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不可侵領域

それから1時間ほどが経ち、ゲストルームのドアが開き、ジェフが出てきた。 汚れたシャツを脱ぎ、鍛え抜かれた上半身を晒しながらも、包帯が巻かれた左腕は身体の横で力なく垂れている。それでも、昨晩は終始蒼かった顔には、血の気が幾分戻っていた。 エリックはジェフの元へ駆け寄ると、なだらかな弧を描いた彼の唇を塞いだ。両腕を伸ばし、栗色の短髪を掻き抱きながら、口づけを深めていく。 ジェフも、右手でエリックの頬を撫でながら、彼とのキスに没頭していく。一言も言葉を交わさず、ふたりしか知り得ない温もりと感触を、ただただ夢中で貪るさまを、ポールは離れた場所で静かに見ていた。 ふと、腰を抱かれ、頭頂部に柔らかなものが触れたのを感じた。ポールはくすりと笑い、傍らに立つ夫を愛おしげに見上げた。 「起きたんだ?」 「うん、おはよう」 マシュー・グッドの寝起きは、きっとこんな感じなのだろうと思わされる、端整で甘ったるい顔は、まだまだ眠たげだった。ポールは笑みを深くし、ショーンからのおはようのキスを受け取る。 「……少しは回復したみたいだね」 ショーンは安心したように言い、ポールの身体を自らへと引き寄せた。その時、汗と血の臭いがふわりと漂ってきたが、嫌な感じはしなかった。 「数日間は、絶対に安静にするようにって約束、ちゃんと守ってくれたらいいんだけど」 「……それは、どうだろうな」 もしまた、エリックが危険に晒されることがあれば、ジェフは必ず彼を守ろうとするだろう。 たとえ、自分の身がどうなろうと。 ……恋や愛は理屈ではない。 ポールはそれを、身をもって実感している。十分に理解できる。 それでも、彼らの恋路に不安や懸念を抱かずにはいられなかった。 「……ふたりのことが心配?」 ショーンに訊かれ、ポールは微かに苦い笑みをこぼした。心情が、顔に出ていたのだろう。 「ただひとりの、友達のことだから」 表情はそのままに、ショーンの肩にこてんと頭を預け、長い息を吐く。 「僕が口出しできることじゃないって分かってるけど、気持ちが落ち着かないな」 「君は優しいね」 ショーンこそ、優しくそう言って、ポールの麦わら色の髪を梳く。 「彼らは愛し合ってる。たとえどんな困難にぶち当たっても、心が繋がっている限り、きっと乗り越えていく。誰も何も、彼らの愛を裂くことも、侵すこともできない。何もかもが、彼ら次第なんだよ。……今すぐには、ふたりの関係を認められなくても、いつかは信じて見守ってあげれば、それでいいんじゃないかな」 恋愛小説や愛の詩を、読み聞かされている気分だった。 こちらが顔を赤らめ、照れてしまうほどのロマンチストな科白だ。それをショーンは自己陶酔に浸ることも、恥ずかしがることもなく、まったくの本心から言ってきた。 けれども、その通りなのだろうと思う。いくら友人とは言え、踏み込んではいけない、あるいは踏み込めない領域はある。仕事でも、私生活のことでも。 そこでポールははっきりと、寂しいと感じてしまった。気心の知れた相手が、昨晩まで恋人の存在を明かしてくれてなかったこと、その恋人と不可侵領域内に入り込んでいることが。 僕はなんて傲慢なんだろう、と胸のうちで自嘲する。エリックの、個人的な事情や感情は、何でも把握していたかったのかも知れない。いったい何の権利があって、そんなことができるというのだ。エリックが、いつも自分には本心を明かしてくれるのが嬉しくて、いつしかそんな思考回路になっていたことを、ポールは恥じていた。 ……何も言えずに、エリックとジェフの静かな睦み合いを見つめ続けていると、ショーンが頬にキスをしてきた。昨晩より幾分ヒゲが伸び、チクチクというよりはザラザラした感触を肌に感じる。それが、不思議と気持ちよかった。 「もちろん、俺たちだってそうだよ」 いささか目を大きく開き、薄汚れたメガネ越しに夫を見た。彼は、喉が渇きそうなほどに甘く蕩けた笑みを浮かべて、ポールを見つめていた。 心臓が、とくりと心地よく跳ねた。 ショーンの大きな左手が、やんわりと頬に触れる。職業柄、普段は嵌めていない結婚指輪を、プライベートの時間だからと薬指に通していた。手のひらの温もりとその硬さが、頬の皮膚を通して体内に流れ込んでくる。 「たとえどんなことがあろうと、俺たちはずっと一緒だよ。俺は、君のいない人生なんてもう、考えられないから」 今度は胸が、甘く締めつけられた。 たまらない気持ちになり、ポールはショーンの左手に自らの手を重ね、彼の唇を熱っぽく食んだ。そして、泣きそうな声で囁いた。 「愛してる。僕だってもう、貴方なしでは生きていけない」

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