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#4 クレア
自宅宛に届いた一通の手紙には、忌々しくも忘れがたい差出人の名前があった。
他者に万一見られても悟られないようにと、クソガキなりの配慮だろう。文中で彼の名前は伏せられていたが、それはジキル・シェリウスの訃報を知らせる短い手紙であった。
二度目の来訪ながら、短い休暇で訪れるには些か不便すぎる場所だった、と俺は後悔した。
電車を乗り継ぎ、車を借り、辿り着くだけで一日半。
アザミの咲く丘にメイはいた。黒髪にウイスキー色の瞳の、生意気そうな子供を連れていた。
「お墓参りにバラって、看守さん、珍しいことするね?」
片手に提げた花束を見るなりメイは笑った。
車を借りた町の花屋で買ったものだ。花のことなどさっぱりわからないので店の娘に聞こうとしたが、声をかける寸前でふと目に入った白いバラが、彼にはーージキルには、きっと似合うと思ったのだ。
「いや、問題ないよ、うん、ありがとう。アイツも花とか詳しくなかったしね。バラ、好きだと思う、たぶん」
黒々とした瞳に太陽が映る。天気が良すぎるほど良くて、目的の場所に着くまでに、俺は何度も汗を拭った。
ジキル・シェリウスはあれから六年と少し生きた。
彼の生まれ育った町から遥か遠く、住む人間のいない僻地。幸いにして水と土の豊かな場所だった。ジキルとメイはここでひっそりと自給自足の生活を営んでいた。
施設内で死んだはずの獣人病感染者が生きているなどと、知られた途端におしまいだ。
俺が骨の折れる思いをして仕立て上げたジキル・シェリウスの死を、彼らはこの地に移り最後まで守り抜いた。
そうでなくても、ジキルの獣化は目に見える範囲にまで及んでいたから、他の人間に姿を見られるわけにはいかなかった。
両手はほぼ完全に獣のそれの形をしていたし、顔まわりも硬い被毛に覆われ、眼窩が窪んでいた。
しかしながら、鋭い目つきの内にも瞳は安らかな光をたたえ、施設にやってきた日から別れるそのときまで、変わらない色をしていたのをよく憶えている。
「あれから見た目はほとんど変わらなかったよ。黒かった毛が白くなったくらい。中身も」
メイと息子の小さな住処で、冷たい水を飲みながら少し話した。
息子の名を聞けば、事もあろうにクレアだという。年は五つ。一丁前に人見知りをして、メイの陰からこっそりと俺を見上げていた。その頭を撫でながらメイはくすくす笑う。
「最後まで人間だったよ、アイツは」
ジキルは獣人病とは全く無関係に死んだ。
森で足を滑らせ、打ち所が悪く即死だったそうだ。
泣いて泣いて泣き倒してとうに腫れもひけたのであろう目を細めて「バカだよねえ」とまた笑った。クソガキだったメイはきれいな男になっていた。
亡骸は家の裏の、見晴らしの良い場所で焼いたのだという。案内されたそこにはささやかな墓が設えられていた。
野ウサギほどの大きさの石に彫られた彼のイニシャルと、添えられた小さな白い花。
全てメイがやったのかと思うと、柄にもなく胸がしめつけられるものがあった。
あの晩、ジキルの独房の前にぼろぼろの格好で立っていた細い体躯。
愛する男の骸に火をつけるとき、この青年はどんな顔をしたのだろうか。彼に最後に何を囁いたのだろうか。
バラの花束を供え、墓の前に跪く。眼下には遥かな緑の風景が広がっていた。名前のわからない黄色い花が風にそよいでいる。
瞼を閉じると遠くから近くから、鳥の声や羽ばたきが聞こえる気がした。
「クレア。そっち行っちゃだめだよ」
呼ばれた名前にはっと目を開くも、メイの目は遊び盛りな息子の方に向いていた。全く紛らわしい、と一人照れ隠しのように立ち上がる。
メイはしばらく墓の前に佇んでいた。静かに、時折目を閉じ、たおやかに呼吸をしていた。
俯いて露わになったメイの項に、番の存在を示す痣はない。ジキルは最期までメイと番になる気はなかったのだろう。
ーー知っているかい、看守さん。番をもつと、オメガのフェロモンは少し質が変わるんだ。
施設にいた頃にそんなことを言っていたのを思い出す。
フェロモンの質が変わることで、獣化を抑える作用が薄れることを危惧したに違いない。
或いは、そんなことは単なる口実か、メイを納得させるための出鱈目だった可能性も捨てきれないが。
番に先立たれたオメガを襲う“飢え”は、時に人格の破綻さえ引き起こすほど、壮絶なものであるらしいから。
「獣人病って何だったんだろうね」
メイが呟いた。しゃがみこんだまま、自分の膝に頬杖をついて、どこか墓のずっと向こうの方を眺めている横顔。
「どう思う、看守さん」
「……看守じゃねえ」
言いながらも、あれは彼らにとって、感染者にとって、牢屋だったに違いないと俺は薄っすらと思った。
メイは答えを求めてはいないようで、吐息だけで短く笑うと、息子の名前を呼び手招きをした。
二百二十八。
獣人病で死んだ感染者として記録された名前の数だ。
そこからマイナス一。
最後の感染者ジキル・シェリウスは獣人病に殺されたのではない。
そこにいくつを足したらいい。
獣人病がなければ違う死に場所があったであろうジキル・シェリウスと、獣化した感染者に殺害された人間。直接的であれ間接的であれ、獣人病に人生を狂わされた人間。残された人間。
「お前は生きろよ」
六年前、ジキルがいない世界に用はないと言い切った。美しい青年に育ったメイは、左手で幼いクレアを抱き寄せ、右手で愛しい者の頬にするように墓石を撫でながら、
「当たり前じゃん」
そう言って微笑んだ。
了
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