9 / 10
番外編「特別」
○番外編/特別
深夜2時を回る頃には、客足はもうほとんどないといっても過言ではない。普段は基本的に私語を慎むように勤めているけれど、こんな時はすこしだけ気が緩んでしまうのは許されたいなんて思ったり。
「えっ睡眠時間3時間…? 大丈夫なんですか? それ……」
こんな素っ頓狂な声を出してしまうのも、時間のせいにさせて欲しい。
俺が驚きのあまり声のボリュームを上げてそう言うと、目の前のお客様……高宮さんは小さく笑ってみせる。
「なにも毎日がそうってわけじゃないから」
「でも、それで1日中お仕事してるんですよね?」
まぁね。そう頷く高宮さんの目元はやっぱり眠たげで、初めて出会った時から気になっていた彼のこの目元の正体を初めて納得いく形で知ることができたような気がする。
心なしか、具材とスープだけになった表面を箸先でくるりとかき混ぜるその仕草さえどこか気怠げに感じて生まれつきの心配性がフル稼働する。
「食事とか、気をつけないとダメですよ」
例えば、ラーメンばっかり食べたりとか。若干悪戯を込めてそう言うと、高宮さんは面を食らったように眉尻を八の字に下げで苦い笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。話変わるんだけどさ」
「はい?」
不意の話題の提供に首をかしげると、右手に持っていた箸を器の上に水平に添えると腰は椅子にあずけたままこちらに向き直ってまっすぐに俺を捉える。
その動作に、ちょっとだけ……胸が高鳴ってしまう。
「俺のこと、苗字じゃなくて下の名前でもいいからね。ずっと言おうと思ってたんだけど」
「え?」
「俺がここまで外で人と喋るのって、結構珍しくてさ。きっとこれもなにかの縁かも知れないし、柴田くんさえよければ仲良くしてもらいたいなって」
ダメ?そう付け足して小首をかしげる高宮さんはやっぱりちょっと気怠げで、だけどなぜか目が離せない。
「……っれ、練習…しておきます……」
「あはは、練習すんの?」
柴田くんってやっぱ、おもしろいよね。そう言って綺麗にエクボを刻んで可笑しそうに笑う高宮さんにますます目が離せなくて、心なしか胸のあたりが熱を帯びて、落ち着かないような……そんな感覚に襲われる。
それでもおかまいなしに、高宮さんはといえばその綺麗な笑顔をこちらに向けるからいたたまれなくてふっとあからさますぎない程度に顔を、視線を足元へ傾けた。
「……あの」
「ん? なあに」
「名前、って言われて…思い出したんですけど」
ウソツキだ。本当はずっと考えていた。だけど、言い出すタイミングをいつも逃してはあきらめていただけ。
「名前? 柴田くん?」
「そう、じゃなくて……」
不思議そうにこちらを見つめてくる高宮さんをちらりと視線だけで確認すると、ぎゅっと後ろ手に自分の手首を握り締める。
静まれ、心臓。大丈夫。きっと、たいしたことじゃない。
「そうじゃなくて、俺の名前。柴田明(しばたあきら)って言うんです」
興味なかったら忘れて欲しい、そう添えて今更な自己紹介を俺が終えるとおもむろにゆるく頬杖をつくと高宮さんはふ、と目元を細めて薄く微笑んだ。
「それは、呼んでもいいってことかな?」
「――あ」
呼んでくれるんですか?――そんな言葉が唇からこぼれそうになるのを必死にこらえ喉奥へ押しやる。嬉しい、嬉しいけど……傲慢だと、思われただろうか。押し付けがましかっただろうか。
一抹の不安にかられながら、俺は若干俯いてはぼやくように言葉を紡ぐ。
「……俺だけ知っているのは、不公平かな、って……思って」
「はは、そっか」
嘘じゃない。でも、本当に伝えたいことはそんなことじゃないのに。どうしてこんなにも、最近の俺はから回ってばかりなんだろう。
元々、性格的にいえば遠まわしな言い方や言い訳は嫌いだった。されるのも、するのもひっくるめて。
それが、なんだ。高宮さんの前での俺はまさにその「嫌いなタイプ」そのもので。
こんな俺を知ったら、高宮さんは一体どう思うのだろう。幻滅、されるのかな。……否、そもそも幻滅するほどの存在認識ではないんじゃないだろうか。
考えれば考えるほどこんがらがって、からまって、抜け出せない。
でも俺は、そのワケをしっているから……自覚しているからまだなんとかここに立っていられる。
俺はおそらく、今目の前で18番と書かれたプレートのある席に座り頬杖をついている彼、高宮さんが……――好きなのだ。
こんなにもみっともない恋があっただろうか。めちゃくちゃだ。
「じゃあ、俺が呼びたいからありがたく君の言葉に甘えさせてもらおうかな」
そのほんの数秒のフレーズが、俺のこんがらがり絡まった思考を一刀する。
あまりに当然のように、自然に言うから。笑うから、夢なんじゃないかと思わず確かめるように顔を上げてしまった。
あぁ、きっと俺は今ひどい顔をしているんだろう。
高宮さんはまた一つ笑みを重ねると、頬杖をついていた手を緩めるとするりとこちらへ伸ばす。そして、彼のすらりと長く整った指先が制服の帽子越しに触れたかと思えば大きなその手のひらで二、三度俺の頭を軽く押し付けるように撫でてみせた。
「明」
初めて高宮さんに呼ばれたいやってほど聞き慣れたはずのその名前は、どこか甘酸っぱいような……優しくて暖かい、特別な響きを持っていた。
「……あ、ごめん。明、くん。だね」
「……いいです」
「え?」
「明で、いいです」
とぎれとぎれに俺がそう言うと、高宮さんは相変わらずの笑みを浮かべたままそっかと頷いてまたひとつ、俺の頭を撫でてくれた。
「番外編/特別」 完
ともだちにシェアしよう!