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第7話

 紛い物であるというのは、つらいことですね。  女が言った。セオノアはハーブレイの家を訪れていた。セオノア自身の意思ではなかった。所長に願われては仕方がなかった。ただならない事態なのだと思った。真っ白な細長い車で可愛らしい外観だというのにひどく不気味な一軒家に入っていった。女の姿などどこにもなかったというのに風で鳴る金属棒を思わせる繊細さと神経質さを持った声が耳元に聞こえた。振り返ってみてもいるのは観葉植物に止まっているスズメやインコよりも大きい挙動不審な鳥だけだ。着色料を塗りたくったような色合いで、しかしそれが不自然でないのが癪に触った。鳥を無視して部屋に向かう。 「ペットの管理はちゃんとしたほうがいいですよ」  入室早々に挨拶もせず悪態を吐いた。ハーブレイは窓際の椅子に腰掛け、以前と同じく外を眺めながら点滴を受けていた。シリコンで覆われた義手と義足を嵌めている。セオノアを見ると麗らかな笑みを向けられた。 「よく来てくれたね。でもすまないな、――は今出掛けていて。俺でよかったらすぐに茶の用意をするよ。下で待っていてくれるかな」  全く知らない名が出され、ハーブレイは立ち上がる。義足が軋んだ。セオノアは身を竦ませた。 「スティカは元気だよ。ほら、おいで。セオノアくんが遊んでくれるって」  ハーブレイは色鮮やかな鳥に手招きする。人違いを起こしているわけではないらしかったが却ってそれがさらにセオノアを不気味にした。鳥はハーブレイのシリコンカバーの手に飛んだ。 「少し待っていてね」  鳥を渡される。だが受け取り方が分からず、長い爪に戦慄した。ハーブレイは苦笑して肩に鳥を移すと、穏やかに階段下へ促した。鳥の羽毛が髪や耳、横顔に当たる。肩に爪が刺さっているが布に守られていた。階段を下りたはいいが、どうしていいか分からなかった。首を曲げると鳥の羽毛に当たり、大きく揺れる。上手いこと均衡を保っているこの鳥を落としてしまわないか、ひとつひとつが慎重になった。義足の軋みが近付いた。階段の手摺につかまりながらゆっくり降りてくる。 「今すぐ用意するから。座っていて。寒くはないかな。ここは乾燥するからね、加湿器を付けるよ。風邪を引いてしまったら困るからね。そうだ、聞いたよ。試験の結果が悪かったんだってね。プログラミングのことはさっぱりだけれど数学はそれなりなんだ。今度見ようか」  リビングに案内され、背を押されるとダイニングチェアに座らされる。食器の棚を探しながらハーブレイは話した。 「それにしても遅いな。せっかくセオノアくんが遠くから来てくれたっていうのに。連絡は入れておいたのかい?」  電子ポットに水を注ぎながら訊ねられた。セオノアは黙った。鳥は頻りにきょろきょろしているだけで、その度に肩に振動が伝わる。 「どうしたんだ?疲れてしまったのかな。寝るかい。君の姉さんが帰ってきたら起こすよ」 「いや…帰りますよ。さすがに長居はまずいので」  ハーブレイから逃れる口実を見つけ椅子から立つ。横歩きになりながら一歩一歩慎重に廊下へ近付いた。 「だが、今来たばかりじゃないか。明日も忙しいのか?泊まっていったらいいだろう。車を出そうか」  セオノアは勢いよく首を振る。ひとりで帰れます。声に出せなかった。異様な感じがあった。フラワーパークを壊滅的な状況にした張本人とは思えなかった。何を言うべきか迷って訪問したはずが、まるで話が通じる様子がない。 「遠慮するな」 「して、ない…」  鳥がキュイキュイと能天気に鳴いた。 「スティカもまだ君に帰って欲しくないようだ。もう少しゆっくりしていかないか?」  セオノアは首を振った。鳥を肩から払い、玄関へ向かう。開かなかった。叩く。鈴の連なった飾りが鈍く音をたてる。玄関は開いた。だが留められる。スーツを身に纏った肩越しのサングラスが首を振る。まだ出て来るな、と。 「どうしたんだ、セオノアくん」  手の甲に鳥を乗せたハーブレイが悲しげにセオノアを見た。玄関扉に背を預ける。 「様子がおかしいな。熱でもあるのか」  赤い瞳が近付く。鳥に観察されている。 「ハーブレイさんのほうこそ、おかし…い」  声は裏返り、相手に聞こえているのかも怪しかった。赤い瞳が煌めく。義足が軋めく。気が付けば息が吹きかかるほどに迫った。 「ハーブレイさ…ッ」  鳥が羽ばたく。階段の手摺りに止まった。シリコン越しの金属に腕を掴まれる。唇が湿った。目を見開く。晴れやかな思い出に泥を塗られていくような感じがあった。 「待ってた」  一度離れた隙に蕩けた声が頬を掠める。薄い唇にまた言葉を堰き止められ、セオノアの視界は滲んだ。脳裏に留めたままでいた無邪気な幼い男の笑顔が消え失せていく。頭を抱えられ、口付けは深さを増し、思考を奪った。力が抜け、立っていられなくなる。人工的な腕に支えられる。少年然としていた年上男が好きだったのだと気付いてしまった。上司や受付嬢に抱いていたもの、所長に抱いたものとはまた違う、さらに踏み込んでいて質の悪い、粘り着いた好意だった。舌が絡まる。涙がこぼれた。ハーブレイとのキスは甘かった。触れただけで終わる子犬みたいな少年とは違った。 「泣かないで。俺が守るから。君のことは俺が守るから」  知らない人の名を呼び、シリコンの肌で拭われていく。セオノアはまたキスされる。拒否は許されなかった。腕を壁に縫い付けられ口腔を暴かれていく。 「…ッあ、ふ、」  抵抗を試みも舌を吸われるとすべてがどうでもよくなってしまった。力強い腕に引かれた。玄関に倒される。シーリングファンが回っていた。猫に似た金色の軽蔑的眼差しを鳥から受けてセオノアは焦りに身を翻し、床に這った。 「い、やだ!」  玄関は塞がれている。咄嗟にリビングを選び、逃げた。追ってくる気配はない。距離を置いて、唇を拭う様がどこか絵になっているハーブレイへ対した。後退るがソファに行く手を阻まれた。 「ハーブレイさっ…!」  緩慢な動きであるが力強くソファに倒される。腹に跨られると義足の重さが一気にかかった。 「嫌な夢を見るんだ……」  頭を抱えて、それから動きを止める。目元を隠し、へらへら笑った。逆光していてよく見えなかった。 「奥さんに、こういうことするんですか」  やはり声は上擦り、震えていた。義手の関節部が鳴った。 「しよう…?」  熱に浮かされたみたいに顔を赤くして彼は誘った。今にも泣きそうに眉根を寄せていたのが逆光の中で分かった。シャツのボタンを外していく様を、知っている義手のメーカーではないな、もう少し最新技術に踏み込んだメーカーだな、などと他人事のように考えていた。工場にあった有人機動兵器胸部の筐体内部の熱暴走で壊れた義手義足は、もう修理が利かないほどに内蔵部が損傷していた。操縦士が大した怪我がなかったのは義手義足に組み込まれていた部品に保護されていたからだ。 「…ッぁ、」  ハーブレイの両手に薄い胸板を大きく撫で回されている間もまったく違うことを考えていた。天井の板の繋ぎ目を追っていたりした。股間と股間が擦り合った時に小さく漏れた馬乗りの男の声で我に返る。 「分かったでしょ?オレ、奥さんじゃないって」  黙れとばかりに口を塞がれる。触れるだけなら許していたが、舌が入り込む前に顔を逸らした。けたけたと笑い甘える少年に後ろめたさを感じた。 「いやだ…!」  取り乱して叫び、銀髪が揺れた。セオノアの衣類を掴むがシリコンは滑って上手く掴めないでいた。 「奥さん亡くなったの、分からないんですか」  紅い双眸が欲に光りながら濡れている。 「いやだ…、よせ…、やめてくれ…!」 「奥さんは帰ってきません。ここで待っていても、ずっと。あなたが疲れるだけだ」 「やめてくれ…っ、どうしてそんなこと言うんだ?」  銀髪を掻き乱し、背を弓なりに逸らしてハーブレイは絶叫した。セオノアはただただ不気味で珍奇な空気に身を浸していた。腹に乗る重量感だけが生々しい。玄関のドアに括り付けられていた葡萄のような鈴が低く開扉を知らせる。人の気配がリビングに集まる。黒スーツの人々たちにソファは囲まれた。腹の上で暴れる成人男性に注射器が打たれた。機械と筋肉の重みが胴を覆った。だが黒スーツたちによって抱え上げられていく。  あまり引っ掻き回さないように。お願いします。区切ってから黒スーツのひとりは言った。テーブルに分厚い札束を置かれていく。身体を起こす気もなかった。リビングの天井を見つめていた。 「どうなってるんだ」  薄型テレビに止まっている鳥に問う。鳥は瞬くだけだった。ひとりで喋っているばつの悪さを誤魔化すように上体を起こして座り直す。  人はより長く生存するため、古傷を塞がない選択をしました。二度と同じ過ちを繰り返さないよう、傷を開け広げたまま生きることに決めたのです。  テレビのリモートコントローラーを踏んでしまったのかと思ったが、テーブルの上に冷暖房のものと揃えて置いてある。鳥はきょろきょろと首を動かしている。  だのに彼等はその古傷こそを致命傷として、患部ごと抉り取ることで塞ぎました。けれど痛みばかりは残っているもの。  ウィンドウチャイムに似たような声はまだ耳に届く。 「そんな大事なことなんですか。あのロボット動かすのは」  よりよく幸せに、心安らかに、穏やかに、安全に、健やかに、病むことなく、()むことなく、笑って暮らせる世の中の訪れには、自然の摂理を捻じ曲げることが時に必要なのです。そうして戦争を終え、疫病を避け、飢餓を乗り越えました。次に人々が向かうは神と人との調和、許し、共存、克服。人が人を超え、神を創り、神の親となり、科学で世を治める。あの哀れな人形はその象徴です。 「今のハーブレイさんが幸せで穏やかには見えませんね。あんな状態で病んでないと言えるんですか。機械いじりよりもすべきことがあるはずです」  今現在、神は死にました。彼は人の生を捨て、次世代の神になるのです。人の喜びは捨て、人の悲しみもやがては捨てることになるでしょう。神と人との融合、彼とあの哀れな人形が向かう先はそこにあります。恋心に目を曇らせるのは分かりますが、邪神の傀儡(くぐつ)に耳を貸しませんよう。 「仲良かったんじゃないんですか…」  深く考えもせず咄嗟に出た言葉だった。半分も理解出来ていなかった。言葉の意味も、現状も。鳥が喋るはずはない。鳥が人の形になるはずはない。気が狂ってしまったのかと自身を疑った。意識も記憶もはっきりとしているが、目にしていたもの、目にしているものが事実であるのか全て疑わしくなった。生きた羽毛の塊を睨み、セオノアは新築物件を出た。二度と来ることもない。そう思っていた。  ご同行願います。黒スーツ2人がセオノアの行く手を遮った。居住者と彼を取り巻く環境こそ一種異様で奇態極まりないが外観ばかりは可愛らしい造りの新築の家には不相応だった。拒否なさるな。額に冷気が当たった。鈍く光る黒筒。どうしてもセオノア様が必要なのです。片方が言った。報酬ははずみます。もう片方が言った。  車に乗せられ、着いたのはトレスブレッシェン・コーポレーションという複合企業だった。トータシェル社よりも清々しい印象のある大きな建物が聳えていた。新興住宅地よりも広い敷地だが支社らしい。その中でも大きな建物の近くに車は停まる。周りは田畑ばかりで西側は少し遠くに運送株式会社がある。東に大きな陸橋があり、住宅地と田園風景の教会のようになっていた。北西に進むと片田舎なりの都市部がある。黒スーツに連れられ、建物に入った。外壁はガラス張りで、内部のエレベーターもガラス張りだった。階段も白い板を重ねたような作りでスカートなどの服装はあまり相応しくないようだった。外は暗いが照明は強く、受付嬢が揃って両手を腹部に当て頭を下げ、黒スーツたちを迎える。トータシェル社の陰気な感じとは対照的だった。エレベーターに乗り最上階で降りる。影絵のような山脈を見ながら黒スーツに案内される。南東の果ての部屋に促された。報酬ははずみます。場合によっては御社の命運も…  黒スーツたちは思わせぶりなことを言って扉を閉めた。明かりの付いていない暗い部屋は入ってすぐの壁に埋め込まれた水槽の光だけが灯っている。熱帯魚は軽やかに泳ぐがどこかぎこちなく、観察していると生き物でないことが分かった。何をしたらいいのか分からないまま薄明かりの中で見つけた椅子に座った。部屋の奥には大きなベッドとニッチ棚があるらしいのが四角形に並ぶ対して明るくないライトで分かった。生命体の入っていない水槽の循環機の音を聞きながら淡いバイオレットに色付いた水とその中の無数の気泡、揺れる水草、動き方をじっくり観察さえしていなけれざ本物そっくりな熱帯魚を眺めて時間を潰していた。今がどれくらい夜であるのか見当もつかない。扉が開き、暗さに目の慣れたセオノアには眩しかった。歩くたびに金属の摩擦音が小さく聞こえた。熱に浮かされたように入ってきた青年はふらふらしていた。紅い瞳がガラス玉のように暗い中に光る。目が合ってしまい、すぐに逸らした。彼はセオノアの前に来ると親しげに肩に触れ、手を取った。シリコン素材に掌に伝わる。 「おいで」  甘えるような声でベッドにまで手を引かれる。 「ノア」  顔を顰めて妖しく笑う銀髪の青年を見上げた。親しい者にしか許されない略称を気安く口にしてセオノアの髪を梳いた。 「いつもみたいに、しないのか?」 「いつも?」  ハーブレイはこくりと頷いた。セオノアにキスしたが、突き飛ばしてしまった。頼りにならない威力の弱いライトに照らされた広いベッドに銀髪の青年は倒れ込んだ。義手が音を立て、まずかったかも、と思った。 「いつも、みたいに……その、手足、外して…いっぱい、するやつ…」  言葉を失う。ハーブレイは両手で顔を隠し、照れながら説明した。セオノアも顔を手で覆った。話が通じていない。どうするべきか分からなかった。 「手足を外して何を…?」 「…言わせるのか」  ベッドと義手が軋み、ハーブレイは状態を起こした。突っ立っているセオノアのボトムスに手を掛ける。突拍子もない行動に驚いた。 「口でするから、機嫌を直せ」 「え、何、どういう、ことなんです、か!」  腰を抱かれ、下着の中に手を入れられる。小回りが利く間接部や可動性に優れた関節はやはりセオノアの知った義手のメーカーではなかった。気が取られ、素肌にシリコンが触れた。腰に回されていた腕によって逃げることは許されなかった。敏感な肌に触れられ、弱い痺れが全身へ広がる。 「…ンぁっ」  声が漏れた。口を押さえる。 「可愛い」  茎を扱かれる。触られただけで芯を持った。セオノアはゆるゆると頭を振った。本社でのことがあってから、性的な物事に嫌悪を示すようになってしまった。受付嬢に迫られた時の胸だの、油を塗ったように照った厚い唇だのを思い出してしまうのだった。それがおぞましかった。恐ろしかった。本当に彼女を強姦したのではないかと思い、罪悪感と自己嫌悪にどうしようもなくなった。それきり下腹部を相手にするのはやめた。朝に下着を汚す情けなさのほうがずっと救われた。思いがけない唇の柔らかさに何度も浸り、やっと思い出した若さの習慣は、けれど突然訪れた離別によってまた失われた。忘れてしまったといってもいい。思い出したくないとも。そうして今に至る。  先端部に生温い舌が這った。筋に沿いなごら根元まで唇で柔らかく食んでいく。時折扱かれ、根元から先端まで舐め上げた。 「ぁっ!」  ハーブレイの口腔に下腹部のものを収められていった。喉奥まで咥え込まれ、搾られる。口淫に身体の自由を奪われセオノアは銀髪を掴んだ。さらに腰を口内へ押し進めようとしているのか、引こうとしているのか分からなかった。 「…ンぐ、ッく、」  シリコンカバーの両手に腰を鷲掴みにされ、ハーブレイの体温の中で唾液と共に扱かれると射精欲が高まり、まだ塗り潰せない理性が逃げをうつ。喉を締められ、放出しそうだった。虚無感が怖かった。白濁を放つ感覚が期待よりも気持ちの良くないことを知っていた。快楽に身を委ねられないことも分かっていた。どれだけ撫で摩っても蘇らなかったというのに、この男の口ではっきりと反応を示している。 「っ、ぁ、や、だ…やだ!」  泣きそうになりながら呟く。ハーブレイの顎を掴んで殴った。拳の痛みで殴打したことを認識した。ハーブレイはベッドに肘をつき身体を支えて口元を拭う。セオノアの屹立を見てからセオノア自身を見上げた。住居者のいない水槽が低く唸っている。ハーブレイは困ったようにセオノアを待つばかりで何か言う気はないらしい。忙しい呼吸を整え、履いていた物の乱れを正した。 「帰ります」 「随分と機嫌が悪いな…」 「機嫌とか、そういうんじゃ…」  不断な物言いが悪いのかも知れない。自身の異常さに気付かない相手に嫌気が差した。この男はもう壊れているのだ。会社に任せるべき事案で、その会社はもうすぐ削減される部署の不祥事付きの人間を頼っている。考えて嫌になった。徹底的に汚してから捨てるつもりなのだ。 「いい加減、迷惑なんです」  ハーブレイの表情が歪んだのが飾りにしかならない弱いライトの中で分かった。 「貴方は悪くないけれど、オレを巻き込むな」  部屋の扉を開ける。待ち構える黒スーツたちに首を振った。無理だ、手に負えない。話が通じない。分厚い封筒を渡されたが断った。ロビーで待つように言われ、トイレに向かうと伝えた。トイレで昂ぶったままの下腹部を解放しようとするがなかなか集中できず結局腹に蟠りを残したまま言われた通りにロビーで待った。夜景が見える北側に向けて置かれたソファに座る。バイクのキーに付いていた猫のストラップを握り締めた。最低な気分だった。自涜の直後は憂鬱になる。だが放置というのも気持ちを掻き乱されたままになった。明日の朝は下着を汚すのだろう。項垂れた。  彼に子がいるなら、是非。  いや、何でも親権は持ってないとか。  構わん、金に糸目はつけん!誘拐してでも連れてこい。これであの州知事を引き摺り下ろせるというものよ。  しかし民間人ですし…  なに、シャーククレストの社員なら掌中に収めているも同然よ。  聞こえますか。  セオノアは体重を預けていたものから弾かれるように飛び起きた。茶髪に青い瞳の青年が隣に座っている。デニムジャケットにグレーのジップアップのフーディ。胸が小さく痛んだ。指の感覚がなくなるほど握り締めていたネコのストラップを放した。セオノアは目を丸くした。知った相手であるはずだった。だが様子が違う。青年だった。落ち着いた雰囲気は少し見覚えのある女に似ていた。  貴方もいずれ、記憶操作の機械にかけられます。そうして、あの日何があったのか知る者もいなくなる。ひとつ事実が消え、ただ成功がそこに残る。お逃げなさい。  青年は青い目を伏せた。夜景を遠く眺め、またセオノアを見る。彼の名を思い出せなかった。  お逃げなさい。時に目的は、人を狂わせる。罪深いのは自由意思で、人ではありません。神は死にました。お逃げなさい。  冷たい手に頬を撫でられた。子犬として認識した顔には無邪気さや忙しなさが失せ、精悍さを帯びながら落ち着きが浮かんでいた。 「逃げたら、どうなるの」  震える声で問うた。茶髪の青年は何も言わなかった。力の抜けた手に手を重ねられ、口付けられる。清らかな思い出が蘇る。柔らかな唇に身体が強張った。腕が回る。デニムジャケットの下の感触が確かにある。生地と肉感を認めても体温だけがどうしても感じられなかった。塞がれただけの口唇を互いに幾度か食んだ。安堵感に口付けは深まる。舌先で押し込まれるていくように頭の中に知らない記憶が流れ込んだ。  ひとりの青年がいた。金髪に金色の目で、聖堂にいる先生たちと似た衣装を身に纏っていた。声も音もなかった。彼は人々に囲まれ、人々を癒した。彼は大きな円花窓(えんかそう)の美しい大聖堂らしき場所で天井を見上げていた。光の柱が落ち、その下で心願(いの)りを捧げて、対話しているようだった。彼は苦しみに悶えはじめ、半身を鱗に覆われた。彼は大聖堂が下に見える祠まで枯枝に似た翼を引き摺り歩いていった。祠の中は暗かった。明かり点いたが、それは身体が燃えていく光だった。胸を尖った石が突き破る。内部から裂かれる痛みに苦しみながら、彼は落ちていく。泣きながら地面に爪を立て、這った。這い(つくば)り、祠を出た。坂道を下り、大聖堂に出た。朝を迎えた頃にはすでに動けなかった。息もしていなかった。身体中が鱗に覆われていた。通りかかった女の手に触れ、青年は灰になった。  唇が離れた。唾液の糸が切れるのが惜しかった。相手の淡いオレンジの唇を追う。たが耳の裏を掻くようにして止められた。瞳の色が褪せ、金色へと変わっていく。  わたくしは、地神の子として、人の世を監視し、卑小なものであれば斬り捨てるようにと遣わされました。地神(かみ)の判断は、人の世を斬り捨てるというものでした。ですがわたくしは、人として扱われ、神の遣いとして持ち上げられ、褒めそやされ、おだてられることに快楽(よろこび)を見出してしまったのです。役割を持って生まれてくるというのは儚いもの。成せなければ先にあるのは破壊と虚無です。わたくしが人の世を破壊したところであるのはわたくし自身の死。わたくしは拒絶したのです。  セオノアの濡れた唇を冷たい指が撫でた。  貴方の愛した者もまた、役割を持って貴方に近付き、だのにそれを果たさなかった。 「どう…して、オレが、狙われるんです、か…」  ハーブレイ様の足枷だからです。古の神の子に再来としてハーブレイ様は人であることを捨てさせられました。しかし彼の中で今現在、神よりも強い存在であるのは貴方なのです。  セオノアは訳が分からなくなった。デニムジャケットに縋り付いた。同じ姿で少し違う。だが中身はもっと違う。もっとあの少年らしいことを言ってもらいたかった。  貴方を亡き者にすることで、あの忌まわしい科学技術も人の思うまま。何の枷もなくハーブレイ様は破壊神と化せる。人に器を作らせ、人の作った神の子によって人の世を壊すのです。わたくしが成さなかったこと。成せなかったこと。ですが、どうしても貴方のことだけは忘れられない。 「逃げてもいいんですか…」  顔を埋めた腕からは懐かしさまで感じる匂いがした。  逃げなさい。いずれにせよ貴方に残されているのは破壊か、死です。  セオノアは眉を下げた。  わたくしは主人の恩に報いるため、ハーブレイ様の側に付きます。主人によく似た貴方を慮れるのはここまでのようです。さようなら。  夢のような時間だった。ふわりと隣にあった影は消えていた。 「逃げろって言ったって…」  夜景を眺め、それから手の中のストラップを握り締めた。黒スーツたちがやって来る。話があるとのことだった。空腹と帰宅したい意を訴える。銃でも出されるのかと構えたが黒スーツたちは互いに合図をするとセオノアを帰宅させることに決めたらしかった。だがエレベーターは途中の階で止まった。エントランスは閉まっていると説明され、長い渡り廊下を通り大きな研究センターの建物に入った。先頭を歩く黒スーツはマイクで何か喋り、大きな廊下に出る分身したかのように数を増したスーツたちに囲まれた。  ご協力をお願いします。  セオノアはサングラスの奥を見ようとした。  国の未来のためなのです。  言葉が重くのしかかる。灰になった少年みたいなあの人は何を聞いていたのだろうと、ふと思った。邪神の傀儡。俯いて薄暗い明りに照る廊下を見つめた。 「国の未来のために、あんな金属の塊が必要なんですか…?本当に…」  黒スーツはただ、ご協力くださいと言った。ハーブレイ様の犠牲を無駄にするな。1人が言って、1人が静かに制した。何故ひとつの家庭が犠牲にならねばならないのか考えていただきたく。また別のスーツが言った。 「分かりません。ハーブレイさんの家庭をダメにして、その先にあるいくつもの幸福に浸れというのも…」  セオノアは立ち尽くす。ご友人のことは本当に災難でした。そうですね、とセオノアは呟いた。必要なことなのです。貴方が。貴方だけが。セオノアは肩を落とした。後ろから腕を取られる。振り返った瞬間に首に痛みがあった。視界が大きく揺らぎ、膝から力が抜ける。  次世代のために必要なのです。  貴方が。貴方だけが。あんたってほんとおめでたい男。そうだね、利用されて、いいように使われて。それで存外、人が好きなんだな。ノアさんよりノアさんを知ってるよ。  側頭部を打ち付ける。よく磨かれた革靴が沢山目に入った。握っていた指が外された。力が入らず、大切なものが摘まれていく。視界が霞んだ。瞼が閉じていく。ネコのストラップが揺れて離れていった。ひまわりの中に頭を突っ込んだような、ライオンにも見えたマスコットが宙でくるくる回りながら緑のボタンで出来た目が反射する。  やっぱぼく、ノアさんのこと 「好きだな」  瞼の裏に張り付いたままでやはり太陽みたいな少年だった。

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