10 / 10

第9話「雨音コール」

〇雨音コール  慣れない手つきで、人差し指を使い軽く画面をタップすると画面がするりとスクロールされる。  あ、から始まり…か、き、く、け……どの欄も空白だ。  昔から特定の人物と繋がりを持とうという考えが薄く、俺のスマートフォンにデフォルトで入っている電話帳は常に空席ばかりだった。  するするとさらにスクロールさせていくと、さ行を通り過ぎた行にさしかかる。そこで、俺の指は動きを止めた。  最近、そんな俺の電話帳の空席を一つだけ埋めた人物がいる。  ――高宮秀一、パート先の常連男性客だ。  先日、一日休みをもらった俺は気晴らしに一つ駅を乗り継いで買い物に出ていた。  けれど、普段あまり外出しないこらだろうか。天気予報を確認するのを忘れた俺は、その日の午後から雨が降ることを知らなかった。  目的のものも買い終え、駅へ向かおうとしたせつなぴたり……と雫が頬をぬらす。そして、次第にしとしとと街全体を包み始めた。 「うわ、本格的に降ってきたな……っ」  バシャバシャとやや激しい水音を立てて歩道を走る。不意にスマートフォンのオプションメニューを開いて天気予報を珍しく確認すれば【降水確率80%】とあった。もう、なにもかもバカバカしくなる。  そこで、その無意味なランニングに終止符を打つと視線の先のカフェに意識が集中する。  ガラス張りと木材を多めに使用されたちょっとレトロで、落ち着いた雰囲気のあるお洒落な喫茶店だ。この雨だ、同じように天気予報と円のない人達で中は多分満席だろうな……なんて考えると窓際の屋根のあるスペースへ避難する。  少し屋根の広いそこは、雨宿りをするには絶好のスペースだった。  とん、と軽く窓に寄りかかると薄暗い空を見上げる。   ――――雨は、嫌いじゃない。鼻をつくじっとりと濡れたアスファルトの臭いも、鼓膜をくすぐる雨音も昔から好きだった。  けれど、基本的な移動手段が徒歩か自転車の俺にとっては憎き相手でもあって。  レインコートは、あの肌に張り付く感じが嫌いだった。傘は、さしながら運転するだけで、今は捕まってしまう。  生きづらいなあ、なんて心の中で苦い笑みを零しているとふ、と思い出す。  そういえば、以前車に乗せてもらった時に知ったことだけど……高宮さんは車だったな。白のワンエティ、カッコイイなぁなんて思ったりして覚えてしまった。  そんなことをぼんやりと思い出していると、コツンと小石がぶつかったような音が寄りかかる窓越しに聞こえてくる。  最初は気のせいかと思ったけど、今度は確かな音でコンコン、とノックのように聞こえてきた。なんだろう、と気になり振り返ると……そこには先程まで俺の思考の中にいた彼がノックしたのであろう拳をゆるめると小さく手招きに変えて薄く笑った。  若干曇った窓越しでもわかる、――高宮さん、だ。そう認識するよりも早く、俺の足は目の前の喫茶店へと駆け出していた。 「1名様でしょうか?」  慌ただしげに店員が駆け寄ってくる。 「あ、えーと……」  待ち合わせ、でもないしなんと言えばいいのか……そう俺が言いよどんでいると店員のさらに向こうから一人の人影が少し声を張って手招きしてきた。 「柴田くん、こっちこっち」  俺と同時にそれに気づいた店員は、お冷をお持ちしますねとだけ言って小さく微笑むと見送る姿勢に入る。  そんな相手に小さく会釈すると、俺は彼の元へ足早に向かった。 *** 「高宮さん」 「偶然だね、まあ座ってよ」  そう言って高宮さんは視線で向かい合わせにある先を視線で示すと先程まで座っていた場所へ腰を下ろす。  彼の前には薄型のノートパソコンと丁寧に折りたたまれた黒縁の眼鏡。そして、そこから少し離れた場所には芳ばしい淹れたてのコーヒーの匂いを漂わせたソーに乗せられた白いカップ。  似合うなぁ、なんて何となく思いながら背負っていた茶色いリュックを椅子にかけまだ少し湿っているチェックのコートを折りたたみ隣の席へと寝かせるとようやく指定された席へ腰をおろした。 「なにか飲む?ここの珈琲と紅茶、美味しいよ」 「ミルクティーってあります?」 「あるある」  俺の問いに微笑んで頷くと、お冷を持ってきてくれた店員さんに慣れた様子で注文をしてくれた。  クラシカルな店内に、落ち着いたジャズのメロディー、そして香しい茶葉とほんのり甘い焼きたてのスポンジの香りがこの喫茶店の雰囲気をさらに高めている。 「いい匂い……ケーキ?」 「鼻がいいんだね。そう、ここはね焼きたてのシフォンがすごく美味しいんだ」  シフォン、という響きにぴくりと反応してしまう。甘いものが得意でない俺だけれど、実はシフォンケーキは……大好物だった。  どうやらそれが高宮さんには筒抜けだったようで、一口珈琲を口元へ運ぶと小さく笑う。 「ケーキ、好き?」 「ケーキ全般というより、シフォンケーキが好きなんです」 「へぇ」  それはいい事を聞いた、そう付け足すとテーブルの脇に立てかけられていた折りたたみのメニューをひとつ取り出すとそっと開き俺に差し出してくれた。 「これ、このシフォンケーキ。紅茶と、ココアと……俺的にはこのミルクシフォンがオススメ」 「ミルク……?」  ふと、顔に出たのかもしれない。高宮さんは俺を安心させるように笑みを重ねる。 「甘さは控えめ。ここのケーキは紅茶や珈琲と合うように、それぞれの良さを殺さないように作られているんだって」 「へぇー、凄いですね……! 職人技って感じ」 「うん、俺がここを気に入ってる理由の一つ……かな」  そういう高宮さんは、どこか嬉しそうで俺まで心が弾んでしまう。綻びそうな口元を必死にこらえて、俺はさらに言葉を続けた。 「なにか、嬉しいことでもありました?」 「ん?」 「なんだか、凄く楽しいそうっていうか」 「あぁ、うん。あったよ」  俺の問いに小さく頷く相手を見て「そうなんだ」なんてぼんやり考えていると、次の瞬間その思考は遮られる。 「君を見つけたからね」 「え……」 「ちょうどさっき休憩を入れ始めた所だったんだ。その時にさ、ほらこの前の……昼食に付き合ってもらった日……覚えてる?」 「は、はい」 「あの日のことをね、君のことを思い出してたんだ」  忘れるわけない。あの日から一週間弱は経った今でも……しきりに、思い出してしまうのだから。  小さく再生されるFMラジオ、窓の外を流れる景色、ほんのりと香るタバコの残り香……そして、いつもよりも至近距離にあった高宮さんの整った……けれど少し気怠げな横顔。  忘れられる筈なんて、なかった。 「……俺も、同じです」  一瞬目を丸くする高宮さんと視線を合わせるように顔を上げると、まっすぐ見つめる。  ちゃんと伝えないと、そう思ったんだ。 「俺も、同じ事……考えてたんです。さっき」 「本当に?」 「は、はい」 「そっか、じゃあ……少し自惚れようかな」  そう言って薄く笑う高宮さんはやっぱり綺麗でこれ以上見つめていたら俺の気持ち全部見透かされてしまうんじゃないかって思うのに、目をそらすことが出来ない。  自惚れる、ってなに……?自惚れそうなのは、いつだって俺の方なのに。  どういう意味なんだろう、と彼の言葉の真意を辿ってるうちにその道はまた高宮さんによって遮られてしまう。 「それじゃあさ、自惚れついでに君に頼みたいことがあるんですが」  突然の口調の変化にドキリと心臓がはねる。 面持ちは先程と違い真剣さを帯びていて、まさかバレた?なんてマイナスな思考ばかりが俺の脳を掠めた。  無言で俺が頷くと、高宮さんはまたいつものように優しく笑う。 「連絡先、交換してくれない?」 「え!?」  予想外の言葉に思わず声を張ってしまい、口元を両手で抑え込む。しかし高宮さんは、それをノーと受け取ったのか「やっぱり、そうだよな~」と苦い笑みを浮かべてうなだれるように頬杖をつく。 「ごめんごめん、流石にいきなりこれはないわ」 「え、や、あの……っ」  ――まって、まってくれ。  現実を受け入れきれてない俺をよそに、高宮さんがこの話題に終止符を打とうとするから思わず引き止めるように頬杖をついていない方の腕の袖をきゅっと握りしめてしまった。 「柴田くん?」 「違くて、そうじゃなくて、違うんです……!」  言葉足らずで否定の言葉を並べる俺を待つように、高宮さんは俺の手を振り払うこともなく黙って待っていてくれる。  言わなきゃ、このまま誤解されたりしたら俺こそ眠れなくなってしまう。堪らず、泣き出してしまう。それは、ダメだ。勝手すぎる。 ――だから、伝えないと。 「……驚いた、だけで……俺で良かったら……あの、連絡先、交換……して欲しい、です」  継ぎ接ぎするように、伝えたい言葉を途切れ途切れに零すと最後まで聞き終えた高宮さんは頬杖をついていた腕を下ろし袖を握りしめる腕をポンポンと撫でた。 「そっか、じゃあ交換しよう」 「でも、本当にいいんですか?」 「うん?」 「俺、ただの従業員だし……高宮さんのこと」  何も、知らない。そう続けようとした口元を、高宮さんはすっと腕を伸ばして手の甲で優しく塞いだ。 「俺が、もっと君のことを知りたい。それだけだよ、俺の行動理由なんて」  ハッキリと、だけど静かにそう微笑む高宮さんはやっぱりかっこよくて……眩しい。本当に、夢じゃないんだろうか。  結局。  その日は家へ帰宅した後も一日、そんなことばかり考えていた。  フラッシュバックから思考が戻ると、不意に鼓膜を撫でる雨音に気がついた。 「雨? 最近よく降るなあ、高宮さんと会った日も凄い雨だったし……」  今日はシフト時間まで絶対に出歩かないぞ、とスマートフォン片手にベッドに大の字に寝転がると突然聞きなれない着信音が鳴り響く。  なんだろう、と思い腕を持ち上げ仰向けの状態で画面を見るとそこには【高宮さん】と表示されていた。 「え……?! っ痛……!」  驚きのあまりスマートフォンは手元から滑り落ち俺の額へダイブする。それと同時に液晶が反応して着信をとってしまった。  うぅ、と俺が涙声を漏らしていると通話の挨拶の常套句の変わりに「大丈夫?」と小さく笑う高宮さんの声が聞こえてきた。 「す、すみません……どうしたんですか?」 「いやね、大したことじゃないんだけど」  ――君の声が聞きたくなって。  その甘い言葉に、ゆっくりと雨音が遠のいていくような錯覚を覚えた。  着信音、ちゃんと決めよう。  そう心に誓ったのはとある週末の昼の事だった。 「雨音コール」 完

ともだちにシェアしよう!