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第52話:棒を掲げるブルドッグ2

――――。 あれから、どれだけの時が過ぎただろう。 また暖かな季節を迎えた頃。 僕はSNSに流れてきた、ある画像に目を留めた。 画像の投稿者によると、それは沖縄の名もない浜で撮られた写真で、高さ2メートルほどの壁画が突如、海岸の岩肌に現れたそうだ。 描かれているのは、なんとも不細工なゴーヤのキャラクター。 そいつがトランクスを穿こうとしている瞬間の、中途半端なポーズで時を止めている。 躍動感がある、褒めようと思えばそう言えるかもしれない。 けれどイラストは一見すると子供が描いたような軽いタッチだ。 誰が、なんのためにそんな壁画を描いたのか。 気になって続報を追ったけれど、その答えを知ることはできなかった。 そしてその壁画のことを忘れかけた頃。 今度は九州のド田舎に、また壁画が現れた。 田んぼに囲まれた精米所の壁面に、それは描かれていたという。 靴下を穿こうとして頭の水をこぼす、河童の子供のイラストだ。 まだ田植えには早い時期で近くに人が来なかったため、誰がいつ、どんな目的でそれを描いたのかは分からない。 たいした話題のなかった地元のニュースに取り上げられ、それがSNSで全国区の話題となった。 沖縄の壁画と関連づけて考える投稿は、今のところ見当たらない。 ユーモラスな壁画ということは共通するものの、イラストにはこれといった特徴がなく、同一人物の手によるものかどうかが分からなかった。 歪んだ線から、SNSでは下手な絵だと言われていたが、パーツを極力減らしたシンプルなイラストだ。 むしろ、センスが光っていると僕は感じた。 そのあと河童のイラストはアスキーアートで真似され、改変されて一部で流行した。 それから山口の狸、鳥取のお米の精と、SNSに似たような壁画の報告が続いた。 その頃になると壁画が同じ作者のものであると考え始めた人もいて、インターネット上での作者探しが始まった。 制服の女子高生、浮浪者らしき男、それから子供の集団だという目撃情報が上がった。 けれどどれも信憑性は薄かった。 一方、僕の頭の中にはひとつの可能性と希望が生まれていた。 あの絵柄は、相楽さんに違いない。 沖縄までは無理だったけれど、九州と山口、鳥取には実際の壁画を見に行った。 ところが九州の精米所は建物自体が古くすでに取り壊されており、山口のものも描かれた看板が台風に吹き飛ばされ、行方知れずになっていた。 ちなみに看板は廃業した農園のもので、農園の所有者である老人は、名前も知らない男にその看板の使用を許可したという。 訪ねついた僕は老人から男のことを聞き出したかったけれど、老人は盲目で男の顔を見ておらず、その後の行き先も聞かされていなかった。 僕なりに足を使ったのに、相楽さんの情報には行き当たらない。 あの人はいったい何を考えているのか。 徒労感と、消せない希望が残った。 その旅の帰り。 僕は大阪で、木の棒を掲げるブルドッグを目にする。 線路沿いの防音壁に描かれた、巨大な落書きだった。 見たところ他の壁画同様にシンプルなイラストだが、ブルドッグだから線は少し多い。 そして電車の窓からよく見ると、そのそばにサインのような文字が添えられていた。 今までの壁画に文字は見当たらなかったので、少し異質な印象を受ける。 書かれていた文字は『400days to the Tokyo』。 東京まで400日? 首をひねった。 歩いて移動したとしても大阪から東京まで、さすがに400日はかからない。 だったらなんなのか。 車窓から見た残像をまぶたの裏に浮かべ、僕は時間と空間から切り離されたような浮遊感を味わう。 400日待ったら、あの人は東京に帰ってきてくれるんだろうか。 そんなことを考える。 相楽さんが消えてもう半年。 彼の手がかりがようやくつかめそうな気がしたのに。 はやる気持ちのまま、あと1年以上も待つのはつらい。 いや、『400days to the Tokyo』はきっと別のものを示しているはずだ。 イラストが、文字が、頭の中にあふれ、耳の中の空気が膨張する。 これだけの情報では、答えにたどり着けそうにない。 ただ、分かったこともあった。 壁画は明らかに北上を続けている。 そして目指す場所はおそらく東京だ。 パンツを穿き、靴下を穿き。 途中イラストは靴を履いたり屈伸運動をしたりもしていた。 そして今、大阪で木の棒を掲げている。 (どうして急に、棒なんだ?) 首をひねった時、相楽さんがデザインした、前のオリンピックのロゴマークが浮かんだ。 (もしかして――聖火?) 電車のつり革につかまったまま、体を電流が駆け抜ける。 (そうだ、東京オリンピックまで400日を切ったんだ!) イラストの生きものたちは靴を履き、聖火を持ってオリンピックの東京へ向かおうとしている。 そして記憶の中の声が、耳によみがえった。 ――けど俺も、嫌いじゃないんだよな、オリンピックが。みんなで集まって競い合ったり、応援するのってなんか楽しいだろ? 「あの人……人の気も知らないで、楽しそうにオリンピックの絵なんか描いて回ってるんだ……」 ひとりつぶやき、腹の底からこみ上げてくる笑いを感じる。 内定していたオリンピックのデザイン担当を外される形になった相楽さんは、それをきっかけに、きっと自分なりのオリンピックの広報活動を始めたんだ。 事務所を畳んで暇になったから、前からやりたかったことをやってみた、そんな感じなのかもしれない。 そして、何も知らずにひたすら彼の帰りを待っていた僕は、自分でもびっくりするほどの大間抜けだ。 (相楽さん……) ひとり壁画を描く、彼の背中が見えた気がした。 「こうなったら先回りしていって、こっちから捕まえてやる!」 思わず叫んだ僕に、電車に乗り合わせた人たちがギョッとした顔を向けた。 *

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