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第6話

 試運転の日にセオノアはロミュスのバイクに乗って海に行った。ハーブレイとの精神的なごたつきを考慮した所長から午後に休日を与えられたのだった。他の者たちは試運転開催場に向かっていった。海に到着した頃には海はオレンジに染まっていた。浜辺に座り、ロミュスは隣でハーモニカを吹いた。 「ぼく、ノアさんのこと好きだな」  冗談めかしてロミュスは言った。 「オレもロミュスくんのこと好きだよ。助けに来てくれてありがとう。海に連れて来てくれて」 「へへ。やっぱ海鮮丼にするか。蕎麦じゃなくて。生もの食える?」 「うん。美味しいよね。あっちの専門店で食べたのとちょっと違うけど」  砂を払って立ち上がる。波打ち際を裸足で歩いた。磯の匂いがした。潮風が髪を靡かせ、まだ座っているロミュスの視線に気付く。デニムジャケットとは違うレザージャケットとその下のシャツは大人な雰囲気だというのに七分丈のカットオフのジーンズが少年らしく、そのちぐはぐさまでがよく似合っていた。風にそよいだ茶髪が口の端に付いて、その毛を拭う仕草と夕陽を眩しがる目に微かな切なさを感じた。姉に似ているという話だった。どうしていいか分からなくなる。ロミュスが言いそうなことを真似てみた。 「ロミュスくんもおいでよ。冷たいよ。ちょっと生温いかな?」 「おいおいはしゃいで転ぶなよ。風邪でもひいたらお泊まりだかんな。明日仕事だろ?」  ロミュスに手招きする。呆れた様子で尻の砂を払い、ロミュスはやってきた。オレンジに染まる可愛らしい顔立ちを見つめていた。少し長めの横髪を耳にかけ、すでに短い裾を捲り上げていく。 「ぼくがかっこいいからってそんな見詰めんなって」 「いや、かわいいなって…」 「かわいい?まぁいいや。実際かわいいかんね」  裾を捲り上げながら波に足を打たれる。 「でもやっぱ年上なんだなってところあるよね」  緩んだ口の端に落ちた茶色の毛を耳に掛けた。賢くないがあざとさだけは身に付いている犬を彷彿させる横顔を見ていた。 「そろそろこの関係やめてさ、」  両方の裾を捲り上げて、朱に染まった青い目は濃く濁ってセオノアを捉える。燦爛とした眼光にぎょっとした。胸の奥を貫かれるような、けれど不快ではない驚愕。 「ぼくがお兄ちゃんになってやろっか?」  しかし頼りなくへにゃりと人懐こい顔に戻る。動揺を誤魔化し、子犬のような髪へ手を伸ばした。 「ロミュスくんがお兄ちゃんは似合わないな」 「ぼくのが年上なのに?」 「歳は関係ない」  ロミュスは唇を尖らせる。 「水族館と飯どっち先がいい?」 「え~、男2人で水族館?」  おどけて見せる。こんな話せたんだな、と他人事のように思った。ロミュスに引き出され、呑まれていく。 「イマドキそんなもんだよ。な、お兄ちゃん」 「じゃあご飯の後に水族館ね。ガソリン代と手間賃込みでオレの奢り」  昼間はパーキングエリアでソフトクリームとパフェをシェアした。フルーツが沢山盛られ、予想外の甘さに少し胃もたれを起こしたほどだった。 「やったぁ!何食うかな?ノアさん何がいい?ぼくカツカレーがいい!」 「じゃあカツカレーだね」  要望は蕎麦でも海鮮丼でもない。ロミュスははしゃぎ、靴を置いた少し先の浜辺に戻っていく。その後姿をぼうっと見つめた。その発達途上のまま止まってしまたらしき、成長の余地を残した背中に翼が生えてどこかへ飛び立ってしまうのではないか、などという荒唐無稽な考えがふと浮かんだ。  レストランで食事をした後、水族館に行った。イルカのショーを観て帰路に着く。すでに夜中だった。社員住宅の並ぶ地区の前でバイクは止まり、一言二言交わした。じゃあ、また。セオノアが言葉を終えた直後に唇に柔らかな感触があった。半日中、当然のように鼻を包んでいたロミュスの匂いが改めて鼻腔をくすぐった。 「じゃあな!」  気のせいだと思うほどに何の引っ掛かりもなくロミュスは言った。セオノアも黙ったまま頷いて走っていくバイクを見送った。寝る前に覗いた端末には試運転の失敗の結果報告が届いていた。専門的な話で細かく綴られていたが、要約すると原因は旧型の調整不足とパイロットの適合率が悪かったことだという。文末の返信不要の一言に甘えて端末を放り浴室へ入った。靴下や足にまだ付いている砂に今日楽しかったことがふと蘇り、ロミュスのひとつひとつの表情が鮮明に脳裏に焼き付けられていたことに気付く。唇に触れた柔らかな感触と、時折彼が何となく発する「やっぱノアさんこと好きだわ」の一言が途端に別の色を帯びはじめた。  工場は相変わらず静かで機械音と所長の声ばかりがしていた。まだ胸部の修理は続いていた。だがそのうちに打ち切られるのだろう。所長だけが修理に当たり、セオノアたちは別の機械の整備をしていた。所長はいつもより口数が少なかったため昼飯時の"青空食堂"は重苦しい感じがあったが、結局ところ所長の騒がしいか否かの違いしかない。原因は試運転の失敗なのだとはっきりしているため周囲の普段から静かな従業員たちも気を揉む様子はなかった。食後すぐに半壊した胸部の筐体に向かった所長を追った。何も言うことはなかったが、ふらふらと付いていってしまった。判断に従っただけで、そして自身に何が出来たわけでもないというのに罪悪感が多少なりともあった。  おれぁ判断ミスたぁ思ってねぇんだがよ。  所長はセオノアを見るなりそう言った。  お前さんに来るなと言ったのぁ、おれの独断だ。あのお人はお前さんに、ただならない執着を持ってるな。おれぁそう睨んでるんだが。お前さんはどうだ?そんなことを感じたことはねぇんかい? 「あります。でも解決しました」  所長はセオノアを見つめ、そうかい、と返した。  ンじゃあそれは、おれたちが気にすることじゃねぇってこったな。なら話は簡単だぃね。あのお方の中の問題か、旧型に変更しちまったもんだから調整が足りなかったか。 「僕に関して言えることなら最初からあの人の問題でしたよ」  所長は元気なく笑った。そうかい、とまた言った。ならいいんだ、心配しちまったよ、正直な。でっぷりした身体がコックピットに踏み入った。  帰り際になってショーファードリブンカーが駐車場に止まった。終礼中だった所長はセオノアを見てから肩を竦めた。フルールディアマントータシェル株式会社の者たちだった。所長が1人、物騒な黒スーツたちの集団へ赴く。セオノアを振り返ったがセオノアは全く違う方向、工場内に入ってきた蜂のような虫に気を取られていた。セオノアは呼ばれ、所長と入れ替わるように黒スーツの集団と対さなければならなかった。用件はハーブレイが精神的に不安定なため同行願いたいということだった。所長はセオノアをやはり庇った。だが所長の立場を考えてしまうと悪い気がして要求を呑んだ。作業着を着替えることも許されず、車に乗せられた。向かう先は旅館ではなかった。工業地区と大通りを挟んだ新興住宅地の方角で、離れたところにある送電線と変電所に住宅地とで挟まれた位置にある大きな新築の家だった。本当に建てられたばかりといった具合だった。周りは田畑に囲まれ肥やしの匂いがした。庭は青々とした芝生や花壇があった。きょろきょろしているうちに黒スーツたちに囲まれ真新しい扉へ促される。シーリングファンが回る玄関と入ってすぐに階段。黒スーツの者たちはセオノアを2階へ誘導すると引き返していった。電気はどこも淡いオレンジやほんのりとしたペールピンクを帯びていた。晴れた日の砂浜を思わせる壁や内装だった。 「ハーブレイさん?」  他人家を家主の許可なしに歩き回らなければならい緊張感に声は上擦った。 「セオノア?」  返事がある。2階の奥の部屋だった。渋い色の扉を遠慮がちに開いた。ハーブレイは義手義足も付けず、照明も点けずにベランダの外を眺めていた。空は緋色が紺色に呑まれ、日が暮れる。 「精神的に不安定って聞いたんですけど」  電気点けますよ。一声かけてから壁際のスイッチを押した。ハーブレイはカーテンを両腕に挟んで閉めた。片方はセオノアが閉める。 「試運転の失敗の話だろう、きっと。別に特別不安定というわけでもないさ」 「そうですか。そういうことなら用は済みましたね。では帰ります」  くるりと身を翻す。荷物はすべて事務所にある。ショーファードリブンカーはまだ待っているだろうか。ショーファードリブンカーでなくとも足はあるだろうか。殺風景なために工業地区は遠くに見えるが仕事終わりの身体では積極的にはなれない。 「君は俺が嫌いかな」  話しかけられ、足を止めた。振り返る。義手義足も付けず、電動車椅子にも乗らないハーブレイは随分と目線が下になる。 「嫌いとか好きとか考えたこともないですよ。仕事の関わりにそういうの要りませんし。あっても邪魔です」 「だが仕事とはいえ、あるだろう。好き嫌いは」 「オレがハーブレイさんに抱いた印象はどちらでもないです。特に好く理由も嫌う理由もない。オレ、人と個人的に関わるの、もう嫌だし」  言っていてどこか違和感を覚えた。ロミュスの姿がちらつく。久々に人と個人的な話をした気がする。故郷のこと。生まれたが同じ地方でリンゴをよく食べた話をソフトクリームを食べながら話した。彼はギターを弾いたりハーモニカを吹くのが好きだと言って、セオノアは映画を観たり機械をいじるのが趣味だとか。次々と。自ら。 「俺は君に心を掻き乱されるのに…」 「ならもう会わなければいいんじゃないですか。黒服さんに連れて来られたのはこっちですよ。オレは貴方の奥さんのこととか知りませんし…」  夕日に染まって少年の朧げな視線をふと思い出した。ロミュスの裾を上げる仕草がたまらなく胸を痛くした。明け透けなあの少年の態度に溶かされてしまいそうになる。 「逆だ。君に会えないから、つらい。もう会わなければいいとかやめてくれ。言うなそんなこと…」 「奥さんの代わりですか。いいですよ。なります。どうせ籍を抜くんでしょう」 「抜かない…!離婚してくれと言われたって抜くものか!」  悲痛な叫びが木霊する。セオノアはたじろいだ。眉根を寄せ感情を露わにする姿に気圧(けお)される。 「好きだったんだ、これでも。でも死なせた!好きだった、愛してしまっただなんて、言えるわけないだろ…!姉を死なせたんだ。弟に何を言える?」  ハーブレイは俯いた。 「じゃあロミュスくんには黙っているんですね、このまま」  ハーブレイは頷いた。 「姉は打算的に利用されて殺されたのだと思ったまま、ロミュスくんは生きるわけですね。懐いていた義兄はバカで間抜けで根性なしで全く姉を愛しはせずに、自分自身は巻き込まれて人でないものにされたまま何の救いもなくロミュスくんは生きていくわけだ?分かりました。オレの口を出す幕じゃないのでそのことについては何も言わないです。さして興味もない。傷口に群らがる虫を払い除けるのは容易なことじゃないとは、分かってるつもりです」  セオノアは捲し立てた。ハーブレイはじっとしていた。居眠りでもしているものかと思われた。 「俺は、彼女がまだ俺を認識する前から彼女が好きだった。だから彼女に近付くよう、軍部から(めい)が下った時は、本当は、嬉しかった。こうなるなんて思わなかった。死ぬなんて思わなかった。弟にまで手を出すなんて思わなかった。彼女の家のことを探るだけで、それだけで…解放されると思った。次は交際、次は結婚、次は…」  懺悔を聞いた。懺悔を延々と聞かされた。神の子を産むには必要な女だったという。神の子が現れた時のことを記す典籍がこの地には残されていた。大昔、一度神の怒りに触れて地上が大火に包まれた時も、地神の異なるこのグレン地方は大火を免れ、史書が残っていた。神の子を有人機動兵器に組み込むことによって、神と人との調和と共存の象徴になるという。その象徴の先に神と禁忌を破った技術開発があるのだと。 「アガルマの核にあるのは、俺と彼女との…胚だな。不本意な。あまりにも」 「不本意って…」  生々しい単語にセオノアが口元を押さえた。個人に対する意識が腹の膨らんだ女に対する嫌悪と成り変わり、まだ拭えないのだ。そしてその周辺にちらつく男の姿すらも。 「俺の胸には大きな石が入っている。紅い石だ。人工的に作り出した神の石というやつだな。これが必要だった。史書の通りの役者を揃える必要があったんだな。自然受精した子は死んだ。母体と共に。だが…俺がこの石を埋め込まれてからの…」  セオノアは眉を顰める。死体から受精させたということらしい。だがやはり、神の子にはならなかったのだという。 「あの機体がそんな血生臭かったなんて聞いてませんよ」 「シャークスモール社は知らないだろう。トータシェル社は知ってたはずだ。胚の餌のために手足を持っていかれた俺も軍部から引き取ったのはトータシェル社なんだからな。この地はいいところだな。皆俺を大切にしてくれる。ちやほやとな」  ハーブレイはセオノアをじっと見て黙り込んだ。それを帰宅の催促で話は終わったのだと解釈したセオノアは特に躊躇いもなく部屋を出て行った。階段脇の壁のアーチを描いた深い凹みに鳥がいた。止まり木に鋭い爪を引っ掛けていた。置物かと思ったが、猫のような金色の目がセオノアを見つめて翼を直したりしながらきょろきょろと忙しなく動いていた。燃えるような赤と緋色、そして金色のグラデーションが美しかった。大した感慨も抱かずに階段を下りる。玄関を出ると黒スーツが1人立っていた。もうよろしいのですか、と問われる。セオノアは頷いた。怒鳴り声が聞こえましたが、本当に。黒スーツは尚も問う。精神的に不安定というのは本当ですね。セオノアはそれだけ答えた。  ロミュスと会うのは楽しかった。田舎町が変わって見えた。フラワーパークに行って一面のラベンダーを見た後は塔型風車の丘を登って花畑を見渡した。ヒラオリ地区の数少ない観光スポットらしかった。以前海に行った時の帰りにはもう考えていたらしい。ひと通り花畑を見て、マスコットキャラクターの着ぐるみと戯れ、近場の酪農の肉や乳製品を味わった後、ロミュスは風車の前で屈み込んだ。紅いレンガ造りの塔型風車でそこに至るまでが一面花畑で、南向きに斜面になっていた。石畳の通路以外は芝生に覆われ、塔型風車以北はフードコートや土産物店、さらに奥には植物園などになっている。時期によればイルミネーションが点灯し、それもまたひとつの観光スポットたる所以であるらしかった。 「疲れちゃった?」 「いんや。ちょっと急に、ここの風に当たりたくなっただけ」  ロミュスの横にセオノアも座った。肩にぽすりと重量と体温を感じた。ロミュスが頭を預ける。柔らかな匂いがふわりと漂った。 「とある希少な花があってさ、それを咲かすためには、元の花を踏み荒らして、踏み躙ることで変異を起こして、稀にその花が咲くことあるんだって。んで、その花を手に入れると幸せになるんだってよ」  ロミュスは甘えた話し方をした。彼の背に腕を回す。レザージャケット越しに体温が伝わった。今日は少し朗らかな気温で、その下には薄手のラグランシャツを着ていた。 「そうやって探すんだな、人は。幸せを」 「ロムくん?」  セオノアも可愛がっていた野良猫にするような声でロミュスの顔を覗き込む。 「へへ、なんて思ってたわけ。でもそんなことしなくたって、見つかったな。幸せ」  隙ありとばかりに頬に唇を当てられる。顎を引いて逃げようとしたロミュスの脇腹を押さえ、アプリコットのような唇にキスした。彼はくすぐったがりながら暴れる。 「なぁ、もう1個だけパフェ食べていい?」 「仕方ないな」  へへ、と笑いフードコートへ跳んでいく。小さくなっていく背中を見ていた。ロミュスは甘いものが好きなようでここでも花の蜜を掛けたパンケーキだの、木苺の乗ったチーズケーキだの、ミントゼリーだのを食べていた。軽やかな足取りで彼は花が飾られたパフェを持ってくる。マンゴーやパイナップルが周りに散りばめられ、中心にはバニラアイス、その上にはチョコソースがかけられバナナで囲われていた。両側に細長いスプーンが2本刺さっている。 「甘っ。へへ、美味しい」 「ちょっと大味だね。これひまわりなんだ?」  セオノアは周りのマンゴーやパイナップルとシロップを掬ったがロミュスはバナナを口に放った。セオノアに言われ、ロミュスが改めてパフェを見る。バナナが花弁を模し、チョコソースはひまわりの中心の模様を作っていた。 「全然気付かなかった!」  ひまわりを模したパフェを夢中になって食べてるロミュスを隣から、花畑もそっちのけに眺めていた。ずっと見守っていたくなるような、危なっかしい感じがあった。今でも彼が年上であることが信じられない。 「食わないの」 「うん?食べる」  細長いスプーンを花瓶のようなパフェの器に挿し込んだ。ロミュスの目には小さな紅い光が映り込んでは消えた。ちょっと頭がキンキンする、と言って笑った。食器を受け取って、茶髪を除けると額に当ててやる。 「ロミュスくん、」  頭を抱え込んでロミュスはけたけた笑い続ける。まだ爛々と輝いている。何度か瞬いて強く目を閉じる。初めてではなかった。時折体調が悪そうになる。 「どこかに泊まる?」 「明日、大変でしょ。運転中は大丈夫だし。ノアさんを事故になんて遭わせないから……ッ!」  微かに唸って頭をさらに強く抱き込む。頬や首筋に触れた。少し体温が低い。 「オレは休みだよ。だから大丈夫。無理しないで」 「…じゃあちょっとだけ休ませて。すぐ良くなるから、大丈夫」  ロミュスはセオノアの膝に頭を預け、その間に溶けているアイスとその下のコーンを掬い上げた。人懐こい大きな瞳の奥で炎が燃え盛る。 「やっぱノアさんのこと、好きだな」  軽率な笑いを浮かべている。キスしてよ。身を屈め、悪戯な唇に応えた。バニラで冷えた口付けだった。 「甘いなぁ。ノアさんとのキスは」  パフェを食べきった頃にロミュスは起き上がった。 「もうほとんどないよ」  うん。彼はセオノアの唇にまたキスした。舌で唇をなぞられ、セオノアはびっくりして周りを見渡した。誰にも見られていないようだ。甘いなぁ、と言って微笑まれ、顔が一瞬にして熱くなった。 「変な人だな。さっきからちゅっちゅちゅっちゅしてたのに」 「だって、一瞬だったし…」  ロミュスは立ち上がった。セオノアの腕を取り、立ち上がらせると食器を奪いフードコートに返しに行った。胸に微熱が留まっている。戻ってくるときに顔が見られなかった。ふいに顔を逸らしてしまう。 「もう平気!あんがとな。ノアさん」  目の前を踊るように回り、セオノアの手を掴んだ。翻弄される。軽い運動をこなした感じがあった。掴んでいただけの手が離され、セオノアの指を纏めて握った。高くない体温が伝わる。ロミュスは遠慮がちに笑って指を放そうとした。胸がちくりとした。セオノアの指が微熱を残していったロミュスの手へ噛み付いた。 「恥ずかしく、ない?」 「ロミュスくんだから…別に…」  繋がった手が熱かった。治りかけの火傷に似ていた。疼いている。しかし痛くはない。 「ノアさん、行こ」  植物園へ腕を引かれる。塔型風車からオルゴールが流れ、時刻が変わったのを告げた。地が揺れる。まだオルゴールは流れていた。ロミュスが腕を振り払い、セオノアへ背を向け前に立つ。日が陰っていく。花畑は暗くなった。人々がざわめく。 「ロミュスくん?」 「やっぱノアさんのこと好きだな」  青かった瞳が紅く光っている。花畑を囲む森の果てに巨大な影が現れる。オフホワイトの装甲と見慣れた形の胸部。だが色味はわずかに違うところを見ると旧型だ。人型有人機動兵器が目の前にある。金属製の大きな手がロミュスに向かってきた。花が散る。 「ロミュスくん!」  セオノアは逃げる気配のないロミュスの腕を引いて騒然とするフラワーパークを駆け抜ける。塔型風車は握り潰され、放り投げられた。 「ノアさんを狙ってるんじゃないのかな。アレのパイロット、誰だっけ?」 「ハーブレイさん?でもあの人はそれなりの分別はある。こんなことするかな?また熱暴走?この前もあったんだ」  テーブルの消しカスを払うように花畑の花は金属の手によって地面ごと抉られた。幼い子供が泣き叫ぶ。パニックになっている若い女の声も聞こえた。いつのまにかロミュスに腕を引かれ、植物園のあるガラス張りの建築物に入った。 「あれがあればさ、各地で秘密裏にやってた遺伝子編集も、記憶操作も、表に出せるんだ。ぼくがやられた実験も。あれは神と人との融合で、神の克服のシンボルで、科学が神と肩を並べた証明で、だから開発に躍起になってる。人の未来と希望の門ってわけ」  植物園に入ってすぐの大きな木は荘厳な雰囲気を醸し出していた。セオノアはロミュスの話を聞きながら木を見上げていた。植物園の強化ガラスの天井が吹き飛んだ。落下物から庇われながら身体を引かれる。 「打ち切られるよ、試運転は失敗したんだから。それにこんな騒ぎ起こしたんじゃ開発中止待ったなしだよ。そしたら多分オレ、クビ切られるんだ。新しい仕事探さなきゃ。地元に帰ろうかな。でもロミュスくんとは離れたくない」  植物園の入り組んだ通路を抜け、閉所に隠れる。目の前の大きな植物が破壊された。緑の皮に覆われていた幹が割れる。葉が落ち、ガラスが割れた。ロミュスはセオノアを見つめ、視線を返せば微笑まれる。 「そんなふうに言ってもらえて嬉しいよ。ねぇ、ノアさん。前に"知り合い"に似てるって、言ったじゃん」  ロミュスはセオノアをつれてさらに奥へと引いていった。植物園の展示スペースから外れたロビーや休憩所だった。他に人はいなかった。ブラインドが下がったガラスの大窓からの光では薄暗い非常階段の壁に押し付けられる。破壊の雑音が近い。だが捕らえられて離さない真剣な眼差しに、ここから逃げるという考えが浮かばなかった。 「あれはぼくのことだから。ノアさんと同じ、傷付くのも傷付けるのも面倒で、でも必死になってた。これだけ知っておいて。ぼくはノアさんのこと、」  大きな手によって非常階段脇のロビーが横に薙ぎ払われる。ガラスは繊細な飴細工と化し、瓦礫が転がる。天井を保っている階段へロミュスはセオノアを押し付けた。可視光線によって場所を把握しているらしかった。クレーン車に似た、だがそれより太い指が壊れた天井からセオノアたちへ向かって伸びる。 「あんなもののためにさ、ひとつの家庭が、ぶっ壊された。好いた人間と一緒にいたかっただけなのに…」  ロミュスの目が紅く光る。白目を剥いているのかと思うほどに激しく放光した。震えた彼の手がセオノアを突き飛ばす。有人機動兵器の無骨な指が2人のどちらを狙ってもいるのかも分からないまま差し迫った。轟音が地に響き、雷が落ちる。光の柱が真っ直ぐに血生臭い人型金属を巻き込んだ。セオノアは尻餅をつきながら、細かな瓦礫の上に倒れ込む前に崩れ落ちるロミュスを支えた。近くに血痕が降り、ぎょっとした。鼻血が二手に分かれ、(おとがい)まで伝っている。袖で拭った。顔が汚れ、乾いてしまうと落ち切らなかった。建物が軋む。巨人は停止した。天井が崩落する。膝で眠るロミュスに覆い被さった。目を固く瞑り、頭や背を打つ質量のある雨に打たれる。少し離れた場所が派手に崩れていることを聴覚で知る。気を失っているロミュスを眺めていたが視界は突然暗くなる。夜がきたのかと思ったほどだった。大きな影に包まれている。真上の天井が落ちた。大きな指と指の天井から葉が揺蕩い落ちてきた。ラグランシャツに乗った葉を摘まみ上げた。膝の少年ひとり分の重みが消えていく。葉も衣類も一瞬にして燃えた。赤い光でスキャンされていく光景に似ていた。膝の上でさらさらと吹いた灰塵を掬う。翠の玉が両手から滑り落ちる黒ずんだ砂から現れ転がった。砂時計のような出会いだった。セオノアはそう思ったまま翠の玉を拾った。浜辺で聞いたハーモニカの音が聞こえた気がした。何度か触れ合った唇をなぞる。海辺の砂よりも柔らかな粉塵が粘膜についた。何をすべきかも分からないまま立ち上がる。汚れた衣服を叩くことも忘れ、瓦礫の中で手を伸ばす石像を見上げる。目も鼻も口もない、ただ頭部と分かるだけの凹凸のない縦割れの装甲から、両目を見出して見つめ合う。セオノアの眉間に皺が寄った。見慣れた形状の胸部まで目で辿ったが、開閉部を見る前に踵を返して植物園を出た。何も考えが浮かばなかった。フードコートは誰もおらず、建物の中から様子を窺う人々が見えた。パンフレットに載っていた塔型風車の無残な姿や地面から抉られた花畑の間を抜け、橙に染まりゆく斜面を下る。入場口付近の花屋や土産屋、ケータリングサービスを目にすると今日来たばかりの数時間前がふと思い出された。後輪が大きなブラックとパープルのバイクに縋ってセオノアはアスファルトに座り込んだ。誰より短い付き合いだった。だが誰よりも覚えている。踏み込まれ、残され、去っていってしまう。失くしそうだから持っててよ。渡されたバイクのキーにぶらさがるネコのストラップをもぎ取った。

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