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【2】
高級ホストクラブ『デウス』のVIPルームから、たった一人で帰還した静夜の噂は一夜のうちに街中に拡がった。日本屈指の歓楽街。その頂点に君臨するホスト、水城静夜が客に逃げられた……と。
これには店のイメージを何より重んじるオーナーや店長も頭を抱えた。
すぐに箝口令を敷き、あれは何かの間違いだったと否定したが、人の口には戸は立てられないという事を身を以って知った。
そして、翌日から静夜は客を取るのをやめた。もちろん、テーブルでの指名は大歓迎ではあるが、アフターも同伴も一切受け付けない旨を伝え、フロアマネージャーを困惑させた。
その理由は言わずもがな、あの真鍋広武だけをターゲットに絞ったからだ。決してその場の勢いだけでないことを証明するための決意だった。
「――静夜さん、あの話ってマジなんすか? 俺、その日シフト入ってなくて状況、分かんないっすけど」
ランニングマシーンの手摺に凭れながら、少し伸びた前髪を気にして指先で弄っていた剣斗 がいつものチャラい口調で話し掛けて来た。
ここは静夜が通うトレーニングジム。出勤前の空き時間や休みの日などは大概ここにいることが多く、体の鍛錬に余念がない。
体質的に無駄なものが付きにくいのは利点だが、筋肉もまたトレーニングをさぼるとすぐに落ちてしまう。
ナンバーワンである以上、常にパーフェクトボディでなければ客商売は勤まらない。
「うるせぇ。その話は、するなっ」
息を弾ませながらランニングを続けている今日の静夜は、ホストモードとはほど遠い、アスリートの顔になっていた。
起き抜けの柔らかな髪もそのままに、Tシャツとトレーニングスパッツ、それに足元には蛍光色のスニーカーといういで立ちで、夜の煌びやかなイメージはそこにはなかった。
細身ではあるが均整の取れた体にフィットしたスタイルは、ジムの中でも一際目を惹いた。
「え~。静夜さんに限ってあり得ないっていうか~。俺、そいつをぶん殴りたい気分なんですよ」
「な……んで、お前が……アイツを殴る……ん、だぁ」
「ムカつくじゃないっすか? ホストとしてだけでなく、あっちの方のプライドも傷付けられたんですよ? VIPから静夜さんを一人で帰すとか……。マジ、あり得ないっす。しかも、札をばら撒くとか……頭イカれてるんじゃないっすか?」
担当トレーナーによって、その日のコンディションに基づき設定されたメニューを淡々とこなしていく。ランニングを終えクールダウンに入り、ゆったりとした歩調で息を整えながらチラリと剣斗の方を見る。
額から流れる汗もそのままに、幼さを残す栗色の大きな瞳を何度か瞬きして見せた。
「うわ~! 静夜さんっ。その目、ヤバいっす! 俺、惚れちゃうっていつも言ってるじゃないっすか!」
「いちいち煩い奴だな。カラコンしてると目ぇ、疲れるんだよっ」
「それ、分かりますわ~! 俺も目薬手放せないっす。充血酷くて……」
深呼吸を繰り返し、心拍数がゆっくりと落ち着いていくのを前方のタブレットで確認しながら、静夜は下ろしたままの前髪をかき上げて細く息を吐き出した。
剣斗は同じ店の後輩で、静夜に比べればランクはかなり下の方ではあるが、ワンコ系キャラが功を奏してか徐々に人気が出始めている。入店時から面倒を見てやっていたせいで、今ではすっかり懐かれてしまい、頼んだわけもないのに静夜の身の回りの世話から、スーツのクリーニング、そして店へ出入りする際の警備まで、自身の仕事の合間を縫って彼に尽くしている。
店長やマネージャーは、彼の目に余る行動に最初のうちは苦言を呈していたが、今では静夜専属の付き人としていろいろなことを彼に任せるまでになっていた。
しかし、数日前のあの夜、偶然か必然か――剣斗は休暇を取っていた。
静夜にとっては後輩の剣斗に情けない姿を見せずに済んだと胸を撫で下ろしていたが、噂は彼の耳にも入ってしまったようだ。
ピーッという電子音と同時にマシンが停止し、静夜は手摺に掛けておいたタオルを手にマシンを降りた。
「――バカなこと言ってないで、お前は自分のメニューこなせよ。最近、食いすぎてるって言ってただろ?」
「大丈夫っす。俺、チンチン代謝……あれ? チンシン代謝いい方なんで」
「それを言うなら新陳代謝だろうが……。俺、ちょっと休んでくる。サボるなよっ」
呆れ顔のまま、トレーニングルームの一画に設けられた休憩室へと向かう。三方をガラスで仕切られた部屋にはゆったりと座れるソファとテーブル、そしてジムのメンバーであれば誰でも無料で飲むことが出来るドリンクコーナーが用意されていた。
ワンコ体質の剣斗は愛嬌があって可愛いが、時に煩わしく感じる時もある。
あの衝撃の夜から数日を経て、やっと気持ちも落ち着き、普段の生活を取り戻したという時に、またあの話をぶり返されるとあの男の顔がチラついて、胃の奥のあたりがキューッと締め付けられるように痛くなる。
常温のミネラルウォーターのボトルを手に、ソファに腰掛けた静夜はゆったりと背中を預けて天井を見上げた。
真鍋広武――調べてみれば、ただのIT企業の社長ではなかった。三十歳という若さで他業種に精通し、ここ数年は自らが代表を務める会社を母体に、あの街の高級クラブをいくつか買い上げてサービス業にも力を入れている敏腕青年実業家。
裏で街を取り仕切っている強大な組織とも繋がりがあり、そのコネクションを使ってクラブの買収がトラブルもなくスムーズに進行していると聞く。
そして――高級ホストクラブ『デウス』にも、彼の傘下に入らないかという打診があったようだ。
オーナーは自身が築いた城を、そう易々と他人に手渡すものかと首を横に振っているようだが、彼に買収されたクラブの売り上げは今までの比ではないと聞く。
しかし、ただの会員制クラブであればそういった経営改革を行うことは安易だが、裏の顔を持つ『デウス』ではそう簡単にはいかない。法の目を掻い潜り、各界の大物を取り込んでの綿密な裏工作は、今のオーナーの人脈があってこそ成り立っている。いくら精通しているとはいえ、素人が手を出していい仕事ではない。
一度でもしくじれば、すぐに強制捜査が入るだろうし、摘発されればスタッフや関係者は無傷では済まない。
あの街には暗黙のルールというものが存在する。だからこそ、ウリ専を生業にして生きる若者が自分の場所を見つけられるのだ。それが、一般社会から逸脱したLGBTというマイノリティを持った者であれば尚更だ。
静夜も、物心がついた時には女性を愛せなくなっていた。嫌いと言うわけではない。必要に応じれば抱くことも出来る。しかし……体と心は拒絶してしまうのだ。
童貞を失うより前に、バックバージンを失った。まだ小学生の頃で、相手の顔は今となっては思い出せないが、自分よりも年上でやたらとチ〇コの大きな奴だったことだけは記憶に残っている。未だに、あれほど衝撃的で『気持ちいい』と思ったことはない。誰に抱かれていても、性感帯に触れられれば感じることも絶頂を迎えることも出来る。でも――心は満たされてはいない。
熱い一夜を過ごし恋人であった時間が終わる時、自分を抱いた男は客であり、金で買われたことを思い知る。
仮初めの恋人、何度も囁かれる愛の言葉は全部――嘘。
それでも客は、あの街の頂点に立つ『デウス』のナンバーワンホストを抱いた……と優越感に浸る。
「またね……」と笑みを浮かべて客を見送り、その背中を見つめている時に突然襲われる猛烈な虚無感。
「――因果な職業だよな」
ボソリと呟いてミネラルウォーターを一口仰ぐ。
あの時、頭に血が上って広武に敵意を剥き出しては見たが、自宅マンションに帰って朝日が差し込むリビングに足を踏み入れた時、静夜はその場に崩れ落ちた。
金さえ払えば脚を開く発情ネコ……。
男の精液の匂いをシャネルの香水で誤魔化して、女王様気取って相手を支配したつもりになってる。
(クズは俺じゃないか……)
店ではお高くとまっていても、家に帰れば自己嫌悪だらけのヘタレホストに変わる。
力なく脚を投げ出したままぼんやりとしていると、頭上から不意に低い声が落ちて来た。
沈んだ瞼を持ち上げ、すぐにネガティブモードを抑え込んだ。
「お疲れさん。今日も頑張ってるねっ」
「塩島 さん?」
「最近アタリがなくてさ。ここ、結構若い子が来てるから顔だけ出してみようかと思って」
トレーニングルームでは完全に浮いているスーツ姿ではあるが、彼の気さくな笑顔には癒される。
『デウス』を始めとする高級ホストクラブ専門のフリーのスカウトマンで、店から依頼があれば街に出て、将来才能を開花させそうな若者に声を掛ける。
彼もまた、あの街ではその名を知らない者はいないというほどの有名人で、彼の琴線に触れた者は必ずと言っていいほどトップクラスへと昇り詰める。塩島のお陰でナンバーワンになったホストは数知れず、ホストの間では神的存在であることは間違いない。かくゆう静夜も、彼にスカウトされた一人だ。
塩島はアラフォーであるが、仕事柄のせいか実年齢よりも若く見られることの方が多い。
「ホント、忙しい人だよね。――俺以上のヤツ、見つけたらタダじゃ済まないからね」
「静夜を超える子はなかなかいないよ。お前が特別すぎて、ビビッてあとに誰も続かない……。まあ、店単位では、ぼちぼち頭角を見せ始めてる子もいるけどね」
「マジで? 呑気にしてる暇ないね」
「まあ、ホストもキャバ嬢もそうだけど『旬』は短いもんだ。歳を取ることは絶対に避けられないし、体だって若いままではいられないからな。お前、いくつになった?」
「二十六……」
「そろそろ落ち着いてもいい頃だな。殿堂入りを決めて女王様の座を譲り、悠々自適に『デウス』のエグゼクティブ・マネージャーにでもなればどうだ? 誰も文句は言わないだろうし、お前は絶対的権限を持つことが出来る。若い子を好きに動かして、金儲け出来ればそれにこしたことはないだろう?」
「イヤだね。俺のイスは絶対に譲らない……」
「お前のそういうところ、好きなんだよなぁ……。ところで。最近、客取ってないってマジか?」
「情報、早いね……」
「当たり前だ。その理由も知ってる……。お前、まさか本気であの真鍋社長を落とそうとか思ってるわけじゃないだろ?」
「え? 俺、本気だけど……。あれだけプライド傷つけられて、黙ってろってか? 絶対に土下座させて「抱かせてください」って言わせてやる」
「――やめとけ」
それまで和やかな雰囲気だった塩屋の顔がいつになく厳しくなり、声も途端にトーンダウンした。
あの街の事ならば、かなりディープなところまで知り尽くしている塩屋の言葉は無下に出来ない。しかし、静夜の決意は揺らぐことはなかった。
「やたらと高級クラブばかりを買い上げてる彼のイイ噂は聞かない。それに、お前を指名したのも『デウス』の買収絡みだって聞いてる。彼が何の目的でお前を煽ったのかは分からないが、関わるとロクな事にはならないぞ」
「買収とか、黒い噂とか……俺には関係ない。俺はただ、あの男を跪かせたいだけ。女王様と言われてるナンバーワンホストをナメるなっ」
鼻息荒くミネラルウォーターを仰ぐ静夜を見つめ、諦めたように大きなため息をついた塩屋は、胸元に手を入れて名刺ケースを取り出すと、その中から一枚抜き取って静夜に渡した。
指先でそれを受け取った静夜は、わずかに目を見開いて塩屋を見つめた。
「これって……あの男の?」
会社代表として営業用に使われている名刺で、会社名、肩書はもちろんのこと、直通の携帯番号が上質な厚紙に印字されている。まるで彼の性格を表しているかのようなきっちりとした字体を選んでいるところが、静夜の胸をざわつかせた。
「そ……。あの街で噂話を信じることは身の破滅を招く原因になりかねない。ナンバーワンのお前が、客も取らずに彼にそれほど入れ込んでいるというなら、その目で真実を見極めて来ればいい。もし会いに行くのなら、アポは忘れるなよ」
「塩屋さん……」
ポンッと静夜の肩を軽く叩いて背を向けて歩き出した彼は、ふと何かを思い出したかのように足を止めて振り返った。
「――ホントはさ、俺も期待してるんだよ。お前が、あの傲岸なオレ様男の鼻先をへし折るの……。そしたらさ、間違いなくお前は認められる。絶対的なキング――いや、クイーンになれる。スカウトした俺も鼻高々ってわけだ」
普段から心持ち上がった口角をさらに引き上げて、塩屋はニヤリと笑って見せた。
その笑みに応えるように、静夜も自信あり気に唇を綻ばせ、指先に挟んだ広武の名刺を弄びながら、長い前髪をグシャリとかき上げて言った。
「任せとけ。今度はアイツのプライドを粉々に打ち砕いてやるから」
「期待してる……」
いつになく楽しそうな塩屋の背中を見つめながら、静夜はガラスの向こう側でブラインド越しに差し込む眩い太陽の光に勝気な栗色の瞳をすっと細めた。
夜の街だけに生きてるんじゃない――。互いの昼の顔を見たってルール違反にはならないはずだ。
静夜は、トレーニングルームで汗を流す剣斗にチラッと視線を向け、勢いよくソファから立ち上がった。
そして、彼に何も告げることなくその場をあとにした。
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