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第11話
電車に揺れる。鎮痛剤も安定剤ももう要らなかった。だがつらさも痛みもないというのに言い知れない虚しさに近い、胸に詰まった物が行き場をなくしてまだ留まっている感じがあった。おそらくまた生活の中で少し消えていくのだろう。溶けていく。ほの甘い思い出は忘れずに。長い道程 の中で変わりゆく車窓を眺めながら考えていた。彼の言っていたことは守れるかも知れないが、彼の願っていたことは果たせないまま。目を瞑ると心地良い振動と、どこか身近に感じられた温かな日差しの中で眠った。
終点の駅で降り、素泊まりホテルで一晩過ごすとまた朝早く特別快速に乗った。シャークスモールクレスト本社にはその日の夕方に着いた。荷物は小型のトロリーバッグとその上に括り付けた工具箱、家族から贈られた革製のリュックサックだけだった。長時間の電車旅は少し疲れたが、本社での用事が終わればそのままあと1時間ほど使って実家に帰ってみる気になった。この間来たばかりだが、新たな緊張感を持ってエントランスに入る。華やかな制服に身を包む見慣れた受付嬢たちの視線が痛かった。吃 りながら用件を告げた。胸に抱いた彼の姿勢はまだ見倣 えそうになかった。あの…、ごめんなさい。聞き間違いかと思った。小さく聞こえた。幻聴や空耳の類かと思い、何も返すことは出来なかった。示された第4社員会議室へと向かう。思っていた以上によく覚えていた。観葉植物の葉の形まで。主な仕事場は渡り廊下の先にある工場で、あまり社内には入らなかったというのに。ややこしい黒檀の扉を開く。空気感ががらりと変わった。そう遠くはない思い出に浸っている場合ではなさそうな、物々しい空間だった。見覚えのある役員もいれば、全く記憶にない者もいた。セオノアの左右前方を囲うように長テーブル、真中にパイプ椅子が置いてある。荷物はその辺に置いて、座りたまえ。役員のひとりが言った。セオノアはマニュアル通りの挨拶をしてパイプ椅子に腰掛ける。話は、以前の不祥事に対する謝罪だった。関係者等の高圧的な態度や調査不足、社員たちの誹謗中傷、理不尽な待遇等々の少々せっかちな弁解が述べられた。現在は社員たちへ説明中だという。セオノアはわずかに機嫌を損ねながら聞いていた。これがただの前振りであり、ご機嫌取りという感じを彼等は隠せていなかった。短期間とはいえ周囲の悪辣な空気を読まなければならない生活を余儀なくされたセオノアは敏く気付いてしまう。本題は、ジーベントレゾーロ社の引き抜きの話に応じるなということだった。また本社に勤めろということだった。それは作業員としてではなく、特別待遇の幹部候補生として迎え入れるということだった。あまりに急転した話にまだ整理もつかず戸惑っているというのに返事を急かされた。取り囲む役員たちの険しい表情には、有無を言わせない威圧感と貫禄がある。膝は震え、下顎が重く感じられた。
本社に戻っても、あの、君をいじめた彼はもういないからね。安心してくれていい。
まさか口から出まかせだったとはね!おそろしいよ。一杯食わされたね。本当に君には申し訳ないことをした!
沈黙を破ったのは役員たちのほうだった。白々しい。セオノアはどの会議にも統一されたバイオレットを帯びたグレーのカーペットマットを見下ろしていた。
「工場作業員として求められていないなら…辞退します」
やり直そうと、ふとそう思った。時が止まったようだった。
今日戻ってきたばかりで、疲れているのだろう。一晩しっかり考えてみるといい。泊まるところはあるのかね?宿舎を使うといい。
色好い返事を待っているよ。
役員たちは去っていく。清掃員が入り掛けていた。残されたセオノアはパイプ椅子を片付けると荷物を持ってエントランスを出て行った。汚れたマスコットを少しの間眺めてから奮発してタクシーに乗り、近くのホテルに泊まった。彼と出会わなければ自ら注文することはなかったであろうパンケーキを食べ、それだけで疲れた腹は満たされてしまった。
枕元に置いたマスコットを寝る前に眺めた。あの人みたいになるのだろうか。死んだ想い人をずっと想って。跳び起きるとバイクのキーを握り、ゴミ箱へ向けて振りかぶる。物質的なものなど無くとも。だが。あとは勢いよく振り下ろすだけだ。しかし搦められているように動かないのだった。それがはっきりと躊躇いと迷いであることは分かっていた。小汚いマスコットに。本体のないバイクのキーに。これさえ無ければおそらく思い出すことなく忘れていける。新たなスタートを切る為には不要どころか邪魔かも知れない。どうにも出来ず、アミュレットを握り締めたままセオノアはばたりと枕に倒れ、そのまま眠った。
快晴の下、以前の勤務先に向かった。本社の麓にあるセントラルパークは今日も芝生が青々としていた。犬や時折風変わりな飼育動物が散歩している。視界を横切ったミルクチョコレート色の中型犬の後姿を眺めていた。デニム製のリードに赤いバンダナの首飾りが愛らしかった。そのうちに空が轟音を響かせる。ジャンボ機が低空飛行をしているものかと思われた。鼓膜を破るほど大きな音がした。びっくりして心臓が飛び出しかけた。立て続けに地響きが起きた。穏やかだったセントラルパークは騒然とした。人々は空を仰ぎ、指を差す。本社の真横に、人型のオフホワイトの装甲がある。見間違えかと思った。しかし確かに、シャークスモールクレスト重工業株式会社の建物に旧型アガルマがいる。縦割れの長細い頭部が建物からセントラルパークを見渡しているようだった。地響きを伴う歩行。フラワーパークの惨劇が再来している。大きな掌が虫を潰す要領で芝生を叩く。地が揺れる。幸いにもこの一打には怪我人も死者も出なかった。臓器全てが鉛や石になったみたいな心地でセオノアは建物の影へ隠れた。目が合ったような気がした。すべて、あの人型兵器に人間を投影しているに過ぎなかった。兵器が人型である必要はなかったというのに、アガルマは人型なのだ。胸部と下腹部からなる胴体を中心に四肢があり、頭部がある。
セオノアの隠れたセントラルパークの2階建てファストフード店が倒壊した。頭を押さえ姿勢を低くするもの、地神に心願 る者、災厄の正体を見極めようとする者、多種多様だった。倒壊した建物が追撃される。身体に衝撃が走る。幼い頃に車両に轢かれた時のことを思い出した。アスファルトを転がる。肩を打ち、すぐには起き上がれなかった。痛みに呻く。金属の大きな手が近付く。鳥のような細長い頭部に見つめられている気がした。喫茶店の軒下に、赤いバンダナの首飾りの可憐な犬が見えた。無事だったんだな、と思った。指先が触れた時、電気が発生した。弾かれたようにセオノアは背を丸めた。痛みはなかった。靴音は耳に届いていたが姿は認められなかった。腕を掴まれ石畳という擂り器にかけられる。
起きてください。
繊細な女の声だった。腕を引かれ、セントラルパークを抜けた先にある本社エントランスへ引っ張られる。砂埃と瓦礫で壊滅状態だった。停電や漏電を起こしている社内を歩かされる。殴打の痛みから解放されず、セオノアは息切れを起こしていた。嗅ぎ慣れた工場の匂いに身体がやっと自分の意思を持つ。しかし腕を引いた女の姿は消えていた。作業着の者たちが困惑気味にセオノアを誘導した。工場の奥には広大なスペースが空いており、そこがまた外とは別の地響きを持って開いた。中からヒラオリ支社で散々というほど目にしたパール塗装の装甲が現れる。セオノアは顔を顰めた。仰向けになっていた巨大な機体が起こされていく。
乗りなさい。
背後を振り返る。整備工の作業員がいるだけだった。工場が揺れ、キャットウォークが軋む。不気味な有人機動兵器の全貌が露わになった。装甲のパール塗装が能天気に淡く虹色に輝いていた。
乗りなさい。
「無理ですよ!」
工場は揺れ、作業員たちは持ち堪えながら突然叫んだセオノアに注目した。停電する前に、早く。真後ろで複雑なボタンを押している作業員が言った。予備電源ではとても足りません。セオノアからは見えない、装置の陰にいる者が言った。どちらにせよここでこれに乗るはずだったんですよ、貴方は。早くあれを止めてください。会社が壊れてしまう!。
乗りなさい。
選択の余地はなかった。乗り込んで動かなければ、それまでのことだった。操縦したことがなければ、構造もまるで知らない。アガルマの胸部に至る可動式の階段を駆け上る。装甲が開き、飛び乗った。一度熱暴走で破損してからはコックピットがどうなったのか見ていない。メッシュ素材はそのままで、ダウンライトも変わっていない。装甲が閉まる。皆避難してしまったら、開ける者はいるのだろうか。操縦席に座る。両腕を突き入れる箇所があり、両腕を広げた。肩にベルトが巻かれ、固定された。閉じた装甲の裏側にいくつも画面が浮かんだ。額の周りに青く光る輪が掛かる。画面に文字列が記されていく。プログラマーのコンピュータの作業画面を彷彿させた。天井が赤く光った。だがすぐに消えた。アガルマは動かない。画面にはメーターとグラフが現れる。しかし直後にオレンジに塗り替えられエラーを主張した。
私が間を繋ぎます。貴方は集中してください。
「何に集中しろって言うんですか?さっきから誰なんです?」
天井がまた赤く光る。そのまま光り続けた。エラー画面は切り替わり、画面が消えた。目の前は工場内だった。装甲が透けている。電車や車と同じ軸のぶれない微かな振動が伝わった。アガルマが動いている。
「酔いそう」
集中なさい。
エレベーターで地下から最上階へ上がった時の浮遊感そのままに、アガルマは空へ跳んだらしかった。枠のないディスプレイにも会議室やオフィスが剥き出しの壊れた会社が見えた。オフホワイトの旧型が視界の端に現れた。
「なんで、急に…」
あの者を、知り合いだとは思わないことです。
機体が大きく揺れた。組み付かれている。天井の赤い光が点滅した。
奴 を殺せ…奴 を殺せ…
低く嗄 れた声が聞こえる。恐ろしい形相が脳裏を過る。魚眼レンズで覗き込まれているようだった。見たこともない。眼窩から飛び出たような目に、大きく弧を描く裂けたような口。真っ白な肌。怪物が頭の中に住む始める。
集中なさい。
「うるさい…!」
両腕を機体との接触パーツから外して頭を押さえた。赤い光が消える。大きな衝撃と共に前後不覚に陥った。ダウンライトも消え、外界を映すディスプレイだけが明るかった。恐ろしさに顔を覆ったまま動けなかった。
あれが、人が作り出した神の子。この機体の核。貴方の遺伝子を継ぐ者…
セオノアは首を振った。そうしている間にも旧型は再びこの新型アガルマに組み付いている。鈍く曇った音が目の前からした。胸部を殴られている。またセオノアは無理だ、出来ないと呟いて首を振り続けた。
ならば死になさい。
コックピットは暗闇と化した。大きな物音が目の前から響く。あの青年の声が赤い光を介して頭に響くのだった。
ノア!ノア!ノア!
我 を殺せ…我 を殺せ…
私は人の世を壊せと使命を受け、果たせなかった者。このまま破壊を見過ごすののもまた本望。
「ならどうして中途半端に手を貸すんだ!」
セオノアは両手で顔を覆ったまま叫んだ。無理だ。出来ない。首を振って震えた。胸部が壊れるのも時間の問題だ。赤い光が点滅する。
奴 を殺せ…奴 を殺せ…
貴方の与り知らぬ子が核だったら、私は介入出来なかった。この者は犠牲で、私のような"鳥類空揚 野郎"にもなれなかった者。
コックピットは叩かれ続ける。
あの者を、解放してはくださいませんか。亡妻に自ら取り憑かれた、それしか意思の持てなかった哀れな若者です。
「そんなこと言われたってさ…無理だよ…」
貴方によく似たあの女性が愛し、貴方が愛した少年が慕ったあの青年をどうか、お願いします。
ノア!ノア!ノア…!
奴 を殺せ…奴 を殺せ…
腕が開く。唇を何度か舐めた。腕をまた通した。ダウンライトが点き、ディスプレイが戻る。胸部を叩く旧型の腕を掴んだ。視界はほぼ恐怖と訳の分からない悲しみで滲んでいた。しかしどこか冷静な頭が南方の近場に海があることを考えていた。鼻を啜っていると赤い光が灯り、それが慰められているような気がして自身のめでたさを自嘲した。旧型の腕を掴んだまま飛んだ。滞空時間が算出される。30秒もなかった。だが大きさや重量を考えると長いくらいに思えた。最大出力で旧型を引き摺る。左手が勝手に動き、近辺のマップが表示された。海にピンが刺される。距離を示す単位と数字が物凄いスピードで小さくなっていく。青空がディスプレイ一面に写っていた。海へ落下する。揺らされるまま、背凭れに身を預けていた。旧型が暴れ、はずみで海から引き摺り上げられた。赤い光が時折弱くなる。
手にした腕が暴れた。上部で音がした。ディスプレイが砂嵐へ変わる。頭部が吹き飛ばされたらしかった。赤みがかった先程より少し小さな画面が現れる。胸部カメラと下部に薄ら点滅していた。金属の両手が掴み合い、取っ組み合い、残っている総電力を注ぎ込んで最大出力で旧型に組み付き空へ上がる。赤みがかった胸部カメラは、旧型を片腕で掴んで、片腕を自爆させながら海に落下する場面を切り取っていた。曇った爆音と衝撃があったが途中で静かになった。ベルトが解かれ、赤い光は弱くなったまま点滅した。コックピットは再び闇に包まれる。操縦席から落ち、狭い空間に蹲る。
奴等 は眠る…人の子、我が父 よ…また乾いた風の日に…
宗教的辞別の言葉が聞こえ、赤い光は消えた。沈んでいく銀髪の青年が頭から離れなかった。想像したわけでも、妄想したつもりでもなかった。海水の中で揺蕩う罪のない銀髪の青年が眠るように破片を胸に受け止め、そこでぷつりと切れた。暗闇の中でセオノアは過呼吸を起こしていた。何から騒げばいいのか分からなかった。寒さに震え、不安に泣いた。
懐かしい感じがしました…シマシタ。貴方のような人と関わるのは。
襟首を掴まれ、水に呑まれた中で引き上げられる感覚だけは残っていて、それからはもう意識がなかった。
到着が遅れてすまない。
苛々とした様子の銀髪の女が言った。州庁の役人だという。他にも何人か、いつかの生活のようにスーツ姿の男女が壁際に数名並んでいた。
州知事の命により貴方を保護する。
威圧的で偉そうな感じがあった。セオノアは寝かされたベッドからぼうっと聞いていた。窓の光ばかりを見据えて、逆光した女の顔はよく見えなかった。
「誰がオレを、助けてくれたんですか」
この中で一番偉いらしい女がベッドサイドチェストに置かれた小物入れを顎でしゃくった。貴方が拙 くなったら守ってくれって州知事に頼んだガキがいたんだよ。セオノアはゆっくりと瞬きをした。シャークスモールクレスト、フルールディアマントータシェル、トレスブレッシェン、ジーベントレゾーロ、計4社はこれから監査が入る。貴方はゆっくり療養してくれ。
おやすみなさい。セオノアは紅くなった瞳でレースカーテンの奥を飛んでいった鳥を見つめていた。
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