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SCENE1

 クラブの薄暗い喧騒と人ごみの中に、俺は立ち尽くした。  ついに来た、と思った。この俺が、大久保凛を見間違えるはずがない。  心臓が身体の中でドリブルされてるんじゃないかというぐらいに高鳴って、苦しい。  人ごみの中でも、凛はひときわ目立った。身長百七十五センチの鍛えあげられた身体。ごく普通のTシャツにジーンズ、大きめのブラウンのサングラス。それでも際立って見えるなにかを、凛は持っている。  大久保凛は、デビュー五年目のシンガーだ。ワイルドなルックスに、抜群の歌唱力。心をわしづかみにする、激しくせつなく、豊かで深い詞の世界。  でもなによりも俺が魅せられたのは、瞳。きつく熱く、人の心の奥底まで貫いてしまいそうに、鋭く力のある瞳。 「おい遠山、なにぼんやりしてんだよ。大久保凛のお出ましだろ?」  いきなりバイト仲間に声をかけられて、俺は思わず手にしてたトレイをひっくり返しかけた。 「すげえ顔。ホントに大久保凛のこと好きなんだな」  笑う余裕はなかった。俺、遠山(よう)は、デビューからずっと凛を追い続けているファンだった。 「ほら、ぐずぐずしてるから他のヤツが案内に行っちまったじゃんか。頑張れよ」  俺の肩をなだめるようにたたくと、そいつは行ってしまった。  凛は今、活動を休止している。  理由は分からない。とにかく、決まっていたツアーがキャンセルになった。アルバムの発売も無期延期になった。  俺は途方に暮れた。フリーター生活の唯一の楽しみが、凛だった。ライブは何回も見に行くし、テレビや雑誌もしっかりチェックしていた。そんなふうに生活の中心にあったものが、突然目の前から消えた。聞こえてくるのは悪い話ばかりだ。  女優とのスキャンダル。連日の派手な夜遊び。どこの誰かも分からない「関係者」が、大久保凛はもう再起不能でしょう、なんて語っていたりした。  その凛が今、俺が働いているクラブにやって来た。  俺は数年ぶりに呼吸するような気分で、大きく深呼吸した。胸の苦しさが、なかなか消えない。  一目でいいから、凛を間近で見たいと思っていた。無数にいるファンの一人から、特別な存在になれたらどんなにいいか。そう、夢想すらしていた。  実はこのクラブにも、凛が時々来るらしいと聞いたからバイトに入った。凛が本当はどうしているのか、全然分からないから、俺はなんとかして凛が元気でいるのか、確認したかった。  凛はVIPルームに案内されたようだった。ドリンクを運んだりして、そばに行きたい。でも怖い。  凛にとっては、俺はただのクラブの店員でしかない。だけど俺にとって凛は、ただの客じゃない。ずっと好きだったシンガーだ。ほんの一言が、本当に本当に大切な思い出になる。凛の前で失敗なんかできない。  俺はVIPルームの方を気にしながらも、ぎこちなく仕事を続けた。たぶん、かなり挙動不審な店員になってるだろう。 「なにしてんだ、トイレチェック行ってこい」  フロアマネージャーに言われて、俺はほとんど機械的に、二時間ごとにやっているトイレチェックに向かう。 「おい」  流れている曲にまぎれて、声がした。つい、びくりと肩が震える。 「おい、ちょっと待ってくれ」  凛の声だ。少しかすれた、背筋を心地よくざわめかせる、艶のある声。間違いなく、凛の声だ。  俺の貧弱な肩を、大きな手のぬくもりが包む。  動けなくなった。凛が、俺に声をかけてくれた。凛が、すぐ後ろにいる。俺は唇をかみしめた。 「こっちを向いてくれないか」  声と同時に、肩に置かれていた手に力がこもる。制服のベスト越しに、俺は凛の長い指をはっきりと感じた。  トイレへと続く細い廊下の、煙草の自動販売機の横。凛は、俺を見つめた。まっすぐに。どこか泣きそうにも見える瞳で。  憧れ続けた瞳から、俺はすぐに目をそらしてしまった。恥ずかしい。身体が熱い。逃げ出したい、とすら思った。  凛の唇が、目の前でかすかに動いた。俺の左肩に置かれた手が、そっと動く。 「……あ、あの……」  凛の手が、俺の頬を包もうとしている。  そう感じて、俺はどうしようもなく苦しくて、やっとの思いで声を出した。 「名前、は……?」  乾ききった、緊張を感じさせる声で凛が言う。 「……遠山洋、です」  俺の声もからからだった。手にはじっとり汗をかいてる。凛は俺の名前を聞くと、表情を優しくゆるめた。どこかほっとしたようにも見える。 「ごめん、すげえ好みのタイプだったから」  さらりと言い、サングラスを外す凛。  俺は壁に背中を預け、凛の胸元で揺れるシルバーのネックレスを呆然と見た。 「俺のことは知ってる?」  うつむきっぱなしじゃ、悪い印象を与えてしまうかも知れない。俺は思いきって顔を上げ、精一杯きれいに笑いかけようとした。 「もちろん。大久保凛でしょ?」  満足そうにうなずいて、凛は俺の顔の横に手をついた。香水がかすかに香る。俺はますます、動けなくなる。 「仕事抜けられない? 二人きりになれるとこに行きたいんだけど」  胸が痛い。息ができない。心臓が壊れそうだ。きっともう、一生のうちでこんなにも胸が高鳴ることはないだろう。  凛に誘われてる。夢じゃない、俺は今確かに凛に誘われてる。でも、なんで俺なんかに、凛が……。 「唐突すぎた? それとも、そんな趣味なんかない?」  答えられずにいる俺に、いかにも残念そうに、ため息混じりに苦笑する凛。  がっかりさせたくない。ずっと好きだった。とてつもなく遠い存在で、個人的に話すことなんて、夢のまた夢だと思っていた。  それなのに今、一番思いがけない形で俺は凛に近づけた。夢よりもずっと意外な誘い。  俺は凛の顔を見れないまま、なんとか言った。 「いいよ、連れてって」  そう答えた途端、凛の腕が俺の背中に回され、店の外へと歩き出す。 「ちょっと借りるよ。クビにしないでやって」  出口の近くに、オーナーがいた。凛はオーナーの前を早口にそう言って通りすぎ、外へ出る。  凛の腕に優しく抱き寄せられ、頭が凛の肩に埋まる。緊張のあまり身体がこわばって、足元がおぼつかない。 「そんなに硬くなるなよ。まさか、初めてなの?」  クラブのすぐ裏にあるパーキングへと向かいながら、凛がささやく。  いかにも遊び慣れた口調に、俺はほんの少し失望した。同時に、ほっとした。凛が俺なんかに、本気で一目惚れするはずがない。  金がなくて、ただでさえはねるくせ毛は伸ばしっぱなし。背は百六十センチちょうどで低いし、それに目じりが下がり気味で鼻は小さくて、かっこいいとはとても言えない。  間違いなく、遊びだ。気まぐれだ。ひっかけやすいだろうと思われたのかも知れない。でも俺はそれで、全然構わなかった。  凛の車がどこにあるのか、俺には一目で分かった。凛の愛車は、ブラックサファイアのBMW。そう知って、車の雑誌を立ち読みして調べた。  その車の後部座席に、凛は俺を乗せた。凛も乗りこんできて、ドアを閉める。  限られた狭い空間に、鼓動が響き渡りそうな気さえした。自分がたてた衣擦れの音にさえ、びくついてしまう。  抱き寄せられる。ゆっくりと、ひそかに。俺のぬくもりを肌で吸い取ろうとしているかのように。  胸が密着する。俺は驚いた。凛も俺と同じぐらい、激しい鼓動を刻んでいる。  凛は無言のまま、左手で俺の背中を、右手で俺の髪をなでた。鼻と唇が、髪の中に静かに忍び込んでくる。唇がそうっと、俺の耳に触れる。  ため息が漏れた。涙が出そうだった。俺のぬくもりを味わう凛。好きで好きでたまらない相手と、数年ぶりに抱きあえたかのように。 「……キスして、いいか?」  のぞきこんでくる瞳。せつないほどの熱。俺は耐えきれず目をそらし、小さくうなずいた。  凛のぶ厚い手のひらが、俺の頬を包む。長い指が、俺の耳をもてあそぶ。  キスするなら、早くして欲しいと思った。凛の視線。恋人のような優しさ。どうにかなってしまいそうだ。  しばらく俺を見つめたあとで、乾いた唇が重ねあわされた。凛の舌が俺の唇を割り、とろりと口の中に入りこんでくる。  凛の腕に包みこまれての口づけに、俺は夢中になった。優しくかき回されるたび、甘いここちよさに酔わされる。  すっかり力の抜けた身体を、凛の腕がしっかり支えてくれる。何度も深く浅く、飢えてるかのようなキス。欲情が満ちていく。 「このままどっか行っちまおうか」  凛は唇を離すと、はにかんだ笑みを浮かべた。テレビでもライブでも見たことのない笑顔。  ああ、凛もこんなふうに子供っぽく優しく笑うことがあるんだ。  俺は今、大久保凛を独占している。ファンが知らない凛を。そう思うと、たまらなく幸せだった。

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