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第51話:棒を掲げるブルドッグ1

それから2カ月後――。 テンクーデザインの事務所があったビルの向かいに、僕は橘さんと並んで立っていた。 「相楽からの連絡は?」 「あれからまったく……」 ビルの窓に張り出されていた事務所のロゴマークは跡形もなく剥がされ、そこには今、不動産屋の連絡先を知らせる文字が並んでいる。 僕がここを初めて訪れた時、柔らかな新芽を見せていた街路樹も今は、真冬の風に晒され、息を殺していた。 「そっか、そっちにも連絡なしか……」 橘さんがため息をつく。 あの夜以来、相楽さんは忽然と姿を消してしまい、僕らはこの街に取り残されていた。 会社はきれいに畳まれた形だけれど、事務所裏のマンションは相楽さんの持ち家で、今もそのままの状態で残っている。 彼は姿を消す前に、マンションの当面の管理費を管理会社に支払っていったそうだ。 僕があそこにいて困らないようにしてくれたのかもしれない。 その僕は、学生時代にもやっていたリサイクルショップのアルバイトで生活費を稼ぎつつ、いつ帰るのかも分からない人の帰りを待っている。 あそこを出ることも考えた。 けれどこんな形で置いていかれて、苦情のひとつも言わずに消えることが、僕にはどうしてもできなかった。 せめてあの人の肌に、爪痕のひとつでも残したい。 そんなことを、今も時々考える。 けれどどう考えても僕の方が、あの人の残した爪痕で心が傷だらけだ。 「本当に勝手な人です」 ビルの窓を睨んでつぶやくと、橘さんが肩を叩いてくる。 「それでも、忘れられない?」 「忘れられる、わけがありません……」 僕の中にこんなにも深い爪痕を残していった人は、きっと後にも先にもあの人しかいないと思う。 「……そう。でも相楽に義理立てしてどこの事務所にも勤めないなんて、荒川くんの才能が勿体ないよ。そろそろ気持ちを切り替えて、うちに来たら?」 橘さんの事務所には今、テンクーデザインの時の仲間の半数以上が移籍している。 仕事もテンクーデザイン時代のコネクションを利用して、最近は安定してきたそうだ。 それはいいことだけれども、僕はやっぱり相楽さんと一緒にデザインがしたいという想いが捨てきれなかった。 彼を恨んでいるのか慕っているのか、自分でもよく分からない。 「義理立てっていうのとは違うんです。でもまだ……気持ちがついていかなくて」 「まあ、ゆっくり考えてくれたらいいよ」 橘さんはもう一度ビルを見上げ、それから僕を見た。 「そうだ。ストーリーの早乙女さんが、僕のところに荒川くんがいないのを残念がってたよ。君もこっちに移籍してると思ってたみたいで」 「そうですか、早乙女さんが……」 そういえばテンクーデザイン時代のアカウントは、事務所を畳んだタイミングで使えなくなっている。 早乙女さんが僕のことを気にしていても、向こうから僕に連絡する手段はないはずだ。 (早乙女さんには何かしら報告すべきなんだろうけど……でも、なんて言えばいいんだろう?) 僕と相楽さんは結局、早乙女さんのいう『いい感じ』にはなれなかった。 ただ素直に、そう伝えればいいのかもしれない。 でもまだ僕にはあの人のことを、過去形で語ることができそうになくて。 「どうしたらいいんですかね?」 隣にいる橘さんに言うでもなく。 多分僕は、この世界のどこかにいるはずの相楽さんに向かって語りかけた。 *

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