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桜の花が散り、緑の葉をつけ、それも落ちた頃だった。北風に吹かれ、揺れる窓の音と同じくらいの声量で、岐田は呟いた。 「今度ライブをやるから来てくれないか」 そう彼に誘われた時、オレは持っていた携帯電話を落としそうになった。 「え、オレが行ってもいいの?」 「…八沢だからこそ来て欲しいんだ。初めてのライブだし、みんな緊張してると思うから知ってる人がいた方がいいだろ」 ああ、そういうことね。岐田個人から誘われたと、浮き足立ってしまった自分が愚かに感じた。いくらなんでも尻尾振りすぎだろ、と心の中で自虐しても頰は熱いままだった。 岐田はそんなオレの様子に気付かないのかそのまま言葉を続ける。 「それに、八沢がステージの前にいるとやる気が出るんだ。僕のわがままで申し訳ないけど、いいかな」 「絶対行く!」 前言撤回。オレの自意識過剰じゃなかったことが嬉しかった。岐田に必要とされているという事実が目の前にある。オレがいることで、彼がやる気になる。そう思うと、今週末がやけに遠く感じた。早く時間が進んで欲しい。ステージ上に立つ岐田を見るまで死ねないと本気で思った。 ♢ youthはバンド活動らしい活動はあまりしていない。本格的にデビューを狙っているというより、趣味の合うもの同士が集まって練習しているという感じだった。不定期に岐田と山科が路上ライブをする時以外は、人前で音楽を披露していなかった。 「ついにライブかあ」オレの独り言は少し震えていた。ステージに立つ彼らを思い浮かべると、初めてyouthの曲を聴いた日と同じように心臓が大きく動く。 岐田は路上ライブをすることを数日前になると教えてくれたが、来て欲しいとは一度も言わなかった。だからこそ、今回の誘いには驚いたのだ。 駅の近くにある小さなライブハウス。周りに知っている人間は一人もいない。どう見ても、全員オレよりも年上だ。場違いじゃないだろうか?そんな不安に飲み込まれそうになった時、背後から肩を叩かれた。振り向くと、薄暗い店内でも目立つ髪色をした山科が立っていた。 「八沢サン、俺らよりも緊張してない?大丈夫だって、めっちゃ練習してきたから」 「頼もしいね。オレはここで応援してるよ」 「その言葉、岐田に聞かせたいよ。アイツ、緊張しちゃってステージ裏で座り込んでんのよ」 「え?それ、大丈夫なの」 慌ててステージの方へ向かおうとすると、山科に遮られた。 「平気平気。岐田は根性と熱意あるからそれくらいじゃへこたれないよ。絶対に完璧な状態でステージに立つ」 いつもふざけた様子の彼が、真剣な表情で言い切る。オレは黙って頷き、本番を待った。 ♢ 四人がステージの上に立った直後に、演奏は始まった。スタジオとは比べ物にならない音圧、煌びやかな照明。彼らが出した音が空気を揺るがす。その振動と同じように、心臓も震えた。周りの様子を気にする余裕は失せ、オレは目の前のステージに釘付けになった。岐田は伏し目がちにギターを弾いていた。細い指が弦の上で踊るように動く。激しい演奏に、額に浮かんだ汗。しかし表情は冷静なまま。サビに入る直前、彼の口角がわずかに上がった瞬間、思わず手を強く握りしめた。岐田って、ステージの上だとあんな風に笑うんだ。何故だか分からないがそう思った直後、胸の奥がくすぐったくなった。 一曲目を終えたあと、山科が簡単なバンド紹介をしている間、こっそり岐田の様子を見た。彼が眼鏡を外している事に今更気付いた。いつもと同じように落ち着いた様子で次の演奏を待っていた。 見慣れない彼の様子を知ったからだろうか。それとも彼の鋭い眼光をレンズ越しでは無く、直接見たせいだろうか。目が合った瞬間、心臓が掴まれたように、キュッと動いた。 ♢ 「お疲れ様ーっ!」 ビールジョッキを片手に、田中が大きな声で言った。 初ライブが終わった直後、youthの四人とオレはファミレスにいた。打ち上げにおいでよ、と誘ってくれたのは岐田だった。 ビールを一口飲んだだけで机に伏せてしまった中村を横目に、オレたちは好き勝手に会話をしていた。 「今回のライブが開けたのは中村さんのコネのお陰ってことを忘れるなよ」 「もー、田中サン!少しだけ夢見させてくれたっていいじゃんか。…確かに客は前座の俺らなんて見てなかったけどさ」 田中と山科の会話を聞いて、オレの認識と現実にズレが生じている事に気付いた。あのライブハウスで心を打たれたのはオレだけだったのだろうか、と。 ジュースを飲む手を止めていると、隣に座る岐田が頬杖をつきながら話し始めた。 「現実的な話は後だ。取り敢えず今は能天気に喜んでたっていいだろ」 田中と山科は確かにな、と笑う。 酒に酔っているのか、呂律が怪しくなりつつある山科が吐くように言った。そして 「あー!せっかくバンドやってるんだからモテたいよな。なあ、岐田サン?」 「え、どうでしょう。僕はあまり興味ないです」 「いやいや。俺は無理だったとしても岐田サンなら現実味あるじゃん。そんなこと言うなよー」 そのセリフを最後に、山科は寝息を立て始めた。 側から見れば微笑ましい、なんてことない会話だろう。だがオレはそんな何気ない会話に心を掻き乱されていた。 山科の言う通り、岐田はきっとモテるだろう。そう言い切れてしまうような要素を彼はたくさん持っていた。 岐田は興味がないと言い切った。それは本音だろう。しかし、山科の妄言が本当になったら?岐田が誰かのものになったら?どの妄想も嫌に現実味があった。 オレと岐田は友達なのに、そんな独占欲と焦燥感がどこから湧いているのか分からなかった。 ♢ タンスの奥にしまい込んでいたタバコの箱を捨てた。 学校指定のセーターを取り出そうとした時、隠すように置かれたタバコを見つけたのだ。あんなに執着していたのに、もう興味が全く湧かなかった。 それどころか手放したおかげで気分が軽くなった。 まだ岐田に話せていないことがある。それはオレがタバコを吸った理由だ。 理想と現実のギャップ、自分自身に対する絶望。そんな背伸びした台詞を並べて、 単純ででつまらない動機を誤魔化しても無意味だ。カッコつけるためのフィルターを外してしまえば、喫煙した理由なんて話す必要もないと馬鹿でも分かる。 ただオレが不貞腐れていただけなのだから。 オレは受験に失敗して第一志望の曽根高校に入れなかった。今まで「強豪バスケ部で活躍する」という目標を達成するために過ごしてきた自分にとって、それは致命傷ともいえる出来事だった。日に日に落ちていくモチベーションに、上がらない勝率。苛立ちと焦燥感に取り憑かれたオレを正気に戻らせてくれたのは岐田だった。 きっとオレは岐田に、この事を話さないだろう。これ以上、自分のカッコ悪くて弱い所を見せたくないからだ。彼の前では「いい奴」でありたい。 新しくできた小さな目標。空虚な日常に光を差してくれた岐田の為に、出来る事は何だろう。そんな風に頭を悩ませた回数は一度や二度では無い。 ♢ 街から冬の匂いは消え、柔らかな風が吹き始めた頃から、オレの胸に違和感がまとわりついて離れなかった。 他人からすれば大したことのない変化。それは岐田がギターケースを学校に持って来る頻度が減ったり、バンドに関する会話をしなくなったりしたことだった。 オレがもう少し大雑把な性格だったら「何かあったの?」と臆することなく尋ねられただろう。彼がため息をついたり、意味もなく窓の外を眺めるたびに、聞いてしまいたくなる。しかし実行することはなかった。不用意に岐田の領域に踏み込んで、傷つけることが怖かったのだ。 今日もオレは「どんな悩みを君は抱えてるの?」という質問を腹に押し込んで、彼に微笑みかける。 嫌な予感ほど的中しやすい。それが現実となったのは、高二の夏だった。 ♢ ─失ってから初めて気付けた 大切なものだって そんな歌詞を聴いた。生まれて初めて聴いたはずなのに、元々そこにあったかのように耳に馴染む。 狭いライブハウスは空気が悪く、淀んでいる。人の熱気と碌に稼働していない冷房。しかしオレは文句を言う気になれない。 今日は、友人の最後の晴れ舞台だったからだ。 岐田はステージの上で、ギターを弾いている。のびのびと、楽しげな様子のメンバーとは対照的な、苦しそうな表情で。眉間にシワを寄せ、暗い何かを全てギターにぶつけているかのような演奏だった。 呼吸をするのを忘れて、彼を見つめていた。不意に視界が濁る。目の奥から涙が滲み出る。オレは瞳に力を入れて、溢れそうになった涙を抑えた。 オレは泣く資格なんて無い。今一番悔しい思いをしているのは岐田なのだから。ただの傍観者が悔し泣きをしていいはずがない。 滲み、影法師の様になった山科が右腕を突き上げた。それが終わりの合図だった。 ♢ アンコールをするまでもなく、岐田のラストライブは終わった。メンバーは名残惜しそうな様子で、舞台から降りている。それと同時に、今までよく顔を合わせていた観客たちはすぐに帰っていった。彼らは皆、メンバーの友人だった。残念ながら、このバンドの音楽性に魅力されたファンではない。 きっと後で、居酒屋で打ち上げでもするのだろう。そんな彼らを横目に、オレは岐田の方へ歩み寄った。 「岐田、おつかれ、カッコよかったよ」 「ああ、今日は来てくれてありがとう。…応援しててくれたのに、こんな終わり方でごめんな…」 彼は途中で言葉を詰まらせた。そして喉をゴクリと動かした。胸から湧く悲しみを飲み込んでいるように。 よく見ると、彼の瞳は今にも溢れ出しそうな涙で濡れていた。今にも降り出しそうな雨雲を見上げているような気分になった。これから起こることが分かっているのに、何もできないあの無力感。 何て声をかけようか迷っていると、岐田は顔をタオルで覆った。肩が小刻みに震えている。 そんな様子の彼を見るのが辛かった。岐田が今まで、頑張ってきたことは誰よりも知っているつもりだった。彼が作った曲は何度も聴いたし、不定期開催の路上ライブにも行った。オレが演奏の感想を言うたびに彼は、滅多に見せない笑顔を向けてくれたのだ。 それなのに、最後はこれだ。岐田は隠すようにして泣いていた。誰にも気付かれないよう、声を抑えて。 オレに出来ることといえば、彼の背中を見守るだけ。彼はアドバイスなんて求めていないだろうし、自分にできるとは思えない。余計な口出しをして、彼に嫌われるのが怖かった。岐田に踏み込む勇気がないまま、ここに来てしまった。 彼がタオルから顔を離す。目が赤く充血していた。オレにもう少し勇気があったら、彼は泣かずに済んだのだろうか。 「オレ、最後の曲が一番好きだな。あの曲ってもしかして」 「そうだ。僕が作った曲だ」 「やっぱりな。初めて聴いたけどビビッと来たんだ」 こうして感想を伝えるだけで精一杯だ。ここが騒がしいライブハウスでよかった。きっと静かな場所だったら、心臓の音が彼に聞こえてしまっていたかもしれない。 ♢ 外に出た瞬間、息苦しくなるような暑さがオレを襲った。引きつつあった汗が一気に流れ出す。ライブハウス内とは違った種類の不快感。太陽はとっくに沈んでいるというのに、昼間の熱気がまだそこに残っている。 気分が重い。気を抜くと、体の重心が前に行ってしまう。猫背になり、項垂れ、地面を見ながら歩いてしまう。まるで心臓が鉛でできているようだった。 数日後には夏休みだぞ、なんて台詞を自分に投げかけても変化は起きない。むしろ悪化するだけだった。岐田は夏休み直前に自分の大切なものを失ったという事実が、大きな壁となって目の前に立ちはだかるのだ。 岐田はこれからどうするんだろう。もう音楽は辞めてしまうのだろうか。 そんな事を考えながら、手元にある岐田から差し出された物を眺めた。それはCDケースだった。店頭に並んでるものとは違い、歌詞カードが入っていないシンプルなもの。 彼が言うには、これはデモテープらしい。youthが演奏していた曲の基盤が、このディスクに詰め込まれている。そう思うと、厚さ1センチにも満たないCDが重く感じた。 「そんな大切な物を貰ってもいいの?」とオレが尋ねると、岐田は目を伏せて頷くだけで何も言わなかった。 ♢ 家に帰って直ぐにCDコンポの電源を入れた。再生ボタンを押すと、ガタガタという物音がした直後に、少しこもったギターの音が聴こえてきた。オレは聴き逃さないようにスピーカーに耳を寄せる。それと同時に岐田の歌声が耳元で流れた。低く、少し掠れた声。まるで耳の直ぐそばで彼が囁いているようだった。彼の吐息なんて感じるはずが無いのに、寄せていた左耳が熱くなった。 CDに収録されていた曲は全部で5曲。どれも聴いたことのある、耳に馴染んだ音楽だった。オレは時間が経つのを忘れて、何度も何度も再生ボタンを押した。CDが摩擦で擦り切れてしまわないか少し不安になるほどに。深夜、隣の部屋で眠る家族に壁を叩かれるまで岐田の声を再生していた。 ♢ オレは登校時、必ず音楽を聴く。スマートフォンを買った時に付いてくる白いイヤホンから曲を流していると、朝の憂鬱を少しだけ軽くできるのだ。朝日を浴びて歩きながら好きな音楽を聴く。爽やかな一日の始まりだ。 しかし今日は違った。オレは自転車のペダルを限界まで回しながら通学路を爆速していた。 昨晩遅くまで岐田のCDを聴いていたからか、寝坊をしてしまったのだ。完全に自業自得。寝癖を直す暇などなく、枕で押し付けられた跡をクッキリ残した後頭部を晒しながら、オレは学校へ向かっていた。 オレはあのCDデータをスマホに入れておいたのに、再生できていなかった。原因は自分でも分かっていない。彼の声を聴き続けていたら、自分の中の何かが変わってしまうような気がしただけだ。 取り敢えずダウンロードしておいた流行りの曲を聴きながら、校門をくぐった。すると道の先に岐田の後ろ姿が見えた。 「岐田!おはよう」 「おはよ。八沢も遅刻ギリギリかよ」 さっきまであんなに慌てていたのに、彼と話していると、他のことなど全てどうでもよく感じる。始業時間も、寝癖も、明日からの夏休みも。 「八沢、昨日は来てくれてありがとう」 岐田がオレの目を見ながら言った。その瞬間、降ってくるような蝉の声が遠く感じた。 オレは唾を飲み込み、昨晩から言おうか迷っていた台詞を、声が震えないように慎重に告げた。 「お礼を言うのはこっちだよ。音楽聴いて、あんなに感動したのは岐田の曲が初めてだったんだ。昨日もらったCDを何回も聴いているよ」 やっと伝えられた。そんな安心感がため息となって胸から出ていく。前は感想を言うだけで、こんなに緊張しなかったのに。心臓や汗線が必要以上に働く。しかし、心臓が不安になるほどうるさくなっても構わないと思えた。「ありがとう」と呟きながら微笑む彼を見られるなら。 ♢ 夏休み前日の恒例行事である全校集会が終わり、オレたちは廊下を歩いていた。隣の岐田はいつもより元気そうだった。暑い体育館と窮屈な学校から解放されるのが嬉しいのだろう。それとは裏腹にオレは暗い気持ちを胸に抱えていた。原因は分かりきっている。それは明日から始まる夏休みだ。 スケジュールを隅々まで埋める部活動とルーチンワークから外れる登校。この二つの事実が気分を湿らせる。 岐田と過ごせる時間が減る。この事を彼に言えばきっと、「たった1ヶ月だろ」と呆れたように笑うだろう。しかしオレにとってその時間は長すぎる。最近は土日休みですらもどかしく感じるのに1ヶ月だなんて。 今日だけで、彼と会話できる時間はどのくらい残されているのか。そんなことをボンヤリと考えていると、遠くの方で誰かの怒声が響いた。浮き足立ち、騒がしかった廊下が一瞬にして静まり返る。 人混みへ目を向けると、その中心には生徒指導の先生と、派手な髪色の男子生徒が向かい合っていた。 「瑞木!いい加減にその服装をやめろ!何度言ったら分かるんだ」 瑞木と呼ばれたその生徒は、明らかに校則違反している服装について叱られているようだった。しかし何も感じ取っている様子はない。意識だけ別の場所に置いているようだ。 その様子を見て、オレは思わず拳を強く握りしめた。オレも少し違えばアイツのようになっていたかもしれない、という思いが頭の中を埋め尽くした。反抗的な行動をして、周りの様子を気にせず好き勝手するような人間に。 彼は周りの注目を集めているのに表情一つ変えない。片方の耳につけたピアスを揺らしながら、廊下の奥へ消えていった。 ♢ 想定通りの夏休みだった。部活はそれなりに楽しいけど岐田には会えない、そんな毎日。曜日感覚も薄れ、暑さにも慣れた。ありとあらゆる感覚が鈍化している。刺激のない日々を送っていると、こうなるのも無理はないだろう。 「オレたちすっかり腑抜けだよなあ」 「そーだな。燃え尽き症候群ってやつ?」 オレと伊藤の間延びした会話が体育館裏で響く。目にしみるように白んだ太陽光から逃れるにはうってつけの場所。 昼休憩の時はいつもここでスポーツドリンクを飲みながら空を眺めている。ペットボトルのパッケージと同じような色の空を見上げていると、突然伊藤が立ち上がった。そして振り向く。太陽に背を向けた表情は見えなかった。 「やっぱり悔しいよな。こうなるのは覚悟したけど…」 昨日、オレたちは負けた。夏休み中に行われる大会。最初で最後の試合だった。 相手は曽根高。それを知った時、オレは冷静だった。夢に見るほど入りたかったチームと戦う。それも「負ける」という前提付きで。以前の自分だったら、その現実に向き合えなかっただろう。 試合当日になっても感情に変化は無かった。調子は良かった。チームメイトもそうだったと思う。実力を出し切れた。それでも勝てなかったのだ。圧倒的な差はそう簡単に埋まらない。 それでも良かった。新しい目標が出来たのだから。 「でも諦めてないよな。八沢もおれ達も」 「当たり前だろ」 太陽に雲がかかって、周囲が薄暗くなる。伊藤の顔にかかった影の色が薄くなると、表情が見えた。彼は笑っていた。そこに悲しみや諦めの影は一切無かった。 ♢ その後、伊藤と二人で表に向かって歩き出した。ほぼ同じタイミングでペットボトルの水を飲みきってしまったのだ。体育館入り口の横に設置された自動販売機は今のオレ達にとってオアシスのようだった。 買ったスポーツドリンクを浴びるように飲んでいると、視界の端に見覚えのある人物を捉えた。 それは岐田だった。夏休み中の、人があまりいない学校に彼がいたのだ。夏の暑さに溶かされた脳味噌が見せた幻覚だと思ったが、違った。夢でも幻想でもない岐田がわずか数十メートル先で歩いているのだ。 「あれ、岐田がいる…」 ペットボトルを口から離すと、そんなセリフが自然に漏れた。 「岐田ってお前のクラスメイトだっけ。…あの遠くにいる奴?よく分かったな」 伊藤が目を細めながら言う。 岐田はこちらに気付いておらず、背を向けた状態だった。暑いのだろうか、早足で校門に向かって歩いている。走って追いかければ間に合う距離。 会えなかった間、彼と話したいことが増え続けていた。SNSに書き込むほどでは無いハプニングや、お互いにしか伝わらない冗談。夏休みが始まって数週間しか経っていないが、この気持ちは身体から溢れ出しそうになっていた。 こうして後ろ姿を眺めている瞬間でもその感情は膨らみ続けている。時計を確認した。休憩時間はまだまだ残っている。オレは走り出すために立ち上がった。 しかしオレがそこから動くことはなかった。オレよりも先に追いついた人間がいたのだ。 岐田よりも背の高い、金髪の男。岐田はその男が背後に立つと、直ぐに振り向いた。そしてその男に向かって笑顔を見せたのだ。眩しかった。そのせいで思わず目を逸らした。その顔に、最後のライブの時に見せた暗い影はどこにもなかった。 オレと音楽の話をしている時にや、ステージの上で見せてくれた笑顔とは全く違う表情だった。オレはあの幸せそうな顔を一度も見たことが無かった。 岐田と金髪の男は外に出た。もう走っても届かないだろう。オレは崩れるように座った。 「話しかけなくてよかったのか?」 「…友達といたし。邪魔しちゃうよ」 「遠慮するの意外だな。最近のお前、岐田クンの話ばかりしてたからさ。さっきは飛びついちゃうと思ってた」 「え、そうなの?」 伊藤に言われて初めて気付いた。岐田と会いたいという欲求が外に漏れていたなんて。それも他人に呆れたような口調で指摘されてしまうほどに。オレは思わず頭をタオルで覆った。自分が思っている以上に、頭の中を岐田が占めているようだった。 いつから?どれくらいの頻度で話題に出していた? 伊藤に聞きたいことがたくさんあったが、口に出すことは無かった。知ってしまえば、後戻りできないような気がしたのだ。 自分を客観的に見ることが無性に怖く感じた。 ♢ 首筋を伝う汗を拭った。歩けば歩くほど全身の水分が流れ出て、ミイラにでもなりそうだった。 歩き慣れた通学路がいつもより長く感じる。ブロック塀や建物が作った影を見つけては飛び乗るという進み方をしていれば、時間がかかるのは当たり前だろう。 「オレってホント馬鹿…」 そんな独り言を呟きながら、うだるような暑さの中を歩く。上は太陽、下はコンクリート。熱に挟まれたオレは焦げるのを待つしかない。 そんな死に急いだ行為をする原因を作ったのは自分だ。夏休みも残り数日だというのに、読書感想文の本を借り忘れたのだ。 それに気付いたのは今朝。今まで目を逸らし続けていた課題の山を崩していると、数枚の作文用紙を見つけた。その瞬間、胃を掴まれたように身体が強張った。 「図書室に行く必要ないだろ。家にある本で事足りる」 大抵の人間はそう思い付き、家から出ることなく涼しい自宅で強制された読書に勤しむだろうが、オレは違う。本を読む、という習慣をこの歳まで身に付けることなく成長したせいで一冊も本が無いのだ。 通販で買うような金も無ければ、家に置いてある本も無い。朝から散々渋った結果、太陽が最も猛威を振るっている時間帯に外出する羽目になったのだ。 「あー着いた…」 誰かがやってくれたのか、図書館の窓は全て開かれていた。カーテンが風に揺れる音しか聞こえない。 遠くで蝉が鳴いている。いつもよりテンポが早いような気がした。夏が終わるまであと少ししかないからか、焦っているように感じる。 図書室に自ら来るのはこれで初めてだった。一生かけても読みきれない量の本が所狭しと並んでいる。そんな分厚くて古びた本には目を向けず、オレは壁に貼られた見取り図を眺めた。 なるべく簡単な内容で薄い本を借りたかった。そんな企みをする生徒が過去に多くいたのか、「漫画や絵本はやめろ」と教師に前もって言われてしまっている。 部屋の一番奥に詩集コーナーがあることが判明した。 詩なら短いし、読みやすそうだ。取り敢えずそこに行こう。 部屋の中心部にある読書スペースを通りかかった時、オレはハッと息を止め、思わず足を止めてしまった。誰かが机に突っ伏していたのだ。この部屋に自分以外誰もいないと思い込んでいたので心臓が止まりそうになった。 男子生徒だった。髪の色は明るく、顔を覆っている腕はよく焼けている。 眠っているのだろうか。それにしては身体に力が入っているような気がする。大きな机の端で身を縮めていた。よく見ると、肩が小刻みに震えている。体調が悪いのだろうか。もし病人だったら放置する訳にはいかない。オレは彼に声をかけるために近寄ろうとした。 「岐田さん?」 一歩踏み出した途端に、彼が顔を上げた。頰は濡れ、目の周りは赤くなっている。声は小さく、掠れていたがハッキリと聞こえた。 彼は「岐田」と呟いた。目の前の人物はオレの友人の名前を呼んだ。会いたくてたまらない人の名前を淀みなく言った。呼び慣れていた。口に馴染んでいた。 オレはこちらを見つめる彼に見覚えがあった。 明るい金髪に片耳につけられたピアス。一度見たら忘れないだろう。オレは彼を集会後の廊下や数日前の校門前で確かに見た。 断片的な記憶が一気に蘇り、パズルのように組み合わされる。 「あ、すみません…。人違いでした」 彼は申し訳なさそうに頭を下げ、立ち上がった。一瞬だったのか、しばらく見つめ合っていたのか分からない。いつの間にか彼はいなくなっており、図書室の中にいるのは自分だけになった。 カーテンがはためく。そんな小さな音をかき消すように蝉が鳴いた。頭の中で大袈裟に響く。思わず耳を塞ぐ。何も聞きたくなかった。 ♢ 人生で一番長い夏休みが明けた。久々に会った岐田は以前よりも白く、細くなっていた。力を込めれば砕けてしまわないか不安になる。吸い込まれるような青空に溶けてしまいそうだった。 「夏休みどうだった?」 「普通夏休みだったな」 岐田がつまらなさそうな表情で答える。いつも通りの会話や反応。以前と何も変わっていないはずなのに。何故か分からないが、もうあの日々は戻ってこないような気がした。 初日から授業があった。以前のオレなら文句を言っただろうが、今はありがたかった。こうして紛らわせる時間があるだけでだいぶ楽になれる。図書室で岐田の名前を呼んだ彼と会った日から、一人でいる間、嫌な妄想が頭に浮かぶようになった。 岐田がオレの側から離れてしまうという嫌に具体的なストーリー。勝手に暴走する脳を叱責するかのように、オレは頭を振った。 退屈な時間が心地よい。開いた窓から入るそよ風と蝉の合唱を楽しんでいると、斜め前に座る岐田の後ろ姿が目に入った。 彼にしては珍しく、授業に身が入っていないようだった。頬杖をついて、窓の外を眺めている。心ここに在らず、といった様子。 外にはそれほど興味を引くものがあるのだろうか。オレは岐田が眺めている方向に目を向けた。 窓の下には運動場がある。そこでは他学年の生徒が体育の授業をしていた。こんな暑い日によくやるよ。少し同情しながら眺めていると、目を引く生徒が一人。 金色の髪を揺らしながら走る生徒がいた。周りの人間を引き離し、颯爽と駆ける。このまま風になって遠くまで行ってしまいそうな疾走感。オレは彼から目を慌てて逸らした。そして目の前にいる岐田に手を伸ばそうとした。 しかしオレの腕が動くことはなかった。 何故か、分かってしまったのだ。彼はもう手の届かない、どこか遠いところへ行ってしまったのだ、と。 目の前にいる彼の肩を掴んで「何見てんだよ?」と視線をこちらに向けるのは簡単だろう。しかしその目がオレを見ることはきっと無い。岐田は近くにいないのだから。 ♢ 「まさか岐田が先生に怒られるなんてなあ」 「たまたまだ」 授業後、岐田とオレは廊下を歩いていた。夏休み中に借りた本を図書室に返すために。 正直なところ、岐田をあそこに近づけなくなかった。きっと、あの部屋に彼はいるだろう。今でも泣きながら、岐田を待っているのだ。赤子のように身体を小さくして、寂しさに凍えながら。 廊下にある窓は全て開けられていた。風通しを最大限良くしても、暑いものは暑い。 今日は風がいつもより強かった。岐田の黒い髪が揺れた。その時、普段は隠れている彼の耳が見えた。白く、小ぶりで形の良い耳。 そこに光る、金のピアス。 その小さな輝きを見た瞬間、目の前にいる岐田がもうオレの隣にいないことを察した。そして彼は、別の人間の側にいることを理解した。 岐田の名前を呼びながら泣いている金髪の男。授業中に金髪の男を眺める岐田。 オレは岐田の前を歩きながら言った。さり気なく。 「なんか悩んでるだろ?いつもよりも元気ないし。無理して話さなくてもいいけど」 「どうしてそう思うんだ」 「岐田の雰囲気が全然違うから。変わったよ」 隠せていると思っているのは、君だけだよ。オレは岐田の目を見つめ続けた。すると彼は目を伏せたまま呟いた。 「ああ、僕は変わったよ。ものすごく」 「まあ夏休みは長かったからね」 「好きな人ができたんだ。それに気付いたと同時に失恋したけど」 オレは足を止めてしまった。心臓が一瞬だけ動きを止めたのだ。覚悟はしていたつもりだったが、身体が上手く動かない。その様子に気付いたのが、岐田は慌てた様子で言葉を繋げた。 「別に大したことじゃないから。もう終わったことだし」 「それ、本当?」 「ホントだよ。もう吹っ切れた」 岐田は早口だった。冷静な表情や、取り繕うのも忘れている。 「嘘だね」 オレはなるべく声の調子を変えないように指摘した。岐田は少しだけ目を見開く。 「どうして分かるんだ」 「だって」 ここで思わず言葉を切った。固く閉ざしそうになった口を無理矢理開く。 「すごく辛そうな顔してる。その人のこと、全然諦めてないんだろ」 オレと岐田は黙って向かい合っていた。廊下はとても静かだった。風は止み、岐田の耳が見えることは無い。 次のセリフを言えば、岐田は本当にここからいなくなってしまう。分かっているが、やめるつもりはなかった。 オレは君の友達だから。友達を助けるのは当たり前だろう。 「その相手が大切な人だって、失ってから気付けたんじゃないか?いつもクールな岐田だけど、たまには熱くなっちゃってもいいんじゃない」 「熱くなるって…どうやって」 「会いに行けばいいんだよ。その人がいそうな場所にとりあえず行ってから色々考えたらどうだ?」 図書室だよ、と心の中で囁く。しかし言葉にする必要はなかった。彼はもう答えを知っているから。岐田は地面から目を離し、オレを見つめる。その瞳は明るい光を閉じ込めたように輝いていた。耳のピアスと同じように。 きっとあの彼から貰った光なのだ。オレが与えられなかったモノを、金髪の彼は持っていたのだ。 「八沢、ありがとう…。少しだけ気楽に考えられた。僕、行ってくるよ」 岐田はオレに向かって笑った。オレもそれに答えるように微笑む。 「頑張れよ。応援してる」 彼は手を振り、背を向けた。そして廊下を駆け抜け、視界から消えた。 彼を見送るとオレはその場に座り込んだ。 ♢ 今頃、岐田とあの生徒は再会しただろう。確信に近い予感を抱きながら夕方の通学路を歩いていた。空はすっかり赤くなっている。目の前に自分の長い影が伸びていた。 これからオレはこの道を一人で歩く。岐田は隣にいないのだから。 オレは未熟で、鈍感だった。 多くの傷を残して去っていく。そして胸の痛みで、自分が恋をしていたことに気付くのだ。オレにとって、初めてした恋とはそんなものだった。 恋愛漫画や映画のように、分かりやすい演出はない。背景に花が咲いたり、ハートが矢に撃ち抜かれたりしないのだ。視界が明るくなったり、ピンク色になったりすればもっと早く気付けたのだろうか。 「失って初めて気付く、かぁ」 一番好きな歌詞を呟くと、オレは鼻をすすった。夕日が滲んだ。 ♢ 「矢沢!何してんだ!」 怒鳴り声が廊下に響く。目の前にいる生徒指導の先生は青筋を立てながら怒鳴っている。オレは何度か頭を下げ、後で反省文を書くと約束した後に解放された。 廊下を歩いていると、自分の姿が壁に掛けられた鏡に映る。耳には黒子ほどの大きさの樹脂。よくこれを発見したな、と思わず感心してしまう。 鏡の前で立っていると、岐田の姿が背後に映った。メガネのレンズ越しに見える岐田の目は冷たいけれど、優しい。彼は口元に薄い笑顔を浮かべ、オレの肩を軽く叩いた。 「矢沢、ピアスバレたのかよ。ツメが甘いなあ。ベタすぎ」 「やっぱりオレに隠し事は向いてないよ」 オレは振り返って、笑った。 彼の黒い髪の隙間から金色の光が漏れていた。

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