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第一章(①)

「すまないが、君。ちょっと助けてもらえないだろうか?」  サンドイッチを食べ終わる寸前、隣席の男がカトウに話しかけてきた。 「昼休みが終わるまでに、こいつを英訳して提出しなきゃならないんだ。でも、どうしても意味が分からない部分があってね。もし差支えなければ、教えてくれないか?」  東京、GHQ本部の置かれた旧第一生命ビル。六階にある食堂は昼食時、軍人と平服姿の民間人スタッフとでにぎわう。そこでは黒髪に切れ長の眼をした日系二世(ニセイ)の姿も珍しくない。  アメリカ陸軍に所属する二十二歳のジョージ・アキラ・カトウ軍曹も、その一人だった。  カトウは周囲の喧騒(けんそう)をよそに、この日も味気ないサンドイッチを生ぬるいコーヒーで、機械的に胃に流し込んでいた。連れはおらず一人である。その横のスツールに、くだんの男はコーヒーだけを持ってやって来た。  ちなみに、まったくの赤の他人だ。  話しかけられたカトウは、わずらわしげな目を向けた。男のコーヒーはほとんど飲まれないまま、すでに冷めかけている。カトウのとなりに座った直後から、鉛筆片手に広げた書類を、ずっとにらみ続けていたからだ。  一度か二度、「うーん」とうめく声が聞こえてきたが、カトウは今の今まで素知らぬ顔で食事を片づけていた。  男は一見してそれと分かる、アングロサクソン系の白人だった。地味な(とび)色の髪はあちこち跳ね、分厚いセルロイドの眼鏡と相まって、ひどく野暮(やぼ)ったく見える。年齢は三十歳くらいか。軍服の階級章に目にしたカトウは、そこで初めて「あれ?」と思った。  男の手元にある文章は、まぎれもなく日本語ーーつまり、この男は多少なりとも日本語が読める。日系二世(ニセイ)ならともかく、そういう貴重な技能を習得した白人は、たいてい中尉かそれ以上の階級章を帯びている。  しかし、男の袖口についている徽章は山型三本線――カトウと同じ三等軍曹のものだった。  不審に思ったカトウは、男にうさんくさげな視線を向けた。 「ああ、分かっているよ」  男はカトウの顔つきの意味を取り違えたようだった。 「食事を邪魔して、本当に悪いと思うよ。でも、お手上げ状態でね。助けてもらえたら、うれしいんだが…」  心底、困り果てているように見えた。  観察していたカトウは、途中でばかばかしくなって止めた。  ここは占領下の日本である。ドイツ兵のうろつくイタリアやフランスではない。擬装投降を疑って、神経質になる必要はどこにもないはずだった。  ため息をつき、カトウはサンドイッチを自分の皿にもどした。 「見せてくれ」  そのひと言で、おどおどしていた男の顔にぱっと喜色(きしょく)が広がった。  手渡された紙に、カトウはすばやく目を通した。 「……(およ)そ敵地に潜入せんとすれば、先ず言語に習熟すべし。仮に英国(イギリス)人と称する者ありて、独逸(ドイツ)語のみ口にせば、必ずや当地官憲に疑われん。あたかも馬の群れにある騾馬(らば)の如し。尚ほ述語、隠語を会得し精通せば、(すこぶ)る利する所あらん……」  なるほど。文語に近い表現が混じっていて一見、難解だ。だが二歳から十四歳までを日本で過ごし、またアメリカの陸軍語学学校で日本語を再教育されたカトウにとって、意味を取るのはさほど難しいことではない。  問題はむしろ、英語にそれを訳す方だ。  男を協力させること三十分。どうにか読める水準の英語に、翻訳することができた。  手元の紙にそれを書きつけ終える頃、昼休みはほとんど終わりかけていた。 「本当に助かったよ。ありがとう」  ニコニコ顔で言う男に、カトウはおざなりにうなずいた。さっさと昼食を片づけたい。けれどもサンドイッチをつかむ寸前、その前に大きな手がにゅっと突きだされた。 「ぼくはダニエル・クリアウォーター。参謀第二部(G2)で働いている」  カトウは数秒待ったが、握手をするまで男は皿の上から手をどける気はないようだった。  しぶしぶ、右手を差し出す。  握り返してきた手は暖かく、乾いていて、そして少々痛いくらいに力強かった。  書類をかばんにつめ、男――クリアウォーターは、座っていたスツールから立ち上がった。猫背のせいで気づかなかったが、立つと身長は六フィート(約百八十二㌢)近くある。それに肩幅も広い。 ――堂々としていれば十分に見栄(みば)えするだろうに、もったいない。  そう思った自分に、カトウは軽くいらだちを覚えた。これきり会うことのない男だ。何を気にすることがある?   その時だ。クリアウォーターがカトウに向かって、不意に唇をつり上げた。  それは今までの印象を根こそぎ(くつがえ)す笑みだった。  優雅で不敵で、どこかふてぶてしささえ感じられるーーまさに、気弱さとは対極にある笑い方だった。 「これ、一切れもらっていくね」  まるでそうするのが当然、という仕草でクリアウォーターが皿のサンドイッチをつまむ。  そしてカトウの見ている前で、二口で食べてしまった。 「それじゃあ。また近い内に」  日本語でそう告げた男は、呆気に取られるカトウを残して、食堂から出て行った。

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