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第1話

 ダメだ。ここを開けたらダメなのだ。  開けてしまっていいはずがない。用件など電話やメールで事足りるのだ。  来てはいけない、そう思っているはずなのに、どうして私はここにいる?  どうして私はドアノブを握りしめている? 「……時間ぴったり。さすがは木崎常務ですね」  ドアを開けたタイミングでゆったりと振り返った男は、私が統括している部署で将来有望株と噂の高い桐野という青年。  私自身、目をかけてやっていて、プロジェクトのチームメンバーに推奨したり、時々昼食や飲みに連れて行ったこともある。  後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた私を、桐野は不遜な態度でニヤリと笑った。私が睨みつけても、その嫌な笑みを消そうともしない。  私よりも一回りも体格のよい彼の前に立つと、妙な圧迫感が生じるのを禁じ得ない。  そう感じてしまうのは、今の私と彼の立場が常務と平社員という表向きの関係と違うからきたものだからだろうか? 私にはわからない。  だが、今日こそ言わなければならない。  私の意志は固まっている。怯んでいてはいけない。 「もう、これきりにしてくれたまえ。桐野君」  声を抑え、出来るだけ平常通りの口調で用件を伝えた。  形の整った桐野の眉がゆっくりと上がる。驚きを表しているつもりなのだろうが、私にとっては小馬鹿にされている気がしてならない。 「これきりとは、どういう意味でしょうか? 常務」 「このようにして、私を呼び出したりするのはやめてほしい。今日はそれだけを言うために来た」  目を逸らさず、真っ直ぐに桐野を見つめる。  びくつくな。脅えるな。自分の意志が固いことを視線に込めるのだ。  桐野はそんな私を斜めに見下ろし、胡乱気な眼差しをよこす。 「ずいぶん、強気な態度ですねえ。──もしかして、あの女と別れました? いったい幾ら渡したんです? 金に汚い女だから、百万や二百万のはした金じゃすんなり別れてくれなかったでしょう?」  桐野の声音と言葉には、あからさまな嘲りと蔑みと揶揄が毒のように含まれていたが、私は唇を噛みしめてそれに耐えた。  事の発端は、3ヶ月前。  私には、妻の他に互いに遊びと割り切って付き合っている女がいた。少し金遣いが荒いのが難だったが、器量もよく、私と逢っている時はこちらをたてて優先してくれていたので、付かず離れず続いていた。  だが、運の悪いことに、その女に買い与えたマンションの隣の住人が桐野だった。女の部屋からまさに出ようとしたところに、偶然出くわしてしまった。  会社の、それも自分と直接関わりのある部下に見つかってしまっただけでは、動揺はしない。  多少の厚顔さを持ち合わせているから、出世をちらつかせて見なかったふりを強要することができる。  しかし、桐野という男はただの平社員ではなかった。  副社長の──つまりは私の妻の実家の――親戚だったのだ。  今の地位は、副社長の娘である妻と結婚した事によるのが大きい私にとって、妻の次に最悪な人物に不倫現場を目撃されたというわけだ。  そんな男に、自分の立場を利用して口止めする事はできない。しかし、これが彼の口から妻の耳に入るのは、私の身の破滅だ。  私は、ただただ至極単純に頼み込んだ。妻や、会社の連中──特に副社長には黙っていてくれと。その代わり、君の要求に応えられるよう善処する、と。 「何でも応えてくれるんですか?」  私の卑屈な懇願に、桐野は静かな口調で問いかけてきた。  私が出来る限りなら、と頷いたら、桐野はすっと目を細めて、私に近づいてきた。  そして、私の頬を撫でるようにして触れると、ネクタイを指で解いた。シュルッという衣擦れの音。近づく吐息。唇に熱いと感じる感触。  ──それから、桐野と私の関係は「脅す者と脅される者」になったのだ。 ■□■ 「──どうなんですか? 木崎常務」  私の顎をつかみ、互いの目線を桐野は無理やり合わせてくる。 「俺の質問に答えてないですよ。貴方がそんなことを言う理由は?」 「君の言う通りだ。女とは別れた。私の身辺で君に脅される事象が無くなった──それだけだ」  私は言葉を吐き捨て、顎から手を外そうとしたが、さらに強い力で桐野は私を拘束する。頬にくい込む指が痛くて、熱い。 「離して……くれないか。桐野君」 「考えの甘い方だ。そんなことで、俺が貴方を解放すると思ったんですか?」  酷薄な笑み。だが、そんな笑顔ですら見惚れるほどに整っている男。その顔がだんだんと近づいてきた。 「正直に言ってください」  唇を親指でなぞりながら、吐息だけで紡ぐ声に無意識に躯が戦慄く。 「な……にを……?」  問いかけに口を開けば、さらに侵入して歯列を舌を不埒に撫でていく。無遠慮な指の感触に、私は拳に爪をたてて耐える。 「女と別れたのは、俺にもう脅されたくないから……ではないでしょう?」  指が口腔から抜けたと同時に、ねっとりと重なった桐野の唇。親指とは違う熱と感触が傍若無人に犯していく。 「……んっ……ふぅ……」 「俺から離れて、困るのは貴方の躯じゃないんですか? 木崎常務」  さんざん口腔を弄ばれて仕上げに下唇をきつく吸われ、頭の中がぼんやりとしてくる。  非常に屈辱だが、桐野のキスは官能的で巧みだ。理性を保つのが馬鹿馬鹿しくなっていくほどに。  いつの間にか腰に回されていた左手がじわじわと下へ滑り降りていく。スラックス越しに狭間の──桐野にそうされるまでは気づかなかった──悦楽を産み出す場所を擦られて、躯が嫌悪ではない震えに支配される。 「……っく」 「女を抱くことができなくて、愛想つかされて別れたんでしょう? 違いますか? まあ、女なんかを抱けなくなるように、俺がしたんですからね」 「ちが……っあ!」  布越しに後ろの狭間を指で擦られ、足の間に割入れられた桐野の膝で前を擦られる。気がついたら、顎を掴む手はとっくにはずされていて、代わりに力が抜けかけた私の背中をたくましい腕と共に支えて、やらしい手つきで撫で回していた。 「俺の膝だけでここをこんなに硬くしておきながら、違うなんて言っても説得力ないですね」 「やめ……たまえ……っあ……」 「やめる? 今やめたら、つらいのは貴方でしょう?」

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