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 喧騒の中にありながら、外の世界から完全に遮断された特別な空間。  有名デザイナー監修のもと、洗練された黒と赤を基調にしたインテリアに、間接照明をふんだんに取り入れたラグジュアリーな雰囲気。そして、決して会話を害さないボリュームが計算しつくされたシックなBGMに高級ブランドのファブリック。  都内でも数少ない専門店から特別に納入させている深紅のバラが、店内の入口に惜しげもなく飾られ、訪れる者の目を楽しませる。  上質な黒スーツに身を包んだボーイが受付カウンターで出迎える。 「いらっしゃいませ」  そう――ここは、選りすぐりのイケメンが集められた完全会員制ホストクラブ『デウス』。  スタッフはただイケメンというだけではなく、実績、礼儀、言葉遣い、そして性技までをとことん教え込まれた精鋭のみが集う最優良店。   しかも、数多くの厳正な審査を通過したトップクラスの男性客のみが入店を許可された女性禁制の男の園。  全国でも稀なこのホストクラブ。表向きは上質な酒と会話を楽しむ高級クラブではあるが、裏の顔もある。日本有数の歓楽街にあって、その筋の世界では知らない者はいないと言われる高級男娼館なのである。  まだ経験が浅く、ランクの低いスタッフは客のリクエストを受付け、指名されたホストとの仲介役となる。  提示金額に納得がいかない、ホストと客のトラブル、ストーカー対策などの強化や取締りの根回しなど、雑務も兼ねた仕事に追われることが多いが、最終的には店長やオーナーの指示を仰ぐ。  今のところ大きなトラブルに発展していないのは、ホストを買える会員は一般会員とは違い、社会的地位のある者が多いせいだろう。何か問題を起こせば、すぐにマスコミの格好の餌食となることは目に見えている。  VIP会員と呼ばれる彼らは、通常入店で今夜の相手を探す。稀に一人のホストに入れ込む客もいるが、そういう者は大概、大金をつぎ込み過ぎて破産するか、はたまた愛人契約を結んで店を辞めさせるかのどちらかだ。 「――おはようございます。静夜(しずや)さん。今夜はもう指名が入っていますよ」  不機嫌でも絶対に笑みを絶やさないフロアマネージャーが満面の笑みで声を掛ける。どうやら今夜は、誤魔化しなしに機嫌がいいらしい。  その理由は、いつも同伴出勤で遅い時間に店に入る特別な男が定時にそこに現れたからだ。  細身の黒のスーツに、シルクのシャツ。襟は大きく開かれ、綺麗なラインを描く鎖骨が欲情を誘う。  愛用の香水ブルードゥシャネルをふわりと漂わせ、フロアに並んだスタッフの前を優雅に通り過ぎる。 「んぁ? どこぞの社長さん?」  気怠げに振り返りながら長い前髪をかき上げる。髪を伸ばすホストが多い中で、さっぱりと整えられた金色の髪は薄暗い店内でも目を惹く。  彼の名は水城(みずしろ)静夜(しずや)。これはもちろん店での源氏名であり、本名は辻本(つじもと)湊太(そうた)という。 「ええ。今、飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長してるIT企業『センス』の青年社長。超絶イケメンで、ビジネス誌に載れば売れ行き三倍アップの優良株です。あっちの方も凄いって噂ですよ」 「へぇ……。俺のお眼鏡に叶うといいね……その人」  クスッと口許を綻ばせて肩を揺らした彼の灰色の瞳がスッと細められる。その熱っぽい視線に、スタッフから一斉にため息が漏れた。  そう――彼はこの高級ホストクラブ『デウス』のナンバーワン。流星のように現れて、あっという間に頂点に上り詰めた男は、圧倒的美貌とVIP会員からの指名率、そして自由奔放な性格で不動の地位を築いた。  彼を超えようと思う者はこの店にはいない。なぜなら、完璧すぎる彼こそが男神(デウス)だからだ。  しかし、静夜を指名した者すべてが彼を抱けるわけではない。彼は、相手を一目見ただけで自分との相性を見抜く力を持っており、直感で「イヤだ」と感じれば、その指名をあっさりとフイにする。  上位ランクのホストは指名しただけで自動的にチャージ料金が発生する。それが静夜クラスになれば、たとえキャンセルになったとしても数十万は下らない。 「楽しみ~っ!」  いつになく上機嫌な静夜に反して店内の緊張感は高まっていく。  VIPルームから彼と腕を組んで一緒に出て来る客がどれほどの男なのかと気になって仕方がない。あわよくば、静夜の二番煎じでも構わない。彼からの指名を貰えるならば……と、下心と闘志を燃やす。 「真鍋(まなべ)社長はもうお越しになってますよ」 「え? お忍び? 裏から入れたの?」 「マスコミに追われることを嫌う方なのですよ」  時々、店の正面入口から入らずに、スタッフ専用の出入口から入店する客もいる。各界の大物が出入りする店だけに、ホスト遊びだけならまだしも一夜を共にしていると知られればマスコミの格好のネタだ。  それを警戒して、マネージャーやオーナーに直接オーダーして裏から入ることが度々ある。 「ちょっと厄介な人っぽいね……」  静夜は顎に指を当てて、ちょっと眉を寄せた。  細身で薄っすらと纏った筋肉質な体は、無駄なものが何もない。  引き締まった腰を優雅に揺らして強請る姿は、どんな屈強で強面の男でも鼻の下を伸ばすという。  元来、女性らしい顔つきではあるが、カラーコンタクトをつけたその瞳は勝ち気で強い意思が感じられる。  その容貌と性格から『女王様』と呼ばれることが多いが、決してそういった性癖を持っているわけではない。  どうしても……と懇願され女性を抱くこともあるが、彼は真性のバリネコなのだ。  ハイスペックな男に抱かれることに悦びを感じ、その美しさに磨きをかけていく。 「――じゃ、行ってくるね。マネージャー、裏のドアのロックは外しておいて」 「分かりました。オーダーがあるようなら私を呼んで下さい」 「りょうか~い」  長く細い指をヒラヒラと揺らしながら、静夜はフロアの奥に設けられたVIPルームへ向かうガラスのドアを開けた。  ゆっくりと背後でドアが閉まると、店内で流れているBGMが耳を塞いだようにシャットアウトされる。  高級感あふれるダークグレーの絨毯を艶のある靴で踏みしめながら、豪奢な木製のドアをノックした。 「失礼します。静夜です」 「――どうぞ」  この店にあるVIPルームは二つ。人数によって使い分けるために部屋の大きさは異なる。  静夜がノックしたのは少人数対応の部屋で、小ぢんまりとはしているがシックな造りになっている。  部屋の中から聞こえたくぐもった声に応えるようにドアを開く。  正面に置かれたブラックレザーのソファに座る男の姿に、静夜は何かを確かめるように薄い唇を舐めた。  しっかりと筋肉のついた長身の体に、ダンヒルのフルオーダースーツが良く似合っている。  少し癖のある黒髪を緩く後ろに流し、顔立ちは端正で日本人離れして彫刻のように美しい。  切れ長ではあるがくっきり二重の野性的な瞳、鼻梁は高く真っ直ぐ通っており、唇はほどよく薄い。  節のある長い指で煙草を挟んだまま、長い脚を優雅に組みかえる姿は、女性だけでなく男性でも息を呑む。  言葉を発さずとも、その落ち着いた佇まいの中に垣間見える、荒々しい野獣の様なオスの色香をひしひしと感じ、静夜の本能に直接訴えかけてくる男――真鍋(まなべ)広武(ひろむ)がそこにいた。  静夜の天性の勘が何かを感じ取り、綺麗なラインを描いた唇がふわりと微笑んだ。  ドアを開けてすぐに出会った初対面の客に対して、こんなに鮮烈な印象を与えられたのは初めてのことだった。  静夜は長い腕をドア枠に無造作に掛けると、細い腰をわずかにしならせて艶のある声で言った。 「――俺と、セックスしようか」  部屋に入り「お待たせしました」でも「はじめまして」でもなく、直感的に口から発せられた言葉は、いつになく艶を含んだ静夜の渾身の誘いだった。  不動のナンバーワンホストである静夜自身も、直球で誘うことはまずない。それに、彼のお眼鏡に叶った相手であっても顔を合わせた数十秒後に「セックスしよう」などと声を掛けられることもない。  この前代未聞の異様な展開に、その場にいた広武もさぞかし動揺するだろうと思いきや、吸いかけの煙草をクリスタルの灰皿に乱暴に投げ入れると、テーブルの上に置かれたウェルカムドリンク代わりのシャンパンを一気に仰いで、鋭い目を細めて静夜を睨みつけるなりこう言い放った。 「――断る」  耳が痛くなるほどの長い沈黙が二人の間に流れ、それに耐えきれなくなった静夜が口を開こうとした時、腰の奥を抉られるような低い声が部屋に響いた。 「ナンバーワンの男が聞いて呆れるな。どんだけ節操のないメス猫だ? 俺の顔を見るなりセックスしたいだと? 笑わせてくれる……。俺に抱かれたいのなら、そこに土下座して乞え」  この店に来る客はもちろんの事、スタッフさえも女王様である静夜の顔色を伺いながら接してくる。それなのに、この男ときたら初対面で、しかも自分から指名してきたというのに強烈なアッパーにも似た辛辣な言葉を静夜に浴びせかけたのだ。 「は……はぁ? ちょっと待てよ。アンタ、何様のつもり?」  こちらから反撃不可能の先制パンチを食らわせたつもりの静夜の動揺は計り知れなかった。ドア枠に掛けたままの指先が小刻みに震え、視線が宙を彷徨う。  それでも気丈な言葉を吐き出した唇も、心なしか青ざめていた。 「俺を指名したのはアンタだろ? 俺とヤリたいからこの店に来たんじゃねーの?」 「別に……。相手には困っていない」  容姿といい、身のこなしといい、完璧とも言える彼だからこそ、さらっと口にしても否定されされることのないセリフ。  そんな彼に呆気にとられつつも、こちらから渾身の誘いをした静夜としてみれば立つ瀬がない。  その上、ナンバーワンである自身を『節操のないメス猫』と揶揄された挙句、土下座までしろと言われたのだ。ここまでプライドを傷つけられたことのない静夜は、絶対に顔に出すことはなかったが深く傷つき、腸が煮えくり返るほどの憤りを感じていた。  細い指に嵌められた、不似合いとも思えるほどの大ぶりなシルバーリングをドアの枠にコツコツと当てながら、静夜は苛立ちを隠すことなく広武に向き直った。 「――土下座、とか。それはこっちのセリフ。あのね……俺の体、ナメて貰っちゃ困るんだけど。その辺のウリ専野郎と一緒にされたらたまったもんじゃない! 誰もが跪いて「抱きたい」って、俺の靴先にキスしてくれる。それほど俺を抱きたい奴はこの世に溢れてる。今夜だってアンタの指名がなかったら、もっといい太客相手に気持ちよくなった上に金も稼げたわけ。あぁ……時間の無駄。ド本命だってタカを括った俺がバカだった」  この日、ホストになって初めて静夜の勘が外れた。  先程まで期待に胸を膨らませていた自身が恥ずかしい。だが、マネージャーに何気なく呟いた『厄介な人』というところに関してはあながち間違ってはいなかった。  広武は上着の内側に手を入れると、長財布を取り出した。そこから帯封のされた札束を二つ取り出すと、立ちつくす静夜に向けて投げ付けた。 「指名チャージ、キャンセル料。これでもまだ不足か?」 「な……っ」 「客にはホストを選ぶ権利がある。お前が客を選ぶんじゃない……」  毛足の長い絨毯に散らかる大量の一万円札をじっと見つめながら、静夜はきつく唇を噛んだ。 「お前、勘違いも甚だしいな。ホストは客を悦ばせるための職業だ。男娼も然り……。自分の快楽を求めて相手を選ぶのは間違っている。お前の様なクズに勃起する奴らはクズ以下だなっ」  財布を仕舞いながらゆっくりと立ち上った広武は、利発そうな額に一筋零れた癖のある前髪を後ろにかきあげながら、静夜の方に足を進めた。  両開きの豪奢なドアの片側を塞ぐ格好で立つ静夜に「邪魔だ」と言いたげな冷たい視線を容赦なく投げ付ける彼に対し、ドア枠に掛けた手にぐっと力を込めて行く手を遮った。 「なぁ……。ホントのところ、俺を見てアンタも勃起したんだろ? この体見て、その先の事想像しないヤツいないしっ。それならあんたもクズ以下だな!」 「ハッ。笑わせるな……。するわけがないだろう。そんな年中発情期のメス猫ごときに」 「なにっ」 「俺に抱かれたいと思うなら、その体に染み付いた他の男の精液の匂いを消してこい。そうしたらご褒美に、ペニスにキスするぐらいは許してやる」 「はぁ? はぁ? 何、言ってんの? アンタ、自分がどんだけの男か分かって言ってんの? この店の――いや、この街の有名人を相手にそんな強気な態度とっちゃっていいわけ? 絶対に後悔するよ?」 「その後悔とやらを一度経験してみたいものだな」 「あ~言っちゃった! 俺をマジで怒らせちゃったね? じゃあ、俺も本気でアンタを落とす。絶対に落とすからね! 土下座をして「ヤラせてください」って頭下げるの、アンタの方だから……。ビジネス誌のトップを飾るイケメンIT企業社長の無様な姿……はぁ、ゾクゾクする!」  勝気な目を吊り上げて矢継ぎ早にまくし立てる静夜を、まるで憐れんでいるかのように見下ろした広武は、いきなり彼の肩を大きな手で掴み寄せると、形のいい唇に自身の唇を深く重ねた。 「う……っぐ!」  油断した隙に、口内に入り込んだ厚い舌がねっとりと歯列をなぞっていく。  ふわりと香るのはシャンパンの甘みと煙草の苦み。  まるで静夜の心の内に土足で押し入り、ありとあらゆるデータを採取するかのように、広武の舌が口内を犯した。  絡みつく広武の舌に抗うことが出来ずに、成すがままに弄ばれる静夜。たかがキスなのに――いや、キスだからこそ自身の拙さが露呈されていくようで、猛烈な羞恥心に襲われる。  舌先を誘うようにして唇でキュッと挟まれると、腰に甘い痺れが走った。 「ん……っ」  我慢しても思わず漏れてしまう吐息。唇の端から伝う唾液を拭う事さえ出来ずにいる。 (コイツ……キス、上手すぎだろっ)  キスなんて挨拶代わりと言えるほど、毎晩のように客と唇を重ねて来た。しかし、これほど情熱的で官能的で――心の底を見透かされるキスは今までになかった。  枠に掛けたままだった手が力なく滑り落ち、広武の行く手を阻むものはもうそこにはなかった。  チュッと小さな音を立てて啄み、ゆっくりと離れていく広武の唇を追うように、わずかに舌を伸ばした静夜は蕩けたままの目で彼を見上げた。 「ど……して」 「啼くのはベッドの上だけで十分だろ。誤解がないように言っておくが、その煩い口を塞いだだけだ。キャンセル料の上乗せだ。とっておけ……」  がっしりと掴んでいた手が離れ、体がゆらりとよろめいた。  力なくドアに凭れかかった静夜をそのままに、広武は振り返ることなく部屋を出て行った。  ずるずると背中を滑らせながら床にへたり込んだ静夜は、彼の広い背中をただ見つめる事しか出来なかった。  まだ熱を持ったままの唇を指先でそっと押さえて、煙草の苦みの残る舌を覗かせた。 「――絶対に、落としてやるっ」  美酒を味わい、それが理由で悪酔いした時の様な後味の悪さ……。  しかし、静夜は今までになく刺激的で、ナンバーワンホストの狩猟本能を掻き立てるような獲物の出現に、高鳴る胸を抑えることが出来なかった。 (地位とプライドを賭けてあの男を落とす!)  すっかり抜けてしまった腰をモゾリと動かしながら、木製の扉に短い爪を立てた。

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