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第一章(③)

 カトウがサンダースに続いて、無人の廊下を数歩、進んだ時である。  急にドアのひとつが開いて、人影が飛び出してきた。 「無茶言うなや。ミィは仕事で忙しいんじゃ! 絵のモデルなら、ほかを探せ!」  キレのいい独特の英語で、出てきた男が叫んだ。浅黒い肌に、ギョロリとしたどんぐり眼。日系二世だ。まだ若く、カトウとさほど変わらぬ歳かと思われた。男はサンダースの姿を認めると、慌てて敬礼して、二階へ続く階段を、一段飛ばしで駆けあがって行った。  彼が階上に消えたあと、ドアの後ろから声が上がった。 「あーあ。逃げられちゃった」  それはまるで子どもがようなすねた口調だった。出てきたのは、これまた若い男だ。黒い巻き毛で、長いまつげが夢見るような大きな茶色の目を覆っている。甘く柔らかい顔立ちは、イタリア系かと思われた。  だが、男がくるりと振り返った時、カトウはギョッと立ちすくんだ。左目と眉、それに耳の一部がえぐりとったように失われ、斑状のケロイドで覆われていたからだ。顔の右半面が人並み以上である分、左半面の無残さはいっそう際立った。  それでも、男はカトウを目にすると無傷の顔の右側をぱっと輝かせた。 「あー、日系二世(ニセイ)の人だ。ねえ、君。絵のモデルになってよ」  とっさに反応できないカトウに、男は人懐っこい柴犬のように近よってきた。 「ほら、いいでしょ。お礼にチョコレートバー、あげるからさ」  ひとつしかない目をくるりとさせ、にこにこ笑う。  その申し出を制したのは、サンダース中尉だった。 「トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長」 「はあい。何ですか、スティーヴ・アートレーヤ・サンダース中尉?」 「悪いが、この男は今日これから少佐の所に挨拶に行く。その後は、翻訳業務室に直行する予定だ。貴官のモデルにはなれない」 「えー。そんなあ」 「少佐からもらった日本人の写真が、まだたくさんあったろう。それを模写して、腕をみがいたらどうだ?」 「うー。でも、もう模写は飽きてきた。実物がやっぱり一番だよ…」  ぶつぶつ言いながらも、フェルミは壁際に寄り、サンダースとカトウを通してくれた。 「あ、そうだ。ダンの所に行くなら、もっと日系二世の人を連れて来てって、伝えといて」  カトウが肩ごしに振り返ると、気づいたフェルミがにへっと笑い、ぱたぱたと手を振った。 「それか、日本人がぼくを見ても逃げ出さないようにって、お願いしといて!」  階段を上がりながら、サンダースが事情を説明してくれた。 「あのフェルミ伍長は、戦争中に負った怪我が原因でああなってしまった」  生真面目な口ぶりに、かすかだが憐憫の色がにじむ。 「それでも命があった分、まだ幸運だった。フェルミの属した分隊は、日本軍が撃ちこんだ迫撃砲弾が直撃し、一瞬で全滅したそうだ――彼以外、全員ね」 「…気の毒に」  カトウもさすがに、何も感じないわけにいかなかった。 「でも、退役しなかったんですか?」 「本人が嫌がった。それに、あの状態では社会復帰自体が難しい上、彼は身よりのいない孤児だ。残りの一生を病院で無為に過ごすよりは、とボスが面倒を見ることを条件に、ここに引き取ったんだ」  フェルミのほとんど唯一の才能は、絵を描くことだと、サンダースは教えてくれた。 「フェルミ伍長に追いかけられていた方は、マックス・カジロー・ササキ軍曹。君と同じく日系二世で、生まれは…」 「ハワイ準州?」 「その通り」  ハワイ出身の日系二世は「ブダヘッド」と呼ばれ、一見して雰囲気からそれと分かる。ついでに口を開くと、もっとよく分かる。彼らはたいてい、アメリカ本土(メイン・ランド)と異なる独特のハワイ英語か、さもなくば広島弁に近い日本語を話すからだ。自分を「I(アイ)」ではなく「Me(ミィ)」と呼ぶのも、ハワイ出身者に時々、見られる特徴である。  どうにも一緒に仕事をする連中は、一筋縄でいかぬ者に事欠かないようだった。  上司は同性愛者。同僚は、身体と精神に負った傷が原因で幼児がえりしてしまった男。ジープでカトウをここまで運んできたアイダも、右足を少し引きずっていた。詳しい話は聞かなかったが、十中八九、戦闘中に負った傷だろう。  アイダやフェルミのたどった運命は、カトウにとっても決して他人事ではない。それどころか、カトウが戦中に属した連隊は、陸軍屈指の死傷率の高さから「パープル・ハート部隊(パープル・ハートは、名誉の戦死傷に対して与えられる勲章)」の異名で知られたほどだ。  カトウが激戦地からたいした怪我も負わずに生還したのは、本当に運以外のなにものでもない。  カトウ本人が必ずしも、それを望んでいなかったとしても。  階段の踊り場に飾られた鏡が一瞬、カトウの姿を映し出す。五フィート二インチ(約一五八㌢)の小さく、痩せて貧相な身体つきの男が、感情のない眼で見返してきた。 ――ボスは同性愛者だとさ。でも、関係ないだろう?  鏡に映る男にカトウは吐き捨てる。自分と同じ性癖の人間に出くわすのは確かに珍しい。でも、それだけだ。  階段を上がり続け、ようやく三階建ての建物の最上階に来た。サンダースは廊下を進み、一番奥にある扉の前で立ち止まった。どうやら、目的地に到着したようだ。  サンダースがノックをすると、中から「入れ」と声が上がった。  カトウはその声を聞いて、「あれ?」と思った。  低く落ち着いたその声を、どこかで聞いたことがある気がした。それもつい最近に。  ドアを開けたサンダースに続いて、カトウは室内に入った。  そこはほどよい広さで、一階の応接室と同様、いかにも居心地のよさそうな部屋だった。書類と文具の置かれたマホガニーの机。その後ろには赤白青の星条旗。鍵つきのガラス戸のキャビネットには、整然と収められたファイル。南向きの窓から、木洩れ陽が柔らかに差し込んでいる。  その陽光の中に、部屋の主である男は立っていた。  最初にカトウの目を引いたのは、髪の色だった。男の髪は、まるで夏の夕焼け空のような、見事な色の赤毛であった。映画俳優のような端正な顔立ちの中で、口だけがやや大きい。しかし、それがかえって不思議な愛嬌を与えている。身長はサンダースよりわずかに高く、六フィートに近い。カトウは思った。もしも動物にたとえるなら、間違いなくライオンだろう。  これほど優美で、愛嬌まで兼ね備えたライオンがいればの話だが。  近づくと、男の眼が緑色であるのも分かった。  目が合って、カトウの記憶が一層つよく刺激された。  間違いない。この男には前にどこかで会っている。  しかし、どこで?――これほど目立つ容姿なら、一度会えばまず忘れることはなさそうだが……。  その時、男が可笑しそうに唇をつり上げ、右手を机の上に伸ばした。  取り上げたセルロイドの眼鏡を目にし、カトウは「あっ」と思い当った。 「一週間ぶりだね。ジョージ・アキラ・カトウ軍曹」  サンダースとカトウの敬礼に、赤毛の男は返礼した。 「改めて。今日から君の上司になる、ダニエル・クリアウォーター少佐だ。ようこそ、日米共同戦史編纂準備室――」  耳に心地よい声で、クリアウォーターは言った。 「通称『U機関(ユニット・ユー)』へ。歓迎するよ」  

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