕込まれた応対マニュアルを諳んじただけだが、見守るような眼差しを向けられていた。 「今度の試運転は君も来てくれるのかな」  ハーブレイは電動車椅子の速度をセオノアの足に合わせていた。その後ろを彼の仕事仲間が何人か付いてきた。 「た、多分行かないと思います。今聞きましたし」 「…そうか」  ハーブレイはセオノアを見上げていたが、返事を聞くと俯きがちに目を逸らす。声音が少し下がる。工場に入り、人型有人機動兵器の胸部に当たる操縦席に入った。本社にいた頃に見た資料では以前試験的に頭部を操縦席にした設計図もあったが、飛行する際の強度と重量、送電などの効率の都合により胸部を操縦席にする案が採られた。コックピットのシートは消え、ハーブレイは電動車椅子のまま入っていった。装甲が閉まった。電力が強まる。塗装が剥げ、汚れた床が震える。スーツに作業着の外部の社員がノート型コンピュータを操っていた。キーボードの軽快な音が耳に心地良かった。 他の社員がディスプレイを覗き込む。集中力が下がっていますね。自動接続切替に移そう。それでも達しません。同期率は。変化無し。セオノアの知らない単語が飛び交い、送電やめ、の声がかかったため装置を標準まで下げた。コックピットが開き、電動車椅子ごとハーブレイは出てきた。申し訳なさそうに外部の社員たちを見ていた。長い紙が印刷されていく。結果から言って、あまり高い数値は出ておりません。紙を渡した者ははっきりと言った。 「申し訳ない」  特殊なプログラムが。同期率を。セオノアは周辺の工具を片付けながら専門外の話を聞いていた。すぐ傍にいた外部社員はバインダーに綴じられた書類に忙しなくペンを走らせ、紙を1枚渡した。これで終わりだ。紙には題字として最終調整と添えられていた。所々にマーカーが引かれ、注意書きがあった。 「セオノア」  柔らかな声音だが疲れが滲んでいる。電動車椅子の小さなモーター音が近付いた。ぎくりとした。数日前のことを問われるのではないかと緊張が走る。書き置きはした。重要性は低いが急用であるにはある。 「は、い」 「少しいいか」 「確認してきます」  上司を探しに一度ハーブレイの集団から離れ、工場の片隅で部品を仕分けたり、研磨している上司に許可を取ってからまた戻った。大至急納品したいものがある、の一言を期待していたが上手くはいかなかった。研磨の金属の音が響きとても会話が成立しそうになく工場の外へと出る。 「すまない、仕事中というのに」 「あ…い、いえ…」  "オウミ様"じゃ仕方ないな、という寡黙な上司たちのアイコンタクトと許可はつい先程のことだ。 「手短に済ませる。単刀直入に言って、」  旅館の話だろう。高を括っていた。所長が大きなくしゃみをして、ハーブレイは言葉を途切れさせてしまったし、セオノアの意識も所長に逸れた。 「セオノア」 「んぁ、は…はい!」  ハーブレイに呼ばれ、見下ろした。所長のくしゃみからどれくらい経ったのか分からないが、その間に話されたものかと思った。まるで聞いていなかった。 「その…、セオノア。君が気になる。気になって、気になって仕方がない」 「…は、はぁ。なるほど」  明らかな嫌悪をセオノアは示した。ハーブレイはただセオノアを見上げる。 「驚かないのか」 「いや…そういうの、慣れてますから…一体何が気になるんですか。社内人気No.1の受付嬢を孕ませたのは本当にオレじゃないです」  彼はぎょっとした。深々と眉を顰めた。セオノアはそれに気付かず、地味な意趣返しに応え、話を続ける。 「上司です。身代わりになって認めてくれさえすれば解雇はしないし、口封じもする、家族に連絡もしないし、引越しの手続きのことも諸々、こっちでやるって……お見舞いに来てくれた時に間違いがあったとかいうけどありませんでした、何も。オレは年齢分そのままそういう経験とかありませんし……遺伝子検査したらすぐバレるのに、上司の奥さん有名人だから、目を眩ますためにも、人柱が必要だったんですよ。あの場では」  態々(わざわざ)仕事中に傷口をなぞる悪趣味な青年に苛々としながら半ば投げやりになってセオノアは全貌を話す。事実を伝えたところで信じてもらえないことは理解した。そして一度、すでに公的に認めてしまったのだから、ここで個人的に覆すことを言ったところで問題にすらならない。 「セオノア?君は何の話をしているんだ?」  相手の満足のいくパフォーマンスをしたつもりだったがセオノアの期待に反して困惑気味だ。麗らかな顔が引攣っている。 「え…?」 「随分な苦労をしたようだが、俺が言いたいのはそういうことではなく、」 「オ、オレのこと、気になるって…言った…」  セオノアは固まった。ちらと横目でハーブレイを見て、逸らしてしまう。 「言った。間違いない。ただどこかに語弊があるみたいだ」 「だ、だってオレのこと気になるって言ったら、それくらいしか…」 「君の気にしていることを訊いたつもりはない。いや、そういう話し方も出来るのかと、びっくりしている」  失態を擁護する優しさを秘めた笑みにセオノアの自爆して若干ささくれた気分は幾分凪いだ。それからハーブレイの表情は引き締まった。 「…もうすぐで試運転だ。最終調整の結果は見ただろう」 「ご、ごめんなさい。よく見方が分からなくて。ただあまり…芳しくは、なかったみたいですね」  書面からでなく、その場で得た情報だったが、ハーブレイは頷いた。 「次の試運転、失敗したくない。自分の中できちんと整理したい。少しの間だけ、付き合ってほしい」 「何かの練習とか、ですか?あまり器用なタイプじゃないので……相手になるかな」  ハーブレイの目が泳ぐ。セオノアはスポーツか何かを想像し、あまり他人と競うスポーツが苦手であることを経験とともに思い出していた。1人でやる分には楽しめたが相手の勝利への渇望と敵意に戦慄してしまうのだ。幼少期や学生時代の苦々しい記憶と、トライアスロンの大学で上位に食い込みわずかな間の甘やかな記憶が呼び覚まされた。 「君のことが頭から離れない」 「……それは、あの…すみません。でも、洗濯物無事取り込めたので、悪かったとは思ってるんですけど。あの、遅くなったんですけど、ごちそうさまでした」 「無理矢理誘ったようなものだからな。そのことについて君は何も悪くない。違う、もっと個人的なことで」 「…と、言いますと…?」  話が見えてこない。不安になりながらセオノアは仕事放棄の誤解を受けていはしないかとはらはらしながら話が終わるのを待っていた。 「セオノアを傍に置いておきたい。試運転まで…」 「あっ、ああ。それなら分かりました。整備ですね。でもオレあんまあの構造理解してなくて」  セオノアは工場の中を見た。試運転は全てのパーツが合わさり、実際に人型有人機動兵器全体を動かす。上司たちはデータを集めに行くだろう。だがセオノアは休日か、もしくは工場で機械整備だろう。 「一緒にいてくれないか」  不安なんだな、とセオノアは思った。 「一方的なことを言ってすまない。君のことを考えてしまうのは本当なんだ」 「多分…多分ですけど、オレがハーブレイさんのこと夢で見た、なんて言ったから意識しちゃっただけなんだと思います。その、すみません。変なこと言って誤解させちゃって。そういうつもりじゃなかったんです」  もうそろそろ戻らねば、という空気を出す。 「何も、オレみたいなつまらない男を気にすることなんてないですから…」 「セオノア、」  仕事に戻ります、と遮ってセオノアはハーブレイを置いたまま工場へと戻った。自身と侍らせている男があまりにも美しいために反動的な欲求を抱えているのか、もしくは華やかさに欠ける男の生態に関心があるのか、などと卑屈とも冷静ともいえないことを考えていた。セオノアや上司たちが研磨や仕分け、整備をしている工場の隅で所長が外部社員と打ち合わせをしている。書類とノート型コンピュータを見比べているらしく両者の頭が左右に揺れた。所長が頭を上げ、セオノアの姿を認めると手招きした。  これこれ、これな。  所長は太い指で紙の線グラフを指す。全く何の話か分からなかった。  これがオウミ様のベストな値。んでここが標準で、これな?これが今日の数値。  油で汚れた指が紙をなぞる。ディスプレイのほうではさらに多くの線グラフが表示されている。今日の数値は随分と平均を下回っている。  他のだと結構高いんだけどな。どうしたもんかね。試運転も近いってのに。 「試運転ってそんな大事なんですか?」  外部社員が目を剥いた。所長の汚れた手がセオノアの頭を掻き乱す。  オウミ様の負担減らす設計が通らんくなるわな。あとおれもお前さんも多分クビ切られるで。まだ本部のお茶汲みのほうが貢献してるってんで。  所長は外部社員に新しく赴任したセオノアを紹介する。ハーブレイが言っていたことから浮き出た素朴な疑問のことも所長はセオノアの頭を軽く掌で叩きながら謝る。  お前さんまさかとは思うが、その調子(ちょーし)でオウミ様に変なこと言ってないだろうな。  セオノアは首を振った。言っていないはずだ。おれたちのクビがかかってるからな。ガハガハと笑って所長は用は済んだらしかった。ハーブレイの提案が今更に自身にも関係のある重要なものだと気付き、仕事中そればかり考えていた。ハーブレイたちは所長が見送った。1日の作業を終え、事務所に戻ると仕事仲間たちはさっさと着替えを終えたり汚れた作業着のままだったりしながらぼそぼそ帰り際の挨拶をして帰っていった。セオノアはもたもた手の油を洗った。作業着のまま通勤帰宅してもよかったがセオノアは毎日着替えて帰っていた。1人の時は自身のペースで済むため、ひとつひとつの動作が緩やかだった。階段を上ってくる足音があった。喧しいそれは所長だ。アルミ製のドアが開いた。所長は下の階を使っているため何か用がなければ来ない。  オウミ様が今日のことは気にするな、悪かったな、また今度…ってよ。またえらく気に入られてんな。人嫌いのオウミ様に?  所長の表現にセオノアはびっくりした。人嫌いだなどとは思ったことがない。  お前さんらは1人が好きなだけだろ。あのお方は違うね。人が嫌いなんだな。冷てぇとか意地が悪いとかじゃねぇけどあれは人が嫌いな態度さね。おれには分かる。特にお前さんら1人が好きな連中を見ると顕著だぃね。うん、いやぁ、お前さんはその中でも人は好きなほうだろ?傷付くのが怖いだけで。今の若い子にゃ多いタイプさね。いや、おれもまだ現役よ?でもおれから比べると断然若い。じじいになると喋りすぎていかんね。おっと、あれよ?年齢的にはお前さんよりじじいって話よ?  訳知り顔で語ると、警備さんに迷惑かけるなよ、と言って帰っていった。電気と戸締りのことらしい。毎回最後に残るのはセオノアで、初日などはそれを先輩に気を遣っているというふうに受け取られた。途中で弁当を買う店に迷いながら帰路につく。 「何故ですか」  フェンスと夾竹桃の脇を通っていると、背後からあの女の声がした。 「何故オウミ様を傷付けるのです」  シャヤだった。まったく予想外というわけでもなかったがタイミングでいえば予想外だった。そして態度も。口調こそ丁寧だが声音には怒りが滲んでいる。セオノアは振り返ることもせず、ただ足が速まる。 「何故」  視界に羽根が散る。巻いた茶髪の小柄な女性が前方から歩いてきた。見覚えのある女だった。見覚えがあるどころか、セオノアを罠に嵌めた受付嬢その人だった。大きな胸が制服の下で張っている。編み込みのあるボブカットが肩の少し上で揺れた。 「ユルサナイ」  女は消えた。ダークグレーのスーツとさらに暗い色の下襟が洒落ていた憧れの上司。年齢を感じさせない甘いマスクと、年齢に引けを取らない逞しさがあった。その男が立っている。 「ドウシテオウミサマヲキズツケル?」  セオノアの前で止まって、見下ろす。赤い双眸だけが違った。安心感のある鳶色の目ではない。まだ恨みきれていないのだ。割り切れてもいない。踊らされるまま長期休暇を与えられ、解決はせず決着だけがさせられた。身に覚えのない腹の子はどうなったのだろう。まだ腹の中にいるのか、それとも。冗談にだってされたくない。強姦魔扱いされたのだ。騙されたのだ。何も知らずにあの2人の好意に甘えていたのだ。そして今も、別の2人に。 「オレが2人に迷惑かけたから?」  唇を噛む。あの日言えなかった言葉は的を失っている。だが虚像が目の前にいる。 「楽しい…ですか。満足ですか…人のこと、弄んで……スティカさん…」  悲しみに包まれた。乾燥した空気が目に沁みた。羽根や羽毛が散らかっていく。 「楽しいなら……いいんです。オレの気持ちを踏み躙って満足なら」  俯いているため、羽毛に覆われた人間とは違う形状の下半身しか見えなかった。いい人たちだと思っていた。それも罠だったのだ。落とす瞬間の快感がどれくらいのものであるのか、セオノアは知らなかった。誰とも関わらないのが賢明なのだ。気さくな所長のことが脳裏を過った。 「セオノア様」 「放っておいてくれ…あんたらの罠は大成功だ」  声が震えた。遠回りになる道を戻る。店はない。フェンスと夾竹桃で区切られたシャークスモールクレスト重工業株式会社の別の部署の工場を中心とした工業地区にさらに入り込むだけだった。冷えた風が吹く。二度と人とは関わるなと言われているようで惨めな気分になった。目元を拭い、街灯の下に出る。まるで待ち構えでもしているように人影がセオノアの前に出て、親しげに肘を曲げ、開いた拳を左右に振った。 「全くひでぇことするよな、あの鳥野郎は」  見覚えはあるが、服装が違う。デニムジャケットにグレーのジップアップのフーディ、さらにその下に薄手の白いシャツを着た若者がそう言った。街灯に照らされた青の瞳は確かにセオノアを見ていたが、念のため背後を確認する。見られていたのか。半獣の姿はこの地域では当たり前のものなのかも知れない。初めて見た時は驚きのあまりに気絶したというのに。 「だいじょぶ。お兄さんに話しかけてるから。お兄さん、名前なんてーの?ぼくロミュス。ロムって呼んでよね。あ、先にぼくが教えちゃったから、教えてくれなきゃダメだよ」  突然の自己紹介に戸惑った。得体の知れない若者は首を傾げた。 「初対面だからって、緊張してる?ここに来たばっかでさ。人もいないし、何もないし、飯も空気も全然慣れなくて。お兄さん、歳も近いし優しそうだし、仲良くしてよ」」  ロミュスと名乗るまだ少年といった年頃の若者は人懐こい態度だけでなく、人好きのする愛らしい顔立ちをしていた。だが背丈はセオノアとほぼ同じで、もしかしたらわずかにロミュスの方が高い感じさえあった。 「…セ、セオノア。そ、それに、初対面じゃない……」 「わぁお」  ロミュスは手を叩いた。 「正解。忘れてるだろうから、初対面って(てい)のほうがいいかなって思ったんだけど、覚えてるならまぁいいかっと」  黙っているセオノアの顔を、若者は背を屈めて覗き込む。初対面では確かにないが、初対面も同然だった。心身共に距離感の近いロミュスにびっくりした。 「泣いちゃってんじゃん。事情はよく分かんないけどひでぇや」  指摘されると途端に恥ずかしくなる。 「じゃ、じゃあ、その、そういうことで…」 「うん」  うん。ロミュスはそう返事をした。即答だった。だがセオノアの後を付いてきている。行く方向が同じなのだと思っていた。シャークスモールクレスト重工業株式会社の社宅街に来てもまだ背後にいる。一種の恐怖があった。シャークスモールクレスト重工業株式会社の正規非正規問わず社員なのか。 「な、な、なんでついてくるの」  社員ならばもう関わることはない。私的に関わっていいことなど何ひとつないことを知ったばかりだ。 「ノアさん泣いてっから?」  語尾に疑問符を付けて返され、さらにはかなり親しい者にしか使われない愛称で呼ばれている。 「な、泣いてない!」 「いいって、いいって。1人って寂しいもん。添い寝してやろっか」 「い、いい!要らない!泣いてない!」  ふぅん、ま、いっけど。ロミュスは軽く言った。 「あ、でもぼくン()来るならいつでも言って。バイクあるし、(あっしー)くんにはいつでもなるって」  会話が通じない感じに身震いする。もうすぐ自室だ。夕飯どころか朝飯も用意していないことに気付く。溜息をつく。だがいくらか気分は晴れていた。このままここではっきり言えば彼に悪印象を抱かずに済む。 「うん。でもオレ、あんま人付き合いとか苦手だし。えっと、ロミュスくんだっけ。送ってくれてありがとう」 「ロムって呼んでよ。そんなこと言って、泣きたい時は胸くらい貸すって。次は焼鳥(グリルドチキン)にしてやれ」  ロミュスはもう付いて来なかった。だが自室に入るまでその背を見送っていた。今まで関わってきたタイプとは全く毛色が違い、あの明るさと賑やかさは苦手な部類だったというのに今日ばかりは少しだけ気分が紛れた。しかし彼もまた罠を張っているに違いない。何度騙される気なのだろう。空腹がさらにセオノアの気分を落としていった。

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