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第10話

 1日と少し掛けてシャークスモールクレスト本社に着いた。建物には見覚えがあり、内部構造もすぐに思い出せたが、その記憶がどの時期のどういう体験だったのかを把握するには小さな頭痛が伴った。黒スーツに現段階では情報量が多いため脳にかかる負担が大きいのだと説明を受け、目隠しで視覚情報を遮断されたまま車椅子で会議室へと向かった。周りを囲う複数の足音でカーペットマットの敷き詰められた会議の廊下を思い出す。ここで尋問された。複数の役員の前で。真相を知っているようで、知らないような押し問答だった。上司の妻がそこそこ名の売れた俳優だということもあった。シャースモールクレスト重工業株式会社のコマーシャルによく出ていたはずだ。少しずつ記憶が戻ってくる。そして結局折れたのだった。会社の名前を守らされた。車椅子は止まったが何か軋み音がした。黒スーツの困惑の声が聞こえる、会議室の細かな蛇腹のような黒の木製扉がふと頭に入ってきた。とにかくややこしい構造をしている。 「把手(のぶ)ごと横にスライドさせるんです」  扉のついた壁そのものが横に移動するようにそのドアは横に動いた響きが伝わった。キャタピラの動きによく似ている。そちらへ。低い声が聞こえる。何という役員だかは覚えていないしおそらく知らないがシャークスモールクレスト社の者であるようだ。車椅子が進んでいく。わずかなざわめきを感じた。何人いるのか分からなかった。黒スーツが簡潔にセオノアの状態を説明する。黒スーツたちの気配はすぐ傍にあった。繊維越しに明かりは分かるが、ほとんど視界が利かないまま、フルールディアマントータシェル社の役員が何人かセオノアに挨拶した。トレスブレッシェン社の役員も挨拶をしたがマイクを通していたため少し遠い席にいるようだった。シャークスモールクレスト社の役員は少し馴れ馴れしかった。話はセオノアが遠方に単身赴任になった不祥事のことだった。一度認めて終わった話を穿(ほじく)り返している。セオノアは求められるまで口を閉ざしていた。3社集まっているらしかったが、セオノアの権利などまるで無いもののように議論が交わされていく。  人工神の恩恵を受けた君こそセカンドパイロットになるべきだ!  君の子を身籠ったという社員の身柄なら拘束している!協力の承諾をしてくれ。  いや、今すべきはセカンドパイロットよりヘリングボーンの卵を手に入れることだ、何をしている?  そう簡単に結果は出ませんよ。現在、一昨日分の検査をしているところです。  早く交配させろ。今ここでやればいい。そうだ、ジーベントレゾーロのとこの遺伝子技術でクローンを量産して孕ませろ!数撃ちゃ当たる!  いや、ここまで育つのに2年はかかる。  セオノアは黙ったきりで、意見も求められることはなかった。忌まわしい会話だった。俯いていると、生きているのかね?とマイクがハウリングした。びくりとして顔を上げる。いや、死んでいます。場は一度静まった。どうやらセオノアのことではなかったらしかった。  成功さえすればな!新たな、これこそ人と神の融合だぞ?忌々しいインチキ州知事殿の鼻を明かせるというもの!  知事選にも有利になりますな。  2年も待てない!早くここでしろ!ヘリングボーンはどこにいる?確かフローラル…トータイズ社とか言ったかね?君たちが保護してるんだろう?  マイクが興奮気味の声に連なり金切り声を上げる。  セ…セディだったか?シーオニーアくんといったか?なに、恥ずかしがることはない。ここで交合(まぐわ)おうとも、犬猫の交尾としか思わんからね。  黒スーツがハーブレイは同行していないことを告げた。舌打ちが聞こえる。セオノアは塞がれた視界を巡らせた。  すぐに呼べ!あのイカれたロボットならすぐに来られるだろう!  苛々としながらこの場を仕切っているらしき嗄れた声が怒鳴った。車椅子が押される。ざわめきが遠くなり空気感が変わった。会議室を出たらしかった。何者かが電話しているようだった。 「どうするんですか」  "オウミ様"の到着を待つらしかった。だがその口調は重苦しい。あの銀髪の青年は昨夜、人型兵器に無断で乗り込もうとしたために銃弾を浴びせられたというのだ。セオノアは目隠しを外した。一般社員専用扉のある殺風景な廊下と高層階の窓。自動販売機と観葉植物、汚れた椅子があるだけだ。見覚えがあった。黒スーツはサングラスによって乏しい表情の中で困惑していた。通話中の黒スーツも難しげな顔をしている。ストラップが吊り下げられた旧型の携帯電話を差し出される。特に考えもせず耳に当てた。電波が悪く雑音が多く入っていた。 「代わりました」 『ノ…ア……?』  ブツブツと電子音が弾けるような音の奥で掠れた声がした。 「ハーブレイさん…」  ハーブレイが相手なら言えよ、とばかりに電話を渡した黒スーツを一瞥した。 『どこに、…いるん、だ…?』 「いえ。ちょっと、出掛けてて」 『…っすぐ、帰って来られるの、か…?』 「結構遠いところですから。すぐには帰れません。それに…」  もう帰りません。しかし言えなかった。また記憶を操作されているのかも知れない。 『迎えは…?ぅ、ぐく…』  呻き声が聞こえる。すぐに呼べという話だったが、ハーブレイは苦しそうですぐに来られる状態とは声を聞く限りは思えなかった。 「必要ないです。大丈夫ですか」 『そ、うか。ッ…す、まな、い…仕事中に…下手をうったみたいなんだ』 「無理せずおやすみください」  携帯電話を返そうとしたが、痛みに呻く声から離れられずにいた。 『ノ、ア……?会い、たい…』 「…多分そのうち会えますよ」  携帯電話を返した。  ハーブレイは義手義足を外したままで、身体には包帯を巻いていた。ストレッチャーに寝かせられ、また会議室に運ばれたがセオノアはまだ情報に制限が必要だと診断され、目隠しされていた。  ハーブレイが到着するまでは近くのホテルにいたが軟禁状態で、医師がひとり付いていた。読書や映画も遠ざけられ、出来るだけ頭を使わず過ごすようにということだった。セオノア自身としてはすでに必要性を感じなかったが鎮痛剤や安定剤などが出された。 「ノア…、ノア…!」  ハーブレイの声が少し離れて聞こえた。 「目を怪我したのか?大丈夫なのか?」  電話で聞いた時よりも声を聞く限りはいくらか元気がある。  役者は揃ったな!よし、思う存分やりなさい。しっかり孕ませるんだ。先生も招いているのでな!  胸元を抉り取っていく物言いにセオノアは振り返った。黒スーツの気配が近付く。 「どうなってるんですか」  これからオウミ様を抱いていただきます。黒スーツはいくらか躊躇いがちに言った。 「…ここで?」  黒スーツは肯定した。頭がふわりと痛んだ。それは引っ掛かった物事を思い出そうとする時に起こる頭痛とは少し違った。上手くいけば任を解かれるかも知れない。黒スーツはそう言った。深く息を吸う。狂気だ。人を何だと思っているのか。投げやりな感じがあった。おそらく人とも思われていないのだろう。最大の被害者のことを思うといたたまれなくなった。 「断ったらどうなりますか」  おそらく、もう一度あの機械に…  そのほうが楽かも知れない。果たして科学技術は騙しきってくれるのだろうか。ただ忘れたくないものができてしまった。おそらく消されてしまう、彼のことも。 「…縛ってください。きっとまた拒絶してしまいます」  黒スーツが息を飲む。両手を背中で組んでいると、乾いた大きな手に掴まれ、両手首を縛られる。 「ノア!ノア…」  車椅子が押されていく。目隠しの繊維の奥の照明器具が流れていった。  ああ、なんだね、そのままやるつもりか。まぁいいだろう。君、補助してやりなさい。  すぐ傍にいる黒スーツが返事をした。失礼します。一言断られて下半身に触れられる。背を押され、車椅子の座面の際まで寄せられる。 「…っ」  わずかな不安。音が無い。衣類の擦れる音ばかりが聞こえる。 「ノア?大丈夫なのか?」  頷く。器官がやはり機能しそうにない。  あれを持ってきなさい。仕方がない。経費で落ちるね?まったく今時の若者は世話が焼ける。  しかし、いいんですかね、それで…  まさか愛情だのなんだのと言うつもりじゃあるまいね?君は童貞か。  直ちに…  黒スーツは茎を露出させるだけで触れることもせず、セオノアは羞恥に背中が汗ばんだ。 「ぁ…っ」  陰部が生温かい粘液に覆われた柔らかな物に包まれる。ぐぽぽ…と音が漏れた。襞が中にあり、大きく上下する。それがふと、屈託のなく綻ぶアプリコットのような唇の主だったらと考えてしまうと途端に勢いを持ってしまう。濡れた青い目で見上げられて、悪戯っぽく舌をちらつかされ、全てを握られてしまう。きっと。譲ってしまう、全てを。 「ぅ、あ…っ」  茎をいたぶられていく。先端の張った裏側に当たる突起に腰が揺れた。腹が波打つ。両手に拘束が食い込む。チョコレートのような髪を梳きたい。撫でたい。少し彼には大人びた、お洒落なグレープフルーツのような香りがしたシャンプーの名残を嗅ぎたい。手首が擦れた。シリコンとローションに陰茎はそそり勃たち、ぬらぬらと光る。鼻先を天井に向け、目隠しの奥の照明に目を眇めた。内股に力が入った。膝がいうことをきかずに焦れて開閉を繰り返す。 「は…ぁ、ぁ…っ」 「ノア!」  幻想が消える。別の人と、アイシ合わねばならなかった。フーディのよく似合う彼は泡沫の如く消えていく。一度落ち着いた、陰茎の刺激に耐えた。 「もう…ッ、大丈夫です…」  肩を上下させながらセオノアは言った。シリコンホールが止まる。手首は拘束具のネクタイに赤く擦れている。 「ハーブレイさん」 「ノア…、待て、待ってくれ…」  物音と、近付く声。この人たちはどこまで人を馬鹿にするのだろう。ふと思った。屹立の先端部に微かな体温を感じた。濡れてもいない粘膜の中に芯が埋まっていく。痛いほどにきつく締め上げられ、相手の痛みまで伝わってくる。服越しの体温が局部の収縮を生々しいものにした。 「あぅう…ッ!」  ハーブレイの身体がセオノアに乗り、その肉体が揺さぶられる。 「ノア、ノア…ぁ、あひッ…く、ぅんぁ、」  穏やかに包み込むような態度だった男が今は上擦り、裏返った声を出して痛がっている。補助役によって動かされ、ハーブレイの改造された秘所はノアを柔肉で削り取るように締め付けた。少しずつ潤滑液が染み渡っているようだがまだ足らなかった。 「い…っ、まだ、動かさないで…!」  二の腕の半分までしかないハーブレイの両腕が肩に触れた。 「ノアぁ…ぁ、」  ハーブレイの動きが止まり、耳元に唇を寄せられる。互いに息を乱していた。少しずつ内壁はセオノアを食む。周囲からは何か話し声が聞こえた。 「傷は平気なんですか」  呼吸が大きく抜けていく。少し身体を揺らすと結合部が卑猥な音をたてた。 「ぁ…ンぁ、ああ。もう平、気…ぅんン…ぁっあっあっ!」 「…ぅく、」  挑むような締め方をされ、突き上げてしまう。強制的なピストン運動が再開した。セオノアは唇を噛む。陰部がぐちゃぐちゃと鳴るのだった。下生えがどちらのものかも分からない蜜液で冷えた。 「あっまだ、まだァ、ぁんンぁ、まだ、やめ、ぁっ」  一回では済まさんさ。早く事を終えなさい。  鼻を鳴らして低い声が言った。 「す、まん…んぐ、っノ、ア……イけッく、ぅう、」  他人の力による律動の中で、ハーブレイは蜜肉を締めた。粘液によって痛みはもうなく、他者との境界が分からなくなる温かさに(とろ)んでしまう。 「出、る……っ」  肉筒の中で果てた。奥で跳ね返り、自身の先端までも濁流に呑まれている気さえした。迸りを受け止めるハーブレイの眉根に悩ましげな皺が寄る。紅い双眸は目隠しの奥を見つめていた。 「ぁあ…はっ…ぁァ…」  くぐもった吐息を首に感じた。丸い腕が肩で動いた。以前の行為より苦しそうだった。両手首を動かして拘束を解こうとした。躍起になって揺れる。内壁に緩やかに喰まれ、達したばかりの陰茎にはくすぐったさがあった。拘束は外れ、疼く手をハーブレイの腰に回した。引き締まった尻が掌に当たった。 「あっ…ノア、ノア…っ」  車椅子が喚いた。最奥を突き上げる。動きに合わせて締め付けられ、ハーブレイは高い声をひっきりなしに漏らした。 「あンっあっあっ!ノア、だめ、だ、ノア…!」  気をやれ、気をやれ。ただししっかり身籠もりなさいよ。  野次が飛ぶ。呆れたような感じがあった。 「あんっ、あっ、イく、イく、から…ふっぁ、!」  黙ったまま穿ち続ける。腹側を狙って腰をずらしながら、男性器があった場所を探り当てる。皮膚の小さな盛り上がりを摩った。 「んアあァっ!」  単孔が痙攣した。奥へ奥へと引き絞られる。ハーブレイも小刻みに震えた。膝の上で跳ねる肉体が落ちないように抱き込んだ。  どうかね?これで?  経過を見てみないとどうにも…  人の子でさえ一発じゃどうにもな!  検査結果が出るまで2人を一緒にしておくというのは?  会議室はまたざわついた。ハーブレイはまだセオノアの胸で快楽の余韻に動けそうになかった。本来ならば自身よりも体格のよかったらしき男の胴体は軽くはなかったが落ちないように抱き止めていた。 「ノア…目、大丈夫なのか?」  上体を起こして問い掛ける。ハーブレイはまだ息を乱していた。セオノアは首肯した。 「顔、見たい…」 「だめです。取ったらきっと、貴方を突き飛ばしてしまう気がするんです」  返事はなかった。またセオノアへ身を委ねる。重みを感じながら話を待つ。 「それなら…こうしているだけで……」  胸を切断された腕が摩った。ハーブレイの身体は温かかった。 「俺はノアといられるだけで…」  腰を突き上げる。まだ役員たちの結論は出ていなかった。亡妻の代わりになれと言われている感じがあった。けれどもう彼は妻の名を忘れ、存在すら否定する。悲しくなった。姉を失った少年の明るさがさらに濃く影を落とした。 「ひ、ぅ…」 「ハーブレイさん、オレのこと、アイシテないじゃん」  繋がったまま車椅子を立つ。四肢が無くとも青年の胴体は重かった。バイオレットを帯びたグレーのカーペットマットが敷き詰められているはずの会議室の床に倒す。 「な、あっ!」  腰を押し付け、白濁と花蜜で潤った秘所を打ち付ける。引き締まった腰がびくびく震えていた。 「ノアぁっ!あんっ、あ、ぁっぁっあッ!」 「気持ちいいですか。妻の代わりの肉棒は」  君!  狼狽の声だった。構わず暗い視界の中でハーブレイを辱める。 「まさかあなたが執着してるのはこんな汚ったない棒だなんて言いませんよね」 「そっ…んな、ぁっ…こと、んっぁ、」  蜜が潰れ、肉がぶつかる。カーペットマットに両手をついて、腰を振った。ぬるついた内部がうねり、雄茎を迎えては放し、引き摺り込む。 「ノアっ、ノアぁんっ、あっ」 「とんだ間男です。これじゃあ本当にオレは、ここであった孕ませ事件の犯人は、オレみたいだ」  意図しない感情が湧き起こる。悲しくはないはずだった。もう終わったことだ。考えないようにはしていて、他人から掘り返されなければ、もう済んだ話だと思っていた。 「は、ぁぅあんンぅ、イく、止めっろ、また…!」 「どうぞ1人でイってください」  律動を速めた。下に敷いた青年の身体が暴れる。 「やぁっ、ノアっ!怖い、ノア、ノアあっあっあああッ」  会議室に嬌声と水音が響き、役員たちが鼻を鳴らす。  君が出さなきゃ意味がないんだがね。 「イってるっぅ…!あっン、あぁ…!動かすなぁ…!まだ、イったばっかぁっあぅっく、!」  激しい収縮の中を擦り上げる。脳髄を掻き回されるような酩酊感に相手を気遣う余裕もなかった。きっとこうして孕ませたのだと皆、下卑た妄想をしたはずだ。面白おかしく考えたはずだ。 「っ、」  目隠しの中で視界が爆ぜる。あまり勢いのない精がハーブレイの単孔内を汚す。  もういいでしょう!  黒スーツの声がして、誰に言っているの分からなかったがセオノアは肩を掴まれ起こされる。粘膜筒から抜かれた時に、ちゅぽん、と音がした。ハーブレイは引き付けを起こし、セオノアは車椅子へ導かれた。陰茎を乱暴にティッシュで拭き取られていく。  ハーブレイはその腹に有精卵を抱えたらしかった。衆目に晒された交接のその夜にはもう報告が入った。セオノアはホテルの部屋にぼうっとしながら座って、話を聞いていた。明朝には産卵予定らしい。ハーブレイのために同室してほしいとのことだったが疲労感に抗えず断った。セオノアの世話を押し付けられた年若い黒スーツは不服そうだった。  何故、オウミ様を突き放すのですか。黙ってドア横に控え、外との連絡を待っていた黒スーツは口を開いた。誰もが彼に恋をして破れていくのに、貴方という人は。 「だからオレも、あの人に恋しろって言うわけですか」  ベッドに腰掛けて、膝に肘をつきながら頭を抱えた。そうは言っておりません、ただあの方は貴方に強くご執心であることは明々白々。次世代のためにすべてを投げ打ったあの方を、それでも貴方は。黒スーツは冷静だったが、私語を慎まないところを見ると冷静ではないようだった。 「そんな犠牲を払ってまで必要なんですか。人ひとりの人生をめちゃくちゃにして、そこまでして次世代の神だの象徴だの、融合だの…結局神の奴隷じゃないですか。一体どこが克服なんだ…」  ベッドに身を沈めた。もう話すことはないとばかりに。 「社員1人に言ったところで仕方のないことだし、オレも結局何も知らずにあのロボットに触れたわけですけど、それ以上のことは、ごめんですよ。そんな考えには寄り添えません」  おやすみなさいませ。黒スーツはそう言って部屋から出ていった。オレンジ色の布が黒ずんだマスコットを握り締めて、慣れない枕に魘されながら眠った。掌にバイクのキーが刺さり、その痛みが元の持ち主を感じさせた。  朝には本社を出るつもりが、ハーブレイのこととは別件で呼び出しを受けた。黒スーツたちの帯同も許されず、シャークスモールクレスト社の者が目隠しをしているセオノアを案内した。内容は、受付嬢を孕ませた話だった。受付嬢はセオノア以外にいないというために腹の子はセオノアの子ということになってしまった。すでに認めたことだ。素直に認めてしまえば、家族には会社として公的な連絡はしないといっていたから。試されているようだった。また洗いざらい話すのも嫌になり、肯定を繰り返す。信じてほしい、何故信じてもらえない、自分ではない、あの惨めな気持ちとはもう別れたかった。受付嬢と上司のことを許せないかも知れない、憎んでしまうかも知れないと思うのが怖かった。終わった話だと付け加え、間違いのないことだからもう掘り返さないでほしいことを伝えた。その証に親に嘘を重ね、遠方に赴任させられたのだ。風評は完全には拭い去れない。一度受けた傷痕も。エントランスにいる黒スーツに合流する。しかし駐車場の方向ではなくエレベーターに乗せられる。黒スーツたちは何も言わず、セオノアも何も言葉を発さなかった。辿り着いたのはハーブレイのもとだった。自動ドアが滑らかな音を立てて素速く横にスライドしたのが分かった。 「ノア…」  腕を取られ、部屋へと入った。ハーブレイの声は掠れている。肩を下方へ押し付けられ、ゆっくり腰を下ろした。椅子だ。 「顔を見せてほしい…突き飛ばして構わないから…」  セオノアは声の主の位置を探り当てた。目隠しに手が触れた。布が頬を流れていく。眩しさに目を細めた。シリコンカバーの旧型の義手を片腕に嵌めていた。 「ノア」  前髪にキスされる。鼻先にも唇を落とす。唇に近付こうとして、紅い目が瞠られる。シリコンカバーの指がセオノアの唇の端から端を不器用になぞった。 「好き…」 「その好意には応えられません」  眉根に皺が寄った。水の膜が張り、大きく反射した。シリコンの掌が耳に添えられた。 「他に好きな人がいます。もうこの世にはいないけど、それでも忘れられない人が」  涙が溢れそうな柘榴の実によく似た深い色味の瞳を覗き込んだ。きっと、あなたには。セオノアはその眼差しから逃げてしまった。 「あなたには、分からないでしょうけど」  同情に似た顔を向けられる。両手を握った。突然胸が重苦しくなった。息苦しくなった。それまではこれといった不良はなかったというのに、喉がからからに渇いて、せり上がってくるものなどないくせ必死に吐き出すまいと嚥下が空回る。 「すまない」  申し訳なさそうにそう言った。どこかで見た猛禽類の爪で身を裂かれる思いがした。あの少年が何となく漏らした願いのとおりに、ある意味で彼女は解放された。だがこの男はまだ囚われたきりだ。囚われたきり、その自覚も記憶もなく代わりをを追い、執着して、暴走している。 「あなたに言うことは、もう何も…ないです。あなたは、オレの大事なものを汚すんです。侮辱も大概だ…」  この青年に罪はない。分かっている。だが感情が追い付かなかった。 「あなたの愛した人はもう死んだんですよ。受け止めてくれる人はもういないけど、でも奥さんのこと、…忘れちゃっていいんですか。あなたの大事な一部だったはずなのに?」  噛み付きそうなった。前のめりになった瞬間に黒スーツたちに押さえられる。 「どうしたんだ、ノア!しっかりしろ…」  ハーブレイは青褪めた顔でその表情は怯えきっていた。彼の中ではもうセオノアは異常な状態だった。その声と眼差しに、冷水をぶちまけられたも同然だった。スーツたちの屈強な腕に掴まれ、引かれ、押さえ込まれ、セオノアは興奮気味に叫んだ。 「あんたは!あんたは選ばれた人だ!あんたは選ばれた人だから足元に墓場があったっていいんだ!踏み荒らして、掘り起こしたって!あんたは選ばれた人だから!良心も罪悪感もそれを咎めさせないんだ!あんたは選ばれちまった人なんだからな!」  顔を真っ赤に泣き叫んだ。パフェに笑う少年を含んだ自分自身をも否定された気になった。 「何がオウミ様だ!何が神様だ!可哀想な科学技術の奴隷じゃないか!さよなら!もう会うこともない!」  靴裏が床を滑り、引っ張り出される。黒スーツたちの後ろに呆然としているハーブレイがいる。喚き声は止まなかった。話は通じず、言葉ほど好かれてなどいない。悔しかった。愛されてなどいない。あの男はただ丁寧でひとつひとつが忠実(まめ)な性分というだけだ。悔しさに嗚咽する。制御の利かない理性が何より悔しかった。廊下に出される。口に錠剤を放り込まれ、ブドウの味がするゼリーが口腔に注入された。黒スーツはセオノアの口元を覆い、しっかりと嚥下を見届ける。幼い味付けにまた涙が溢れた。廊下は少し肌寒かった。 「ごめんなさい…」  震える声で謝った。おそらく黒スーツの中で最も高い立場にいるらしき胸元にバッジの付いた黒スーツが丁重に詫びる。ロビーまで引っ張られ、微かな頭の疼きを覚えながらエントランス真前に流れてきたトーシェル社の車に乗り込んだ。 「卵からは、何が産まれるんですか」  新しいパイロットとなる神の子が人の手によって受肉します。隣の黒スーツは素っ気なく答えた。 「オレじゃないといけなかったんですか」  他の者たちでは駄目でした。貴方に可能性を見出したのです。彼は貴方にご執心でしたから。黒スーツは事も無げに答える。内容の悍ましさなど匂わせもせず。 「あの人の気持ちに、オレは応えられないのに…」  膝を握った。  ジーベントレゾーロ株式会社から引き抜きの話が出たのはヒラオリ区に帰って2日経った頃だった。久々の工場に、帰属意識がこの地に芽生えていることを知ったこと、遺伝子工学研究所のような会社に引き抜かれる理由も見当たらず返事を渋っていた。バイクの音を聞くと淡い期待を抱きそのたびに木枯らしに吹かれたような気分に陥った。シャークスモールクレスト本社から連絡があったのはそのさらに2日後だった。セオノアが拒絶した過去の話を振り返される。電話の相手は受付嬢と結託しセオノアを罠に嵌めた上司だった。焦った口調で何に対してかも分からない謝罪を繰り返し、本社に戻るよう言った。栄転だというのにあまりにも時期が外れている。ヒラオリ支社にはすでに連絡が行っているという。振り回されている気分だった。すぐさま荷物を纏めるように告げられ、電話は切られた。すべて一方的でセオノアは口を開く隙もなかった。工場の人々は本社にまた戻ることを祝福した。支社の勤務最終的に所長は事務所で同部署の無口な従業員たちと小さな送別会を開いた。長い期間ではなかったが、ここが帰るところなのだと意識したばかりの出来事で寂しさを胸にしたまま、帰宅する。工業地区を吹き抜ける乾いた風に逆らいながら、遠く後方を通り過ぎていくバイクの轟きに後ろ髪を引かれていた。海に行った思い出、植物園での晴れやかだったわずかな時間。街灯の下に、まだデニムジャケットの少年が立っているような気がした。誰も立っていない。白地に茶と黒の模様が染みた猫がのそりのそり歩いているだけだった。セオノアを見ては嘲っているように振り返り、のそりのそりと夾竹桃とフェンスに沿って暗闇に消えていった。

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