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第一章(②)

――その一週間後。  皇居前の舗装されていない砂利道を、一台のウィリス・ジープがのんびり走っていく。  その助手席に、ジョージ・アキラ・カトウ軍曹はいた。流れていく景色を、見るともなく眺めている。焼野原の灰色の中で、木々の緑だけが変わらない。あと一週間もすれば桜も咲きはじめるだろう。  不意に、昔おぼえた漢詩の一句が、頭に浮かんだ。 「『国破れて山河あり、城春にして草木深し』か…」 「杜甫(とほ)だな」  運転席でハンドルを握る男が答えた。年齢はカトウより五、六歳ほど上か。  一見して日系二世(ニセイ)と分かる青年は、先ほど挨拶した時、「リチャード・ヒロユキ・アイダ。階級は准尉(じゅんい)だ」と自己紹介した。  アイダは前方を見つめたまま聞いてきた。 「お前、帰米(キベイ)か?」 「…ええ」  カトウは失礼にならない最低限度の返事をした。  帰米とは、アメリカで生まれた後、人生の一時期を両親の母国である日本で過ごし、再びアメリカに戻った日系二世のことである。アイダの言う通り、カトウは帰米だ。それもアメリカにいた時間より、日本で暮らした時間の方が長い。日本に十二年。アメリカに十年。残り一年は、兵士としてヨーロッパで軍役についていた。 「俺も帰米だ」  アイダはそう言って、皮肉っぽい笑みを浮かべる。 「お仲間が増えて、うれしいよ」  その言葉に、カトウはアイダをちらりと見ただけで何も言わなかった。  カトウの記憶が正しければ、先ほどの漢詩は、戦争の惨禍(さんか)をうたっていたはずだ。まさに、今の日本そのものだ。自然は変わらずめぐって来るが、国は破壊し尽くされ、人々はすっかり変わってしまった。  日本はもはや、カトウが少年時代を過ごした頃とは、全く異なる国になっていた。  焼け野原に建っているのは、廃材を集めて作られたバラック小屋。痩せて鼻水を垂らした子どもたちは、アメリカ兵を見かけると、十人、二十人かで駆け寄って、口々にチョコレートやガムをねだる。大人たちはその光景に眉をしかめながらも、何も言うことができない。  終戦からまもなく一年半が経とうというのに、とにかく食べる物が圧倒的に不足していた。法律を墨守(ぼくしゅ)し、滞りがちな配給だけに頼っていては餓死してしまう。自分たちで、どうにか今日食べる物を確保するしかない。休みの日ともなれば、着物や家財を風呂敷に包んで、人ですし詰めの電車に何時間も揺られ、田舎の農家に食料の買い出しに出かける。  わざわざそのために、勤め先に休みを願い出ることさえ珍しくなかった。  大半の人間は、自分と家族が生きることで精一杯だ。それでも、さらに厳しい生活を送る者は事欠かない。都内の上野などは、親を失った戦災孤児たちと、戦争で手足を失った傷痍(しょうい)軍人のたまり場だ。  昨年の冬には、毎日のようにそこから凍え死んだ死体が運び出されたという。    もがきながらも、立ち直る見通しの立たない、みじめな敗戦国。    それが、八年ぶりに戻って来た日本の姿だった。  さまざまな偶然が重なって、カトウ自身はその中からはじかれた。そして今、敗者ではなく勝者の――アメリカの軍人として、灰緑色のジープに揺られている。 「――カトウ?」  アイダに呼ばれ、カトウは我に返った。ジープはいつの間にか赤坂、新宿を抜けて、緑が濃く残る郊外を走っていた。 「東京の西のはずれ、荻窪(おぎくぼ)あたりだ」とアイダが教える。 「もうすぐ到着だ」  その言葉通り、まもなく木々の間に三階建ての大きな洋館が姿を現した。  カトウが通されたのは、その一階にある応接室だった。  床はワックスがけされ、白い漆喰壁と焦げ茶色の木の柱が美しい対比を見せている。高い天井には、まばゆいシャンデリア。ここが日本であることを忘れそうな光景だ。 「――本日から日米戦史共同編纂準備室で働くに当たり、守ってもらいたい事項を今から説明する」  その声で、カトウはシャンデリアから、眼前の人物に注意をもどした。鋭角的な目鼻立ちに、黒に近いダークブラウンの髪と瞳をした男。今年二十八歳になるスティーヴ・サンダース中尉は、神経質そうに銀ぶち眼鏡の角度を変えると、手元のメモを読み上げた。 「ひとつ。アメリカ陸軍の軍人として、法を遵守(じゅんしゅ)し、常にその身分に恥じぬ言動を心がけること」 「…イエス・サー」カトウは一拍遅れて返事をした。 「ひとつ。今後、この建物内及び職務中に見聞きしたことを、許可なく外部の人間に口外することを禁じる」 「イエス・サー」  今度はすぐに返事をした。民生局(GS)から転属する時、注意されていたことだ。  新たに配属される部署は、太平洋戦争の戦史編纂のために、日米の資料を収集、管理する目的で、今年になって設置されたーー。それが表向きの顔に過ぎないことを、カトウはすでに知っている。  その時、サンダースがメモから顔を上げた。苦々しい表情を見て、何かしくじったかとカトウは少し身構える。  銀縁眼鏡の青年尉官は、罰ゲームで下品なことを言わされる新兵のように、早口でまくしたてた。 「ひとつ。我々のボスである少佐の性的嗜好について、みだりに口外しないこと。彼は同性愛者(ホモセクシャル)だ」 「イエ……はい?」 思わず、日本語で聞き返してしまった。 「同性愛者(ホモセクシャル)」  サンダースは繰り返し、カトウを軽くにらんだ。 「君の持つ辞書にこの言葉が載っていないのなら。要は、男とセックスする男だ。分かったか?」 「……分かりました」  元より知っていたが。  サンダースは軽く息をついた。 「もうひとつ。少佐の性的嗜好について、君の倫理観及び道徳観念に反するというのなら、この場で申し出てくれ。速やかに転属を手配する」 「いえ、それには及びません」  答えながら、カトウは心の中で繰り返した。  同性愛者――世間では白眼視され、たいがい野卑な軽蔑か嫌悪で迎えられる。  とりわけ、アメリカでは。そして特に軍隊という組織では。  それを限られた相手とはいえ、オープンにするのは相当に度胸があると言えた。  サンダースは、この話題を早々と切り上げたいらしく、さらに口調を早めた。 「ボスは遺憾ながら、禁欲的ならざる同性愛者だ。だが、彼には彼なりのルールがある」 「ルール?」 「万一、誘いをかけられても、応じる気がなければきっぱり断るように。たとえ彼を袖にしても、それが原因で左遷されたり、不利益を被ることはない。私が保障する」 「分かりました」そう答えた後で、カトウはふと思いついたことを口にした。 「ひょっとして、口説かれた経験がおありで?」  返事のかわりに、思い切りにらまれた。 「………一度きりだ」  サンダースは嫌々、認めた。 「もちろん、その場できっぱり断った。だが彼はいまだに、私を副官として手元に置いている。そういう点では、フェアな人間だ」  ついてくるように、と言われたカトウは、サンダースとともに応接室を出た。    

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