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第4話

 チェーンソーの音が聞こえ、目が覚めた。だがチェーンソーの音は聞こえない。直後に目覚まし時計が鳴り、騒音トラブルになる前に消す。腹が鳴った。インスタント食品を買い貯めておかなかったことが悔やまれた。支度を済まし、朝飯を買い食いする余裕を持ってアパートを出る。朝の陽射しが好きだった。まだ静かな道を歩く。ランニングをしている人や犬の散歩、ゴミを出しに行く人々がいた。腹は減っているが数時間寝ただけで気分は良くなっていた。工業地区を出てすぐの大通りにある喫茶店まで行く気になり、そこで朝食を摂ると工場に行った。少しまだ時間は早かったが自分のペースで着替えや、朝日と朝食から与えられた機嫌によって掃除やロッカー整理、工具の確認に充てることが出来た。昨日のスティカとのことも些細なことだと思った。泣き顔などを晒して恥ずかしいくらいだった。時間ぎりぎりに仕事仲間はやってきて、てきぱきと着替えや支度を済ませて朝礼のある工場前に集まっていく。朝礼場所に行くため階段を降りたところで、事務所1階から出てきた所長に呼び止められた。  朝電話があったんだけどよ、今日もオウミ様が来るから接待頼むわ。さすがにあの数値じゃ試運転が不安だぃね。再最終調整、頼むで。ま、お前さんは出迎えだけでいいんだけどよ。  所長はげらげらと笑った。試運転に不採算事業の整理と人員削減がかけられている。セオノアには不安と期待が半々あった。上層部の秘密を握ってしまっている自分を果たしてシャークスモールクレスト重工業株式会社は切るだろうか。故郷に帰り、また職探しから始めるのか。 「あ、あの…試運転って、そんな精神的な部分が関わるんですか」  そりゃな。神経だの頭の中だのを同期させてんのよ、いわば一体化だ、一体化。義手義足の規模ならあれでも、あんだけデカい機械だとなかなかなぁ。あの成績でいうと今のオウミ様は、つまりあれだぃね、自分の意思と身体の動きが一致してないってことな。  所長とは朝礼の場で離れた。所長は仕切る側でセオノアは短い列に並ぶ。点呼と挨拶、作業内容の確認と他部署や提携会社の報告などだった。長い挨拶もなく、フルールディアマントータシェル株式会社の訪問があることを告げ解散した。ハーブレイが率いてくる外部社員はそこの者たちだ。シャークスモールクレスト重工業株式会社とは対照的に人型有人機動兵器には積極的な意向を示している。所長はそういうことだから頼むわな、と作業場に行くセオノアに言った。快諾は出来なかったが諾の返事をするほかなかった。ハーブレイの夢を見たなどと思わせぶりなことを言ってしまった。それがおそらくハーブレイの成績を下げているらしいのだ。多少の罪悪感はあるがセオノアにはどうしようもなかった。弁解はしたのだからあとはハーブレイの問題だろう。まさか、ロミュスがいうところの「鳥野郎」に傷を抉るような真似をされるとは思わなかったが。訪問の時間は数十分の作業をしたらすぐだった。一度集中してしまうと中断することに躊躇いが生まれてしまう性分で、駐車場まで出向くのがひどく億劫だった。近場にいた先輩がぶっきらぼうに代わることを申し出たために気怠さを隠して駐車場へ急いだ。工場地区にもこの工場にも似合わない空を暗く映すショーファードリブンカーがやってくる。"オウミ様"と呼ばれるだけあった。今日は義手義足を付け、己の足で降車する。セオノアに気付くと(まず)そうな顔をした。だがセオノアには関係なく、マニュアル通りの挨拶をした。嫌がらせについての抗議はここですることではないことを知っている。そしてその話をしたところでさらに私的に関わってしまうだけだった。 「セオ…」  長たらしい挨拶の区切りで彼はセオノアを呼んだが、次の長い、特に内容はないくせマニュアルに記されていたがために読み上げなければならない挨拶をさらに続ける。 「こちらです」  まるで嫌がらせにまで発展しかねない社交辞令を終え工場の中へ案内する。少し後ろで義足が軋み、速度を緩めた。横に並ぶと肉感のない固い腕がセオノアの腕に絡んだ。 「セオノア。昨日はすまなかったな。忘れてくれ」 「は、はい。その、つもりですよ…」  一方的な人だなと思った。仕返しをしておいて忘れろというのだ。しかしこの話がここで終わるならそれが最善であることに間違いはない。軽蔑の念を抱きながら、それでも試運転にこだわらなければならなかったハーブレイに同情した。腕に絡んだ金属とプラスチックが離れた。 「こちらです」  言わなくとも何十回何百回と来ているだろう工場の大きな機械や大型装置、コンテナで作られた入り組んだ通路を案内し、やはりマニュアル通りの言葉に沿って目的の筐体のもとに辿り着く。コックピットに入っていく様を見届けながら送電の合図を待った。外部の者ではなく工場の者でないと使用が禁止されている。トータシェル株式会社のスーツに作業着の社員がセオノアに近付いた。ハーブレイ様と何かありましたか。勘繰る様子でもなく事務的に彼は聞いた。失礼を承知でお尋ねしますが、と付け加えられる。試運転に於いて大切なことなのです。不採算事業の見直しと人員削減の危機にあるシャークスモールクレスト重工業株式会社側だけの問題ではないらしい。 「と、特に、何も…」  なるほど。否定も追求することもなく外部社員は頷いた。セオノアのほうが気にするほど潔い。隠し事というほどではないがわずかな罪悪感を覚えた。 「そ、その…"オウミ様"の勘違いといいますか…弁解はしたのですが…」  なるほど。同じ言葉を繰り返す。これがこの会社のマニュアルであるなら仕方がない。脇ではキーボードが叩かれ、プリンターの低い音が響いた。長い紙が印刷されていく。セオノアに話し掛けた外部社員は慌てた様子でノート型コンピュータへ駆け寄った。キーボードを打っている者は口元に手を当て、小型マイクを摘んでいた。集中してください。送電やめ!。叫ばれ、セオノアは指示のまま送電を標準の値に戻す。止めろ!怒鳴られ、レバーを下ろしきる。パールホワイトの装甲と不思議な光沢を持つブラックの接合部のさらに間の溝がブルーに光り、それは通常の反応だったが点滅したことにより緊張が走った。工場が揺れる。何度か故郷で経験したことのある地震とは少し異なっていた。機械の振動が地を伝う感じに似ていた。オウミ様、オウミ様、応答を。応答をお願いします。揺れの中で外部社員たちはキーボードを激しく叩き、もう1人はマイクで指示を出し、残りの2、3人は装甲に触れようとした。セオノアは揺れに意識を取られ、何が起きているのか分からなかった。触っちゃいけませんや!。所長が重そうな身体を揺れの中でさらに揺らし近付いてくる。首から下げた油だらけの手拭いを手に巻くと筐体の脇にある工場の中では小さいものに部類される装置のボタンを殴り付けた。プラスチックが割れた。煙が上がり装甲が開く。焦げ臭が漂った。振動が少しずつ治まっていく。ハーブレイは出てこない。煙の中で数カ所が光った。夜中の静電気にも似ていたし、漏電にも似ていた。所長は一息付くと外部社員が近付かないように遠ざける。塗料やオイルで汚れた革手袋を外し、作業着に括り付けてあるゴム手袋に替えていた。お前さん、ゴムマット持ってこい!備蓄倉庫な!急ぎで!所長はセオノアに叫んだ。  熱暴走だと説明された。義手義足は故障し、コックピットも半壊していた。ハーブレイは緊急搬送され、工場内は相変わらず静かだった。セオノアはトータシェル社の者から同行を求められたが所長が庇った。他の作業員は持ち場を離れなかったが所長は筐体の前に戻り、セオノアもその後を追った。ゴムマットが敷かれた開け放しの入り口からはまだ焦げ臭さがあった。シートのメッシュ素材が焼けた匂いらしかった。  これぁいかんね。これぁいかんわ。これは…  所長はコックピットに入っていく。笑いながら言った。 「もしかして、オ―」  いんや、あれは熱暴走だからな。電源落とした判断は間違いじゃなかった。でなきゃ中身は丸焦げさね。まだ修理は利くで、これは。ただ…  所長は言葉を詰まらせる。試運転には間に合わないのだと理解した。所長は笑うが覇気はなかった。 「すみません…」  セオノアが直接的な原因であることを所長は否定した。だが間接的ならば、セオノアには心当たりがあった。何よりトータシェル社の者の質問も、救急車が到着した時の同行を求められたことも、原因はお前だと言わんばかりだった。所長は困惑を滲ませたまま眉を下げる。 「ごめんなさい…」  何を謝ってんだい。お前さんは悪くない。新人にしちゃ上出来だぃね。  コックピットから降りてきて、肉厚な掌が頭をわしわしと掻いた。開け放たれたままのコックピットを直視出来なかった。ハーブレイの要求を呑んでいたら、スティカの言う通りにしておけばこのようなことにはならなかったのかも知れない。  やるだけやってみっから、あんま気にしなさんな。ただ担当がお前さんだっただけだぃね。悪かったよ、新人に押し付けちまってな。  セオノアは首を振った。所長が謝ることもない。 「こ、これから、ど、どうなるんですか…」  脅しすぎちまったかな。あとは支社長会議とその後の本社会議しだいさね。  所長は控えめに笑った。部品整理でもしてろぃや、と比較的簡単な作業を与えて所長はまたコックピットに入っていった。防げた事故だったのではないかと重々しさと苦々しさを抱えながら1日の作業を終える。暗くなった帰り道を歩き、今日こそ買い物をしなければと思っていた。バイクの音が近付き、段々と速度を落とす。 「ノアさん」  知った声に振り返ると、来ちゃった、と言ってバイクが隣に止まった。ロミュスだった。バイクから降りると白線に寄せて転がす。 「や、やぁ」 「なんか、元気ない?」 「あ、ある」  ロミュスは首を傾げた。鮮やかな赤のフーディにやはりデニムのジャケットを着ていた。身体つきはまだ成長の余地があるもののすでに大人の男だというのに表情や仕草はあどけない。 「たまたま仕事の帰りでさ。へへ、ノアさんに会えてラッキー!」  ロミュスはひとり盛り上がり、あれこれと話した。長年の付き合いのような錯覚を起こすほど距離を詰めてくる。セオノアは相槌をうつばかりだった。 「ぼくの話、つまんなかった?」  話はきちんと聞いていた。職場には可愛い子が沢山いて、中でも一番可愛い子と近付けたのだとか、上司がいい人過ぎて尊敬しているのだとかどこにでもある話だった。 「う、ううん。なんで?」 「ノアさんの反応薄いから。きっと多分、絶対ぼくのコト好きだと思うんだよなぁ」  その一番可愛い女の子が最近よく話しかけてくれるのだという。咳をすれば飴をくれたり、ハンドクリームを余ったからと塗りたくってくれるのだという。 「そうだね。ロミュスくん、かっこいいもんね」  無難な返しをした。嘘ではなかった。ロミュスは快男児で顔立ちも決して醜悪ではなかった。声も少年のような瑞々しさを持ちながら大人に近付いている安定した低さもそれなりに帯びていた。何の裏も表もなく彼に言い寄る者がいたところで疑う(よし)もない。 「ははは、ノアさんにそう言ってもらえると嬉しいかも。ノアさんて、恋人いんの?」  セオノアの時が止まった。唯一といっていいほど空気が読めないらしき欠点を持つ快男児は固まるセオノアの顔を隣から覗き込んだ。 「いないよ」 「なんで?かっこいいのに。いや、かわいい系かな?」 「…やめてよ」  セオノアは自身を、誰もが目を背けるほどの醜悪な顔立ちだと思っていたし、誰もを不快にさせる陰気さを纏っているものと信じ込んでいた。そして生活を一変させた事件がそれをセオノアの中で確実なものにした。答え合わせになってしまうのだった。1人の女の甘やかな態度と、憧憬の念を抱いていた上司の細やかな気配りが。全ては罠だったのだと。餌だったのだと。 「なんで?ホントなのに」 「…あんまりそういう話、得意じゃないし。オレ、そんな君と仲良くなった覚えないし…」 「マジか!そうなんだ!ぼく、ノアさんとそんな仲良くなかったんだ!じゃ、ぼく黙るね?それでぼくの空気に慣れて?」  ぐいぐいと迫られる。何を企んでいるのか。明るく素直で人懐こいようだが、却ってそこが人との交流の障害になっている感じがあった。 「そういうのが、面倒臭いんだよ…気を遣うのとか疲れるし…傷付けたの傷付けられたのとか思い悩むの嫌だし……そういうの平気な人と仲良くしたらいいじゃん。何も、オレみたいな辛気臭いの選ぶことないだろ……それとも扱いやすいのかな?オレみたいに黙ってて押しが弱そうな人って…」  すらすらと言葉が出てきた。年下らしき、それでいて人懐こい性格のロミュスだからこそ言えたのかも知れない。 「ノアさんって辛気臭いんだ?あんま思わなかった。自己紹介ありがと。じゃあそんな感じで付き合っていくわ」 「嫌だよ。店員さんとだって、ホントは喋りたくないんだ。君みたいな明るい子はもっと同じような子と付き合ったほうがいいよ 「へぇ」 「じゃあね」  足を止め、隣のバイクも止まった。ロミュスを一瞥する。唇を小さく尖らせ、きょとんとしている顔に別れを告げた。 「ヤだよ」  バイクはまた転がされ、セオノアの後を尾けた。 「話聞いてたの?」 「誰と付き合うかなんて勝手っしょ。それにノアさん、ぼくの知り合いと似てんだよな。嫌いじゃないし、ぼくは安心するけどな」 「オレは君みたいな太陽みたいな子には慣れてないし、どっちかっていうとトラウマがあるよ」  早歩きになっていく。バイクを転がす足もそれに倣った。 「腹痛いの?」 「違うよ」 「ぼくって太陽みたいなの?」  疲れて速度は落ちていく。やはりバイクを連れた足も緩慢になった。 「明るいどころじゃなくて、なんでもかんでも焼こうとする感じとか」 「トラウマってどんな?」 「普通そういうこと訊くかな」  知りたかったら訊くよ。振り返って目にしたロミュスは真剣な表情にも見えたが緩んだ顔にも見えた。言いたくなかったら言わなきゃいいんだし。濃淡の個人差はあったが同じ目の色と視線がかち合う。 「普通は、訊かないし、言わないよ」 「じゃあぼくが普通じゃなかったんだ」 「そういうことみたいだね」 「でも知りたいな。ノアさんのことなら普通じゃなくなるんだな」  セオノアはロミュスを睨む。 「言わない」 「なら諦めよ」  それでもまだバイクの歩行者はセオノアに続く。 「何か期待してるなら、オレは何も応えられないよ。掌で踊らせる目算が出来てるの?裏目に出たら?今日もそういうことがあったんだから」  勢い余り不安を吐露したが直後に後悔した。ロミュスは倒していた頭を反対に傾げた。 「あ、何?それでちょっと機嫌悪いんだ?」 「…別に」 「利用し利用されあう関係ってのもいいと思うけどね。なんだかんだ相手のこと考えちゃうんだな。理想が高いんだ。それで存外、人が好きなんだな。いちいち人と喋るのにあれこれ計算するかな。ま、するやつはすると思うけど。相当頭いいな、それ」  後半もう独り言だった。見透かすような言動に機嫌はさらに悪くなる。半分は八つ当たりだった。まったくの無関係な人に不機嫌を押し付けている自身の情けなさがさらに自傷的で退廃的な快感を求める。 「でも多分、孤独が一番の毒なタイプだよ。ぼくの知り合いもそうだった」 「君の知り合いのことなんか知らない」 「あ、知らない?そっか、そうだよな。でも、ぼくは知ってる。ノアさんよりノアさんを知ってるよ」  バイクが倒れる。目の前に迫る若者に抵抗を示す前に手を取られた。暗闇の中で青い目が光る。赤い光が一瞬照った。顔が近付いた。殺気すら感じられる。 「ロミュ、」  鼻先が触れそうなほどで視界から彼は消えた。吹き飛ばされた。手首を掴まれた感触がまだ残っている。羽毛の塊が舞う。 「鳥野郎」  視界から消えたロミュスが吐き捨てる。何が起きたのか分からなかった。突然視界が塞がれたかと思えば次の瞬間には視界は開けていた。戸惑いながら話していた相手を探す。 「ロミュスくん?」  思いのほか姿勢を正して屈み、アスファルトに手を付いているロミュスに手を差し伸ばそうとしたが身体が浮いた。冷たい美青年の顔がある。フェンスに凭せ掛けられると、肩甲骨の辺りから翼生やした上半身裸の鳥人はロミュスへ向かっていく。実際の猛禽類よりも巨大な爪がアスファルトに軽快な音を立てる。 「来なよ。今日こそ鳥類空揚(フライドチキン)にしてやる」  ロミュスは挑発的な態度で、セオノアはびっくりして起き上がると両者の間に割って入った。 「ロミュスくん!」 「えっ、何、そっちの味方?」  格闘技の経験でもあるのか戦闘態勢に入ったロミュスの両腕を掴み、スティカを警戒しながら腕白小僧を押さえ込む。 「あいつはいじめっ子なのに?」 「ひ、引っ掻かれたら死んじゃうよ!」  アスファルトにぶつかり音を立てる鋭く大きな爪を指で差した。ロミュスを抱き締めるように捕らえると、スティカとは反対方向へとにかく押した。ロミュスは前から押されながら後退るため動作が遅かった。 「ただじゃ殺されないって。それに、いいの?もしかしたらあっちが、あんたを守りに来たのかもしんないじゃん?」 「守るとか殺すとか物騒だ!いいから、早く離れて。挑発しない!」  戦闘態勢の名残である腕を伸ばし、両腿にぴたりとくっつけさせる。ロミュスは呆れた顔をした。 「スティカさん!どういうつもりですか…?びっくりしたな…」 「その人物から離れなさい…ナサイ」  手首から肘にかけて袖口のように羽毛が広がった腕がロミュスを指す。 「仲悪いの?」 「昔はいいほうだった」  背後にいるロミュスは快活に答える。しかしスティカは怒気を含ませていた。 「今の話してるんだけど…」  遠くで運送トラックの音がする。もうすぐでこの道を通るはずだ。たとえこの地域では、羽毛に覆われた半人半獣の美青年がどこにでもいそうな軽率げな若者と喧嘩をする光景が然程珍しくないとしてもセオノアとしては奇々怪界が極まった光景でしかない。ヘッドライトがカーブから射し込んだ時、セオノアは穏やかな熱に包まれ意識を失った。  黒い髪の女が鱗だらけの遺体に触れた。それだけでそれは灰と化す。女の指先が灼熱を放っているとでもいうかのように一瞬の出来事だった。ピィ、ピィ。鼻詰まりの音にも、子猫の鳴き声にも似ていた。灰の中から雛が現れる。粉まみれになりながら毛も羽もない皺だらけの小さな命が声を張り上げる。青い目をした女の白い手が灰の中から掬い上げた。ピィ、ピィ。産毛だけの頼りない鳥の子は泣き続けた。  ロミュスといたことは覚えている。ひどく強引だった。どこかあの受付嬢に似ていた。だが違う。しかし雰囲気は似ていた。あの受付嬢を許すことは、おそらく出来てしまう。ただ悲しみは消えないのだ。彼女から与えられた日々が目の前に過ってしまうと、悲しさが彼女を許さないかも知れないとセオノアを苦しめた。許せないということが、苦しい。ロミュスは強引で一方的で彼女を思わせる。だが苦しくはなかった。 「ロミュスくん…?」  人の気配があった。べたべたと顔を触る仕草はロミュスがやりそうなことだった。しかし瞼を開けたそこにいるのは黒髪の女だった。赤い目に見下ろされる。夢の中の女だった。朝だ。 「会社!」  シャヤのことなど忘れて飛び起きる。 「会社はお休みしていただきました」  口を開いた女を睨んだ。 「休んだ…?オレ働けます!時間は…っ」  時計を確認した。すでに仕事は始まっている。皆勤したいというこだわりは打ち砕かれ、暫く何も話したくなかった。シャヤも何も言わずそのうち、退室していった。ハーブレイにもてなされたあの旅館にいる。セオノアはその一室に寝ていた。だが部屋は布団を2枚敷くのが精々といった狭さでその真ん中に1枚布団が敷かれている。どこも痛みはせず、身体も元気なくらいだった。襖が開きシャヤが戻ってくる。 「ロミュスくんはどこにいるんですか…」  シャヤは無言のままセオノアの脇に座った。焦れて、腹癒せに胸元をぽかっと軽く殴った。そういうつもりは全く無かったが思ったよりも柔らか胸の肉感に驚き、小さく謝った。 「彼とはあまり関わりませんよう」 「なんでそんなこと、スティカさんに言われなきゃならないんです」  シャヤは姿を変え、金髪の美青年がそこには佇んでいた。 「……セオノア様に利のあるお人でありませんので…ノデ…」 「そんなことが分かるんですか。そうですよね、ハーブレイさんにはオレが必要って言って、守らなかったら、本当にあんなことが起きたんですからね」  スティカは黙って聞いていた。 「分かりました。ロミュスくんといることでまた何か起きるのもつまらないですし。守りますよ、その注告は」  寝間着まで着せられている。だがやはりどこも悪くない。健康そのものだった。狡い休みだが不本意で、皆勤のこだわりは破られた。まだそのショックからは抜け出せない。 「彼はハーブレイ様の弟です…デス…ですがハーブレイ様には彼のことを聞かぬよう…知らない振りをしていてほしいのです…デス…」 「ハーブレイさんの弟?分かりました。分かりましたよ。でもオレはもうハーブレイさんとも会わないから、関係ないことだ」  スティカの両手がセオノアの肩を乱暴に掴む。金色の目が鋭く光る。穏やかではない。 「関係ナクナイ!」  狭い室内に怒鳴り声が響いた。鋭い爪がセオノアの肩の肉に布を隔て刺さっている。 「人民ノ犠牲ニなるハーブレイ様ノ犠牲ニなるんだ!」  犬歯を見せられ、噛み付かれる。首に激痛が走った。肉をそのまま噛み千切る気らしかった。 「い、た…いッ!痛い…っ!」  ハーブレイ様に身も心も捧げると誓え!  スティカは唸り、口も声も使わずセオノアに語りかける。 「いた…っ、いぃ…」  歯が肉に刺さり、血が出ている。寝間着の襟が赤く染まる。 「はな……して…っ…!」  食われる。殺される。セオノアは痛みに顔を歪め、恐怖に声は掠れていた。  誓え…!  シャヤとスティカも同じだった。華々しい受付嬢と尊敬していた上司と。痛みと悲しさ、確信と情けなさにセオノアは泣いた。子供みたいに声を上げ、天を仰いで咽せいだ。どこで何をやっても全てが敵なのだ。罠を張り、引っ掛かるのを待っているのだ。気付いていたはずで、自覚が足らなかった。 「痛いよ…助けて…痛い…離して…」  泣き喚き、噛み付いたままのスティカを押し退けた時、肉や繊維の断ち切れる音がした。布団に真っ赤な花が咲く。スティカは離れた。ぬるついた首筋に触れた。過ぎた痛みはどこか麻痺していた。そして波のよう押し寄せ、また麻痺し激痛に拉がれる。視界がぼやける。死にたくない。痛い。怖い。布団に倒れ込む。血が止まらない。 「なんで……スティカさ……」  焦点が合わなかった。スティカに見下ろされている。寒い。生温かい血液はシャワーのように指の間を流れていく。患部を押さえていることも億劫になりぬるついた手は落ちていく。死にたくない。げらげら笑う所長や、けたけたと笑うロミュスが痛みの支配から逃れた頭の中にあった。寒い。太陽のようだった。その下品さや空気の読めなさに安堵していた。 「ロミュスく……ロミュス…」  呼べる名前はひとつしかなかった。スティカは何か言っていた。霞んだ視界の中で口元が赤いことだけが分かった。本社で散々味わった雑音だ。死にたくない。何も、何の仕返しも出来ずに。焼鳥(グリルドチキン)にしてやれ。布団を握る。せめて一打。どんなに弱くても。思考もぼやけていた。鳥類空揚(フライドチキン)にしてやる。それだけが浮かび、まだ体内に残った血液はそれだけのために使った。飛び起きて拳を放つ。ふらりとした身体はさ膝から落ちた。涙が眦から落ちていく。襖が乱暴に開け放たれた。弾かれるような衝撃が伝わる。瞬きのたびに涙が切れ、落ちていく。水の中に沈められるような耳鳴りがまとわりつき、叫び声が歪んだ。男の声だった。ロミュスだと思った。それ以外に自分に興味を示してくれる者はいないから。ロミュスの名を呼び続ける。柔らかく包まれ、その逞しさに全てを忘れ所長を呼んだ。それ以外に自分を庇うものはいないから。所長に謝り、離さないでと縋りつく。もうどちらかかも分からなかった。低く歪む耳鳴りの中で何か言われているというのに聞こえなかった。死んでしまうのだと泣き縋り、吐気に襲われると胃の中のものをぶちまけ、もう喋りさえ出来なくなった。  父さん母さん、新しく配属先が変わったんだ。ちょっと遠いところなんだけど、ご飯は美味しいっていうし、緑に溢れてて、夜は満天の星空が見えるんだって。ここよりちょっと田舎だけど。リンゴとか送らなくていいから。みんながきっと見送ってくれるし、来なくて大丈夫。あの子もきっと来てくれるから。もし告白なんてされちゃったらどうしようか。父さんに似て結構モテるからさ。母さん、そう妬かないで。明日も早いから、ね、おやすみ。

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