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上
温度差で風邪を引く。秀逸な比喩だよなあ、とオレは呟く。うっかり飲み込んでしまった毒を吐き出すように。独り言は無機質なコンクリートに吸い込まれていった。ため息混じりにオレは便座の蓋の上に腰掛ける。丁度視線の先に、誰かの電話番号が落書きされていた。無機質なコンクリートの壁とインクが剥げた木製のパーティション。そして辺りに漂うアンモニア臭。溜息をつくにはぴったりの息苦しい場所だ。
オレは数ヶ月前から風邪を拗らせている。治る気配は一向にない。酷くなる一方だった。理想と現実のギャップに耐えられなかったのだ。
ポケットからライターを取り出す。人さし指に力を込めればそこに小さな炎が灯される。この道具があればいつでも火を眺められる。
オレは先程から握りしめていた拳を開いた。掌中には握力によって歪になった小箱がある。手のひらは薄っすらと汗ばんでおり、冷たくなっていた。心臓が大きな音を立てて血液を張り巡らせているのに、指先だけは死体のように冷えている。
オレは箱を包むフィルムを破った。パッケージに書かれた警告から目を逸らしながら。
肺がんの原因の一つになります。
未成年は禁止されています。
最悪死にます、と忠告されてもやめる気は無かった。箱を開ける。そこには発癌性物質で作られた筒が、規則正しく詰められている。その一つを抜き取って、口に咥えた。ライターの火を付けるために、もう一度指に力を込める。たったそれだけのことなのに、何度も繰り返した。手が痙攣したように震え、強張っているせいで上手くいかない。
オレは苦労して灯した火をタバコに近づけた。ジリと音を立てて燃えた先端部から白い煙が天井へ立ち上る。その後、嗅ぎ慣れない臭いが鼻腔を刺激する。
いつも通り息を吸って、吐けばいい。ただの呼吸だ。そう自分に言い聞かせて煙を吸った。
しかしその直後、オレは息もつけないほど咳をする羽目になった。身体が紫煙を拒絶したのだ。噎せながら唾と煙を吐き出す。目尻に涙が浮かんだ。なぜオレは今、汚いトイレの個室で、惨めったらしく咳き込んでいるのだろう、と。
先っぽが少し焦げただけのタバコを便器に投げ捨てた。箱はポケットに押し込む。換気扇に最も近い個室だから臭いは残っていないはずだ。ほぼ未使用のタバコを流してしまえば証拠は一つも残らない。
ドアを開けると同時に、聞き慣れた鐘の音がスピーカーから流れた。授業の終わりを告げるチャイムだった。
♢
全身の血の気が引いた。周りに誰もいないと思っていたのに、水を流す音が聞こえたのだ。恐る恐る個室から出ると、洗面台の前に男が一人立っているのが見える、彼もオレに気付いたのか、口にハンカチを咥えたままこちらを振り向く。
一度も染めたことのなさそうな黒髪と同色の眼鏡、そして首元までキチンと結ばれたネクタイ。一目で彼が真面目な男だと分かるような出で立ちだ。オレは心の中で舌打ちをした。一番遭遇したくないタイプの人種だ。他人の非行を許さない人間。
オレはポケットの中に押し込んだタバコの箱を握りしめた。臭いは漏れていない筈だ。
「……何?」
彼は怪訝そうな表情で尋ねる。まさか話しかけられると思わなかったオレはえっ、と間抜けな声を漏らした。
「いつまでそこに立ってんだよ。僕に何か用でもあるのか」
「な、なんでもない」
箱の中でタバコが数本折れた感触がした。
オレは汚れてもない手を洗うために洗面台の前に立つ。その時、背後に立つ彼と鏡の中で目が合った。早く何処かへ行ってくれ、とオレは懇願したくなる。これ以上隠し事を押し通せる自信は無かった。
「どうかしたの?」
今度は逆に、オレから質問した。その時、レンズの向こうにある彼の目が光ったような気がした。
「いや、勝手に思ってただけだ。内緒事は持たない方がいいってな」
彼はそれだけ言うと、便所から出て行った。その後、再びスピーカーから鐘の音がした。隣から椅子をガタガタと引く音が聞こえた。
♢
教室の入り口の前で立ち止まった。耳を塞ぎたくなるような喧噪が扉越しに聞こえる。小窓から教室を覗くと、乱雑に並べられた机や椅子が見えた。もう授業は始まっている筈なのに誰も座っていない。各々好き勝手に喋ったり、携帯電話を弄っている。遅刻したオレがドアを開けても誰も注目しない。黒板の前にいる教師は案山子のように突っ立って教科書に目を落としている。口を小さく開いてボソボソと文章を読み上げていた。誰も聞いていないし、聞かせる気もない授業。目の前に広がる当たり前の日常風景。
オレは椅子に座ると頬杖をついて辺りを見回した。こうする度にいつも「動物園の檻内の方が上品だろうな」と思う。授業中に騒ぐクラスメイトは理性を持ち合わせているとは思えない。ただ一人を除いては。
最前列に座る男子生徒はノートと教科書を開き、労働意欲を失った教師の話を聞き取ろうと懸命に耳を傾けている。この授業中に彼の努力が実ることはないだろう。教師の声よりもクラスメイトのお喋りの方が耳に届きやすいのだから。
彼はノートから顔を上げ、少しズレた眼鏡を指先で直した。恐らく、先程トイレでオレを見つめたような鋭い目つきで黒板を見ているのだろう。彼が真面目に授業を受けている様子をオレはいつまでも観察していた。
彼はこのクラスで最も真面目で賢い生徒だと思う。いや、この学校内で一番かもしれない。そう思えてしまうほど、この高校は荒れていた。校則なんて殆ど機能していないし、部活に勤しむ生徒も少数だ。進学率・就職率もこの辺で一番低い。勉強するには最低の環境だ。彼のような人間がいるような場所ではない。きっと、オレと同じような理由で此処に身を落としているのだろう。そう思うと、名前も把握していないような関係だというのに、彼に同情した。
♢
「八沢〜っ!今日は逃がさねえぞ」
歩いていたら、突然後ろから両肩を掴まれた。オレは肩に衝撃を感じながら、顔をしかめて振り向いた。そこには満面の笑みを浮かべた伊藤が立っていた。今日も短い髪を整髪料で立たせている。ハリネズミのような頭を見下ろすような形でオレは溜息をついた。
「もう、勘弁してよ。あと声デカイ」
「そんなことねーだろ!ってか話逸らすな!」
耳がキン、と痛む。伊藤の声に驚いたのか廊下を歩いていた数人が振り向いた。思わず頰が熱くなる。オレは廊下の端に移動した。伊藤も後に続く。
「お前、部活サボるの何日目だよ!?八沢がいなきゃ次の練習試合勝てないんだけど!」
「オレが最後に行ったの月曜だろ。まだ三日も経ってないのに大袈裟だよ」
「そんなことねえよ!バスケなんて一日サボったら感覚鈍るんだぞ。よくお前がそう言ってたじゃねえか」
うっ、と声を漏らした。反論する隙がないほど彼の指摘は鋭い。確かにオレは以前、彼にそんなアドバイスをした。
「…あーもう、分かったよ。オレの負けだ。今日の放課後はちゃんと行くよ」
「よっしゃ、言ったな?二言はねえぞ!じゃ、後でな」
伊藤はそう言い放つと、ドタバタと足音を立てて走っていった。廊下の彼方へ消えた彼を見送ると、オレは自分の教室に戻った。
自分の椅子に座るために歩いていると、上靴に何かが当たった。それはオレの爪先にぶつかった後、床の上を跳ねた。オレはそれを指先で摘む。丸くなった消しゴムだった。紙製カバーには黒いペンで「岐田」と書かれていた。小さいが、丁寧でメリハリのある文字。書いた人物が止め跳ね払いを面倒臭がっていないからだろうか。
オレは手の平の上にそれを乗せ、辺りを見回した。何もないところから出現するはずがない。きっと誰かが落としたんだ。しかし今は昼休憩。そんな時間に文房具を使うような人はこの教室には一人しかいない。
「これ、君のだよね?」
オレはノートに何か書いている彼に話しかけた。その作業に夢中になっていたのか、彼は一拍おいてオレを見上げた。メガネのレンズが反射しているせいで瞳は見えない。
「これ…岐田の消しゴム?あそこに落ちてたよ」
読み方は合っていただろうか。まだクラスメイト全員の顔と名前が一致していないので人の名前を呼ぶたびに変な汗が出る。しかしそんな心配は杞憂だったようで、岐田は首を縦に振った。
「ああ、ありがと」
そう言うと、彼はオレの手から消しゴムを受け取った。一瞬触れた指は、春の空気とはかけ離れた温度だった。
彼の席から離れようとした時、ノートのページが視界に入った。見慣れない罫線が印刷されていた。「それ、何なの?」と尋ねられるほどの関係ではなかったのと、先程便所で起こった出来事があったので、オレは湧いた疑問を飲み込み、その場を後にした。
♢
誰にも迷惑をかけずに自分が屑だということを自覚したい。取り返しがつかなくなるくらい嫌いになりたい。自分自身に期待したくない。そのために、どんな方法があるか考える。盗み、落書き、喧嘩…思いついたものはどれも他人を巻き込んでしまう。
オレはトイレの床の上でしゃがみ込んでいた。掃除後の床はまだ乾いておらず、所々水溜りができている。小さな窓から橙色の光が射し込んでいた。遠くの方からカラスの鳴き声がする。外の廊下は不気味なほど静かだった。周囲に人がいないことを確認するとオレはポケットに手を入れ、タバコを取り出した。
あれこれ考えた結果、オレは自分自身を嫌いになるための方法に喫煙を選んだ。ルールを守れないような人間になるために。あと少し我慢すればいくらでも吸えるのに、わざわざ学校の便所で吸うのだ。この行為が発見されれば面倒くさいことになる。良くて厳重注意、悪くて停学だ。きっとスタメンからは外されるだろう。そんなリスクを背負ってまで吸いたいと思えるほど、喫煙という行為に執着していなかったのにもかかわらず、オレは口にタバコを咥えている。
気付くと、タバコは口の中で潰れていた。ライターを握る力は必要以上に強い。先程起こった出来事を思い返したせいだ。脳を掻き毟りたくなるような欲求を抑えるようにしてオレは親指に力を入れた。
たかが部活だ。頭ではそう分かっているのに、体は言うことを聞いてくれない。もういいだろ、忘れちゃえよ。そう自分に言い聞かせているのに、昨日の練習試合が頭から離れてくれない。
ああ、また始まった。
♢
バスケにミスは付き物だ。
パス、ドリブル、シュート。普段当たり前のようにやれた事が、調子が悪いと出来なくなる。目の前の常識が一変する。
コンディションが安定することなんて現実的じゃない。ジェットコースターのように上下する。
そんなこと当たり前だ、分かってるよ。そんな軽口を叩きながら何年も過ごしてきた。
今更挫折するわけない。これくらいの不調、何度も乗り越えてきたから。大丈夫。
そう思い込んでいた。
先日行われた練習試合。相手はこの辺で有名な曽根高校だった。校風は文武両道、自律性を尊重、社会貢献。分かり易すぎるくらいの「名門校」だ。
雲泥の差がある二校が練習試合をするとなれば、いつもよりギャラリーが多いのにも納得いく。
「バカで弱い高校なりに傷跡残していこうぜ」という雰囲気がチーム内で漂う中、オレは隅っこで俯いていた。
試合開始のホイッスルが鳴ってからのことは思い出したくない。
オレは開発初期のロボットのようなぎこちない動きでコート内を駆け回っていた。
パスをすれば見当違いの方向へ、ドリブルをするとボールが足に当たるし、精一杯打ったシュートはコートをかすりもしない。
「お前がいないと勝てないよ」そんな風に扱われていた人間だとは思えないプレーにチームメイトは戸惑う。そんな空気で士気が上がるわけがない。相手は全国大会出場するレベルの実力を持つ強豪チーム。あっという間に流れを取られ、オレたちは惨敗した。
「まあ、落ち込むなよ。調子悪かったんだろ?相手強かったし!そんな日もあるぜ」
試合後、伊藤はいつもより穏やかな声で言った。タオルを頭に被せ、俯いていたオレの肩を叩く。
「まー、練習試合じゃん!みんなも気にしてないだろ。落ち着いたらでいいからミーティングに顔出せよ!」
伊藤はその場を後にした。彼の言っていることは本当だろう。この結果に本気で落胆しているのはオレ一人だけだ。
違うんだよ、伊藤。偶々不調だったわけじゃないんだ。言い損ねたセリフを涙とともに押し込めた。
♢
タバコを棒付き飴のように咥え、舌の上で転がす。そして火をつけると、白く細い煙が目の前で上がった。
ライターに火を灯して、タバコの先を焦がすという行為をスムーズにやり切ったことに感動を覚えた。以前の自分とは違うんだ、と。煙を目の前にあった壁に吹きかける。初めて経験する感覚と、見つかってはいけないという緊張感がオレの感情を昂らせる。根拠のない無敵感にもう少し酔っていたい。オレは再びタバコに口をつけた。
「何してんの?」
突然、背後から話しかけられた。
夢中になっていたせいで、背後の足音に気付けなかった。先ほどまでオレを酔わせていた興奮が一気に冷める。
人に見つかった。その事実だけが、煙と共に辺りに充満する。
慌ててタバコを地面に押し付ける。ジュ、と音を立てて火は消えた。遅すぎる証拠隠滅に勤しむオレに足音が近づく。
「もうしないから、誰にも言わないで」
オレは土下座をする為に振り向いた。そこに立っていたのは、クラスメイトの岐田だった。彼は無言でオレを見下ろしている。
真面目な彼のことだ。きっとこのことを教師に報告するだろう。
さっきまで喫煙がバレてもいいと思っていたくせに、それが現実になると怖気付いて目撃者に懇願する。見逃してください、と。自分自身の行いが情けなさすぎて涙が出そうになった。
「確かアンタ、同じクラスの…誰だっけ。まあいいや」
岐田はそう言いながら便器に向かい合った。
吸い殻を持ちながら放心しているオレが見えていないかのような振る舞い。洗面台の前で手を洗う彼に向かってオレは話しかけた。
「先生とかに言わないの?オレのしてたこと」
「アンタのしてたこと…それって校則違反、未成年喫煙、若気の至り?」
先ほどの自分を客観的に見てみると、幼稚な奴だったと自覚できる。あんなことして変われるわけないのに。何の解決にもならない。
「ああ、そうか。アンタは僕が教師にチクるような真面目くんに見えてるって訳ね。
そんな面倒くさいことしない。どうでもいいし」
岐田はポケットからハンカチを取り出し、言葉を続ける。
「強いて言うなら…アンタはツメが甘い。トイレで喫煙なんてベタ過ぎて、遅かれ早かれ誰かに見つかってたと思うよ」
まさか未成年喫煙のアドバイスをされるなんて予想できなかった。オレは思わず目を見開いてしまう。手から吸い殻がぽとりと落ちる。
「どうして助言なんかするの?ここは…説教とか警告とかするのが普通じゃないの」
「…僕は一度やりかけたから説教できる資格なんてないんだよ。結局、実行しなかった。皆んなやりそうなことだからダサいと思って」
彼はトイレから出て行った。オレはフラフラと彼の後に続く。ここから離れたかった。
♢
教室には誰もいなかった。オレと岐田の二人だけ。普段、騒々しい場所とは思えないほど周囲は静まり返っていた。時計の秒針が動いている音が耳に届くほどに。ここだけ空気の流れが止まってしまっているようだった。
「アンタは帰らないの?」
「…八沢」
「え?」
「オレの名前。言ってなかったと思って」
岐田は目を少し見開いて、何度か首を縦に振った。成る程ね、といった様子で。
「ああ、ごめん。アンタって呼ばれるの嫌だった?つい癖で」
「そういう理由じゃないよ。何となく、名前で呼んでほしかったんだ」
「そうなんだ、まあいいや。僕は帰るけど八沢はどうする」
その質問にオレは咄嗟に答えれなかった。時刻は午後五時。遅刻しているが、今から部活に参加できる時間帯だ。しかしこんな精神状態ではプレーに支障が出ることは火を見るよりも明らかだった。かといって家に帰ってもやる事がない。考えていると顔が自然に下を向いてしまった。
「…もし暇ならさ、僕についてくる?」
岐田がボソリと呟いた。教室が静かでなければ聞こえなかったであろう声量で。
顔を上げると彼はすでに荷物を手に持っており、オレの返事を待っていた。
「うん、行く」
オレが返事をしたと同時に彼は床からもう一つ荷物を持ち上げ、背中に背負った。見慣れない形。それはギターケースだった。
♢
部活をサボることに対して抵抗感はなかった。以前の自分だったら絶対にしないような行為をしてもすんなりと受け入れられてしまう。体育館に背を向けて歩く。ボールが跳ねる音が次第に小さくなっていく。前を見ると、岐田が背負っているケースが歩くたびに揺れていた。
彼はオレの方を一度も振り返らずに進み続ける。周囲が賑やかになっていった。
「どこ行くの」と尋ねる。すると「駅の方」と答えられた。オレは普段駅を利用しないからこの辺りをあまり知らない。見慣れない風景と曖昧な現実感に、オレの心臓の動きは少しずつ激しくなった。
♢
そこは駅前の雑居ビルだった。一階はコンビニ、二階は探偵事務所、三階は歯科医院。そんなビルの地下に向かうエレベーターに、オレは乗っていた。パネルの前に立つ岐田は何も言わない。これからどこに行って、何をするのかを。胃袋が不安で潰されそうだった。チーンと気の抜ける音がした直後に、ドアが開いた。無機質な短い廊下の先に重そうな鉄製の扉があった。
手の平が汗で湿る。ズボンで拭いている間に、彼はドアを開けてしまった。
部屋の中にいた男たちと目が合った。岐田が荷物を置いている間、年齢や外見に一貫性がない三人の男性達は、オレを観察するような目付きでじっと見ていた。
居た堪れない空気に押しつぶされそうになった頃、前髪を鼻まで伸ばした男性が話し始めた。
「岐田くん、この子だれ?新メンバー?」
「違う。ただのクラスメイト。見学するだけだからそっとしておいて」
「えっ!岐田くん、同年代の友達いたんですね!なんか安心しました。…君、名前なんていうの」
髪と髭を伸ばした長身の男性がオレに話しかけた。
「ええと、オレは八沢です。あの、あなた達はどういった集まりなんですか」
オレの質問に驚いたのか、部屋の奥にいた男性が目を見開いた。外に跳ねた硬そうな金色の髪を揺らしながら、こっちに近づく。そして岐田を指差した。
「八沢サン、そんな事も知らないで付いてきたのかよ!?オイ、岐田!なんで何も教えてないんだよー」
「だって聞かれなかったから」
いや、聞いたけど。と、岐田の言葉に思わず心の中でツッコんでしまう。
岐田はオレの方を見ると、フウとため息を一回ついてから口を開いた。
「ここはスタジオだ。彼らは僕がやってるバントのメンバーだよ」
♢
唖然とするオレをよそに、岐田は説明を続けた。彼曰く、ここにいる彼らは「youth」というインディーズバンドのメンバーらしい。そしてこのスタジオは、メンバーの一人が所有している賃貸物件だと言う。
ドラムを担当するのは最年長でロングヘアーが自慢の中村。彼はこの部屋の所有者だ。ベース担当は前髪が長い大学生の田中。ボーカルは髪を赤色に染めた自称シンガーソングライターの山科だ。
「オレはギターと作詞作曲を担当してる」と、岐田は付け足した。それを聞いた瞬間、オレは思わず大きな声を出してしまった。
「え!岐田って曲を作れるの?スゴイね」
「そんなことないよ…。別に大したことない」
俯いてしまった岐田の肩を隣にいた田中が小突いた。
「いやいや。岐田くんのセンスは最高だよ。…そうだ、八沢くん。ちょっとおれ達の曲を聴いてみない?」
「いいんですか?」
オレが首を傾げると、田中は口元を緩めた。
「遠慮なんてしなくていいよ。ちょうどいい練習になるし。ねっ、岐田くん」
「……そうっすね」
岐田はため息をつくと、ケースからギターを取り出した。
♢
山科がマイクテストを始めると、先程まで充満していた和やかな空気が、一瞬にして引き締まった。オレは部屋の隅に置かれた椅子に座ってその様子を眺めていた。壁沿いに置かれた大きなスピーカーから彼らが出した音が流れる。
「じゃー、始めようか」
田中が合図をすると、音がピタリと止まった。その様子を見て、今から始まるんだ、と初心者のオレでも察した。
その時、岐田と目が合った。冷静な表情とは対照的な視線。燃えるように光る眼で見つめられたオレは、思わず背筋を伸ばした。
その曲は、岐田のギターから始まった。普段は寡黙で冷静な彼が発生させるとは思えない情熱的で存在感のある音。四人が出す音が合わさると、一つの音楽になった。
ジャンルはロックだろうか。オレはロックどころか音楽を殆ど聴かないので、良し悪しを判断できない。だが、直感的に理解した。オレは彼らの音楽が好きだと。
聴いている人に寄り添うような歌詞を伝えるボーカル。激しさと上品さを兼ね揃えているドラム。メロディを支えているベース。そして曲全体を引っ張っているギター。誰か一人でも欠けていたらこの曲は存在していない。そんな当たり前の事実に、オレの全身の血は沸き立っていた。
時間にすれば僅か三分半。その曲は岐田のギターで締められた。部屋が再び静かになった時、オレの頰は涙で濡れていた。
思わず身震いした。体の内側が、内臓が、脳が、心臓が震えていた。音の余韻が耳奥で響いている。椅子から立ち上がれなかった。言葉に出来ない圧倒的な感情に、すっかり打ちのめされていたのだ。
「おい、大丈夫か」
岐田が顔を覗き込む。オレは慌てて目をこすった。涙は止まったが、鼻水は重力に逆らえなかった。必死に啜っていると、岐田はティッシュを箱ごと持って来た。
隠せていない、全部バレてる。そう思ったオレはティッシュを受け取り、思い切り鼻をかみ、涙を拭った。
「さっきの曲、すごく良かったよ。何で泣いてるか自分でも分かってないから…少し待って」
「分かった。僕たちは向こうで練習してるから」
♢
あれじゃない、こうじゃないと話し合いながら練習をしている彼らをぼんやりと眺めていた。目の奥はまだ熱を持っており、気を抜くとまた涙が溢れそうだった。
映画や小説の内容に感動して泣いたことは何度もある。しかし、音楽を聴いて心を動かされたことはあっても号泣したことは今まで一度もなかった。
目を閉じて、もう一度脳内で再生する。力強く、激しいバックサウンドと、それに似つかわしくない柔らかな歌詞。挫折し、落ち込んでいる人間をそっと見守るような内容。よくある、押し付けがましい応援や、無責任な励ましは一切なかった。今の自分にピッタリな曲だったから、胸の奥まで染み入ったのだろうか。傷口につける消毒液のように。少ししみるけど、最終的に傷を癒してくれる、そんな曲。
そんなことを考えていると、岐田が再びこちらに向かって歩いてきた。
「八沢、落ち着いた?僕たちはそろそろ練習切り上げるつもりだけど」
「もう大丈夫だよ、ありがとう。帰うか」
ビルのエントランス前でオレたちは解散した。空はすっかり暗くなっており、ビル群の明るさに負けない輝きを持つ星だけが瞬いている。
話を聞くと、岐田とオレの帰る方向は途中まで同じらしい。二人で帰ることにした。
歩けば歩くほど、人通りが疎らになっていく。
交通量の割に、待ち時間が無駄に長い信号に足止めを食らった時、オレは呟いた。
「今日はどうして誘ってくれたの?」
「…あのまま八沢を放置して帰ったら、もっと悪化すると思って。タバコよりも酷いことしたらどうしよう、って不安になった」
オレは無意識のうちに彼の顔を見つめていた。岐田はオレの視線に気付かないのか、変わる気配のない信号機を見上げていた。
「岐田、今日は本当にありがとう。君の言う通り、あのままじゃオレはダメになってたと思う」
話していると、次第に視界がぼやけた。目の奥は、虫が這っているかのように疼く。それでも言葉を飲み込めなかった。
「さっき聴いた曲、本当に良かった。上手く言葉で説明出来ないけど…なんだか救われたような気分になったよ。それに…」
「もういいよ。感想、ありがとな」
遮られてしまった。行き場のない感想が口の中で留まる。何かマズイことでも言ってしまったのだろうか、と不安になる。謝罪するために彼の横顔を見た。
彼の耳は薄暗い歩道でも分かるほど、赤くなっていた。
「岐田…もしかして照れてる?」
「そ、そんなことない!」
岐田は被せ気味で否定する。その拍子に眼鏡が少しズレた。
オレは思わず笑ってしまう。最初は眉を八の字に寄せていた彼も、オレにつられて小さな笑い声を上げた。
♢
その日をきっかけに、オレは少しだけ変化した。
まず、趣味に音楽鑑賞が加わったことだ。岐田から勧められたアーティストのCDを借りては返す、という習慣ができあがった。彼が持ってくるCDはジャンルや年代、国に共通点は全く無いのにどれも同じような「芯」がある。その芯はスタジオで聴いた曲と似ているような気がした。
そのことを岐田に告げると、彼は少し驚いたような顔をした。そして「音楽が分からないなんて嘘言ってんだろ?」と笑われてしまった。
あと、岐田とよく話すようになった。CDの貸し借りを始め、休み時間に意味もなくお互いの席に行ったり、タイミングが合えば下校したり。
廊下や教室で彼に名前を呼ばれると、胸の底から喜びか湧き上がる。飼い主に向かって尻尾を振る犬の様に。この表現は大袈裟じゃないと思う。実際、岐田に何度か「テンション高すぎ」と、呆れられてしまったからだ。
彼と一緒にいると嫌なことや心の何処かにある傷を忘れられる。
部活の間感じていた胸が騒つく感触や、タバコを舌で転がしていた時の感情が頭から離れていく。あれほど忘れてたいともがいていた練習試合の記憶も色褪せていった。そのおかげか、すんなりと部活に参加できるようになった。部員のみんなはオレがサボっていたことを察していた筈なのに、何も言わずに受け入れてくれた。
バスケ部のメンバーや岐田を見ていると、オレはまだ未熟で、子供だと再認識する。喫煙して変化できると信じ切っていた頃よりかは成長していると思うが、彼らに比べたら自分はまだガキだ。でもいいんだ。ガキなりにゆっくり進んで行けばいい。
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