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第3話

 六月二十四日のニューヨークは悪天候だった。昼間だというのに空は暗く、大粒の雨がハワードのコートを濡らした。彼は傘を持たず、わざと雨に打たれながらその場におもむいた。  ハワードが向かった先は妻ジェニファーと息子ジャックが眠る墓地だ。ハワードは忙しさと後悔を理由に頻繁に足を運ぶことはしなかった。墓地に入り彼らを祈る行為はハワードを残酷な現実に引き戻すだけだろう。だからハワードはこの場所で祈るのは年に一度にしようと決めた。今年で八回目になる。黒曜石で造られた墓石が雨水の力を借りてより艶やかになり、ハワードの顔を大写しにした。  八年の月日は長い。自分に刻まれた皺と疲労の色を知って、ハワードは深いため息を吐いた。 「すまない。ジェニー、ジャック。今年も悪い報告しかできない」  ハワードはジャケットの内ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点けようとする。雨水が邪魔をしたが、ハワードは何とか成功した。  ヘビースモーカーだったが、妻子が殺された日を境に、ふたりの命日だけ吸うようにしている。  一年ぶりの煙はいつものように苦かった。 「愛している……」  ハワードはふたつの墓石を見下ろしながら、来客を待った。容赦ない自然の脅威がミラーへの復讐心を煽り、ハワードは自分自身を奮い立たせた。  しばらくして、墓地に黒い傘を差した男が現れた。気配を察して振り返ったハワードはいつの間にか雨が止んでいることに気づいた。 「傘を差す必要はないぞ」 「これから畳もうとしていたのさ」  マイケル・J・ミラーは傘についた水滴をいとわず、丁寧な手つきでくるくると傘を巻き、それをステッキのようにして腰を下ろした。 「私もいい年だから、最近足腰が悪くてねえ」  ミラーの尻の下にはジェニファーの墓石がある。 「座るならよそへ行け。それは椅子じゃない」 「ただの石さ」  ミラーは隣のジャックの墓石も傘で差し示す。「これもね」  ハワードは怒りを抑えようと努めた。殺してはいけない。ここで殺すなんて楽な死にかたはさせない。  だが人ならざるミラーの態度に、無意識のうちに右手が拳銃にふれた。 「やめておけハワード刑事。私の話を聞くために呼び出したのだろう?」  当然ミラーに見透かされていたが、彼が無礼な態度を改めるようなことはなかった。 「さて、何から聞きたい? 君の家の侵入経路かい? それとも――」 「無駄話をしている暇はない。率直に聞く。どうして俺の妻子を殺したんだ?」  ハワードがミラーの話を遮ると、彼の機嫌は一気に降下した。 「物事には段取りがあるのだよ。ハワード。より効果的に君を追いつめようとしていた私の計画が水の泡だ」 「どうして俺の妻子を殺したんだ?」 「坊やが助けを求めていたからさ」  ミラーは傘の先でジャックの墓をつついた。「彼は泣いていたよ」 「ふざけているのか」 「いいや。私は正しい行いをしたまでだ。君には信じられないかもしれないがね。ハワード刑事。私には坊やの悲鳴が聞こえるのだよ。〝悪いことをしたらパパにおしおきされちゃうから、ぼくはいい子になるんだ。ごめんなさいパパ。ごめんなさいパパ〟坊やはベッドで泣いている。私は坊やに呼ばれたんだ。〝誰か助けて!〟って」  ミラーの口ぶりに熱がこもってくる。 「私に感謝しろハワード! 坊やを君という悪魔から救い出したのだ。君は残忍で、冷酷で、人の心を持たないどうしようもないクズだ。ああ、可哀そうなジャック。まだ九つだったというのに……!」 「――そんな戯言を俺が信じると思うのか」  ハワードはミラーに罵倒されながらも冷静な態度を崩さないよう努めた。手を伸ばせば届く距離にミラーがいる。この機を逃してはならない。ハワードは深く呼吸した。「本当のことを話せ。俺に嘘が通じると思っているのか」  ハワードが鋭くねめつけるとミラーを取り巻いていた狂気の渦がすっと消え去った。ミラーは無になった。だがそれは一瞬のことで、次に見たミラーの顔には柔和な笑みが浮かんでいた。取調室で見た完璧な紳士が現れたのだ。 「ああそうだよハワード刑事。この私が話せば、みな真実になる。私を逮捕したいかい? 結構だとも。私はまた同じ話をするだけさ」 「俺が自分の子に手を出したから、救ったとでも証言するつもりか」 「君だけじゃない。ドネリーも、ストーンも、ザックも、アボットも、ほかの連中も、自分の子を泣かせたのだ。私の使命は坊やたちを救うこと。私がいなければ、坊やたちはみな穢されていた」 「俺たちが愛する子供をレイプしたとでも言いたいのか!」 「まさか、そんなわけないだろう」ミラーは肩をすくめ、つまらなそうに吐き捨てた。「冗談に決まっている」  ハワードが彼に対して誠実な態度でいられたのはここまでだった。 「両手を頭上に、俺の家族の前で跪け」 「よしてくれよ。私は拳銃が大の苦手なのだ」  眼前に銃口を突きつけられてもミラーの態度は変わらない。そればかりか大胆にも銃身に舌を這わせ、思わせぶりにハワードを挑発した。 「跪くんだ。今すぐに。俺から逃げられると思うなよ」 「ハワード刑事。私は何の罪に問われるのかね」 「今日までに十二家族、計二十四人を殺した罪だ」 「私も凶悪犯の仲間入りというわけか。箔がつくね。光栄だ。だが私を逮捕できるだけの証拠はあるのかい? 私には鉄壁のアリバイがあるのだよ」 「そんなものはない。だから俺たちはあんたを逮捕できなかったんだ」 「警察の怠慢を認めるのかい。そう悲観しなくてもいい。私が完璧すぎたのだから」 「俺の言う通りにしろ。両手を上げて、跪くんだ」 「そう急かすなよ。お楽しみはこれからだっていうのに」  ミラーはようやくハワードの指示に従った。だが彼の両目はハワードを捉えたままだった。  底知れない恐れをハワードは感じた。それを振り払うように、ハワードは激高した。 「俺を見るな! お前が殺した俺の妻と息子を見ろ!」 「ただの石に私が頭を下げるとでも?」 「早く」 「わかったよ、クリス。君をからかうのはこれくらいにしておこう」  両手を上げたままミラーはやれやれと肩をすくめた。ひどく不格好だった。それからジェニファーとジャックの墓石に向かい「悪かったね」と言った。 「悲劇だ。おお神よ。私の軽蔑する悪しき神よ。なぜ貴方は私にこのような苦行を強いるのでしょう」  ミラーお得意の狂言が始まった。 「私は坊やを救おうとしただけだ。坊やが父親に穢されぬように護っただけだ。私は坊やを護った罪で裁かれる。この雨に濡れた大地が憎い。私を跪かせるこの男は、私を殺そうとしている。坊やが流した涙か、それとも神が流した涙か。先刻まで降っていた雨が私を汚す大地に染み入り、汚泥となって私を飲みこむ。私は懺悔せねばならない。坊やを救った罪で。すべての坊やたちの嘆きが消え去ることを、私は願う。それから彼らに安らかな眠りを――」  言質は取った。ハワードはミラーの両手をひねり、後ろ手に手錠をかけた。 「どうしてお前がその言葉を知っている?」  ジャックの直腸から発見されたカードのメッセージは公表されていない。 「それだけが決め手かね? 根拠が弱いよ」 「ああ、そうだよ。だが充分すぎる証言だ。俺にとってはな」  手錠に鍵をかけると、ミラーは小さく喘いだ。「きつすぎやしないかい?」 「黙っていろ。俺がこの場で殺さないだけありがたいと思え」 「〝悲劇の捜査官。八年越しに憎き仇敵を逮捕!〟明日のタイムズは君のニュース一色だろうね。よかったじゃないか、ハワード刑事。これで君も花形部署に復帰だ。私という手土産を持ってね。お祝いは何がいい? 牢の中からとびきりのワインをプレゼントしよう。それとも――」  これ以上ミラーと共にいる姿を見られたくなかった。ハワードはミラーの後頭部めがけて思いきり拳銃を握る腕を振り下ろした。ミラーは前につんのめり、ジェニファーの墓石に口づけるように倒れた。ミラーが反撃する前にハワードは二撃、三撃と加えていく。それでも足りず、ハワードはミラーの後ろ髪をつかみ、彼の秀でた前頭を墓石の角に何度も打ちつけた。ミラーは動かなくなった。  正気を取り戻したとき、自分の身体にほんのひとときだけ悪魔が憑りついたに違いないとハワードは思った。ミラーは派手に出血していたが意識を失っただけだった。ミラーの血はジェニファーとジャックの墓石にも飛んでいた。ハワードは焦った。すぐさまふたりにかかった血をすすぎ落さねばならないのだが、最優先はミラーの身柄だ。憎き殺人鬼の血は乾ききってしまう前に、雨が洗い流してくれるだろう。瞬時に自分を納得させ、ハワードはミラーの身体を引きずり、近くに停めておいたシボレーのトランクに押しこんだ。それから現場に戻り、ミラーの傘を回収してハワードは車を発進させた。

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