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第34話
八月十四日。
第一、第二、第三ラウンドの敗北までが昨夜の記憶だ。
搾り尽くされた体では今朝の第四ラウンドでマウントを取れるはずもなく、湊は満身創痍の様相でリビングのソファに突っ伏していた。
おかしい。
肘掛に片腕を上げて、もう片手は床に垂らしただらしない姿勢で一人ごちる。こんなはずじゃなかった。
最初はいい感じでいけていたのに、気がついたら突っ込まれていた。それが一回や二回ではなく、今朝の攻防まで全て。
湊としてはそんなにあっさり立場を入れ替えられるぐらい、自分のセックスが下手だとは思っていなかったのに。これまで付き合ってきた女性たちには概ね好評だったし、指先だって器用な方だ。確かに弘人は上手いと思うけれど、湊とて負けてはいないはず。
なのに何故だかマウントを取られる。喘がせるはずが喘がされている。一体何故。
立て続けの挿入に尻の寿命が心配になった湊から一時休戦を申し入れ、やっと服を着られたのだが、腰から下の感覚がおかしすぎて普通に座ってもいられなかった。そんな状態の湊を見兼ねて、弘人が朝食兼昼食を作っている。キッチンからご機嫌な鼻歌と調理音が聞こえてきて、腹立たしいやら情けないやらで何とも切ない。
「兄さん、尻どう? そろそろ座れる?」
菜箸片手に様子を見に来た弘人に促され、そろりと寝返りを打ってみた。傷ついてはいないから酷く痛むというより違和感が凄いけれど、だいぶ回復したようで座れないこともない。
上手く力が入らない腰を支えられてダイニングテーブルに着く。素麺やら漬物やらの軽い物が並んだ食卓に、これなら食べられそうだとほっとした。
「つゆは? こっち? わさびどうする、やめとく?」
「やめとく。つゆはそっちのがいい」
「はいはい」
甲斐甲斐しく世話を焼かれ、素麺を掬って口に運ぶ。つるんとした食感が至福だ。
麺は極細で固め。きんきんに冷やした器に大量の氷と水。つゆにネギと多めのわさびを入れてシンプルに頂くと、もう最高だ。
残念ながら今日は腹具合が心配なためわさびは抜きだが、それでも十分に美味しい素麺はつるつる胃に収まっていく。
冷たい喉越しに夢中になっているとふと視線を感じ、向かいに座っている弘人を見たら物凄く幸せそうな顔で見つめられていて固まった。満ち足りたいい顔は酷く優しくて、初めて見た表情にどきりとする。
「……なに?」
「んー? いや、別に」
にこにこ微笑まれて微妙に視線を逸らす。空気が甘すぎて居心地が悪い。
妙に照れ臭くて再び素麺に集中することにしたら、弘人もようやく箸を動かし出した。
「ところでポジショニングの変更はできそう?」
しれっと聞いてくる面が小憎たらしい。一度も成功していないことなど百も承知のくせに。
「そうですね。おかげさまですでに俺のプライドはボロボロですが、頑張りますよ?」
「え、まだ諦めてないの。尻大丈夫なの、後二日保つの?」
「俺より自分の尻の心配してな」
「ハッハ!」
「何その笑いむかつくんだけど」
箸で弘人の手を突き刺したら行儀が悪いと叱られた。確かに。
しかし納得がいかない。なぜこんなへらへらにやにやしているだけの男に負けるのだろう。容易く押え込まれる程軟弱ではないのに、全く以て納得がいかない。
ぎりぎり睨んでいるとまるで仕方がないなあと言わんばかりに苦笑されてまたもやカチンときた。その見守る視線に舐められている気がする。
大人ぶって穏やかな目つきをして。子どもを宥めるような慈しみに溢れた眼をして。
そんな余裕なんていらないのに。
「よし弘人。食後の運動するぞ」
草食動物のような鷹揚さなど、いらない。
欲しくて欲しくて手を伸ばすのが自分だけだなんて、そんなのは不公平だろう。
「えええ色気ねー! もちょっと可愛く誘ってよ!」
「うるさい。早く片付けろ」
「もー、横暴なんだからー」
それでもすること自体に否やはないのか、急いで残っていた麺を片付けて食器を下げる素直な態度に少し気をよくする。
自分相手に余裕なんていらない。優しくされるのもするのも好きだし、大事にされている感覚は面映くて幸せだ。けれど、時にはそんなものもぶっ飛ぶぐらいがっつかせたい。
あの手この手と頭で行うセックスはもういい。昨夜から十分試した。
相手をがむしゃらにさせたいならまず自分が気持ちのままにがむしゃらになることだ。
自分の壁を取っ払わなければ、相手を引きずり込むことなんて出来やしないのだから。
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