3 / 8

【3】

 仕事で多忙な広武にアポイントメントを取り付けるのは至難の業だった。しかし、他の人に言わせれば静夜に対してかなり譲歩しているようにも見受けられた。  有名建築家が手掛けたオフィスビル。その中にある応接室に通された静夜は、革張りのソファに浅く腰掛けて、落ち着かない様子で出されたコーヒーを口に運んでいた。  こういう場所が慣れていないわけでは決してない。ただ、これから会う相手が広武というだけで胸がざわつき、余裕をなくしていた。  控え目なノックの音と同時に木製のドアが開き、姿を現したのはダークグレーのスリーピースに身を包んだ広武だった。あの夜の雰囲気とはまるで違う。あくまでも経営者としての顔を見せる彼に圧倒され、静夜は小さく息を呑んだ。 「――お前がここに来るなんて、どういう風の吹き回しだ? それとも……どうしても抱いて欲しくて体が疼いたか?」 「ば……バカなこと言うな。俺は、アンタが俺の事を抱きたくてウズウズしてるんじゃないかと思って、その顔を見に来ただけ。あんな大見得を切っておいて、実は……的な感じなんじゃないの?」  優雅な所作でテーブルを挟んだ向かい側に座った広武がわずかに目を細めて笑う。  その表情に、静夜は一瞬動きを止めた。 (この顔……どこかで?)  前回会った時には感じられなかった既視感に、強気な態度を見せながらも戸惑いを隠せなかった。 「もっと素直になったらどうだ? 強情なだけの男は可愛げがない」 「はっ! アンタに言われたくない。そういう俺が好きだって言ってくれる人は腐るほどいるわけ。アンタが嫌でも俺は一向に構わない」  足を組みかえて、横柄な態度を見せる静夜に対し、広武はそんな彼に断りを入れることなく内ポケットから煙草を取り出すと、長い指先で一本引き抜いて唇に咥えた。  あの夜、不本意ではあったが、静夜を蕩けさせた薄い唇からゆるりと吐き出される煙に目を奪われる。  それを意識してか、舌先をわずかに覗かせては美味そうに煙草を吸う広武の姿に、次第に訳の分からない苛立ちが募っていく。  何をやっても、どんな動きをしてもサマになる姿をわざと見せつけられているような気がして、蓋を開ければ劣等感ばかりの静夜の心を大きく揺さぶった。 「ムカつく……」  思わず口から零れてしまった心の声に、目を伏せていた広武が視線をあげた。 「ふふっ。ナンバーワンホストよりもカッコいい俺を目の前にして、何も言えないからか?」 「自惚れるなっ」 「戦いを挑んでみたものの、勝ち目がないと悟った顔してるぞ」  煙草を灰皿に押し付けながら、楽しそうに笑う広武は心底性格が悪い。自意識過剰にもほどがある。  それに、あっさりと静夜の本性を見破ってしまうあたり、やはりタダ者ではないという事は頷ける。  静夜は図星をさされ、反撃の機会を伺うべく唇を噛んだまま彼を睨みつけていたが、何を思ったか着ていたジャケットを脱ぎながら立ち上ると、広武のもとへと歩み寄った。  そして、彼の顎を指先で持ち上げると、まだ煙草の香りの残る薄い唇を軽く啄んだ。 「――何の真似だ?」  別段驚いた様子もなく、抑揚のない声で問う広武に対し、静夜は真正面から彼を見据えてこう言った。 「あのさ。ホントは俺の事好きなんだろ? 好きなら好きってハッキリ言ったらどうなんだよ。小学生じゃあるまいし、いちいち回りくどい言い方とかやめろ」 「お前はどうなんだ?」 「アンタみたいな男、好きになれるはずないだろ」  ソファに片足を掛けて、グッと顔を近づけて息巻いた静夜だったが、その勢いは十数秒後に呆気なく逆転された。  手首を掴まれ、腰に手を回されたままソファに押し倒された静夜の唇を、節のある長い指がゆっくりとなぞった。胸元にかかる彼の重みと、ふわりと爽やかな甘さを含んだ香りが静夜を包み込む。二人分の体重を支えるソファがギシリと軋んだ。  鼻先がぶつかるほど顔を近づけて、彼は吐息交じりに囁いた。 「――興味のない男をここまで煽ることはしない」 「どうせ、店の買収絡みで俺に近づいてきたんだろ? この腹黒男がっ」 「店の買収はビジネスの一環でしかない。俺は『デウス』が欲しいわけじゃない。お前が欲しいだけだ」  どこまでも直球でブレのない男なのだろうか。  相手を煽るつもりで振った言葉――その答えは実に真剣で、熱を孕んだものだった。  遊び慣れている広武の事だ。こんな歯が浮くようなセリフを真面目な顔で、しかも男相手にピロートークの様なノリで囁くことなど造作のないことだろう。甘さを含んだ低い声で囁かれれば、ここが応接室であろうとも落ちない者はいない――そう、静夜に思い知らせたかっただけなのだろう。  それなのに……心臓は高鳴り、きゅうっと締め付けられる。微かな痛みは遠い昔、まだ純粋だった頃の自分を思い起こす。  しかし今は、そんな感傷に浸っている状況ではない。危うく彼のペースに巻き込まれそうになった自分を奮い立ったせ、静夜は努めて落ち着いた口調で言った。 「――あのさ。そのセリフで何人のバカが落ちた?」 「さあな……」  そう言いながら、大きく開かれた静夜のシャツの襟元に顔を寄せ、くっきりとカーブを描く鎖骨に唇を押し当ててから、一度だけスンッと鼻を鳴らした。  薄いシャツの生地を押し上げるように尖ってしまった乳首に指先を這わせ、広武は堪らないというように大きく息を吐いた。 「精液の匂いがしないな……。客を取るのをやめたのか?」 「そんなこと、どーだっていいだろ? 話を逸らされるの、俺、一番嫌いなんだよね」  彼の肩に手を掛けて押し退けようとする静夜の耳朶を、広武の歯がやんわりと噛み、その動きを制した。 「――いい子だ。湊太(そうた)」  不意に鼓膜を震わせた彼の声に、腰の奥から背中にかけて今までにない甘い痺れが駆け抜け、混乱ばかりの静夜の脳を激しく震わせた。 (なんで……俺の名前を?)  男娼を生業とする者は、本名を客に明かさないのがルールだ。トラブルが起きた時に個人情報の流出を防ぐことはもとより、法に触れるギリギリの仕事ゆえの理由がある。  だから静夜の本名は、経営に携わる者以外のスタッフさえも知ることはなかった。もちろん、静夜も他のスタッフの本名を知ることはなかったし、知ろうとも思わなかった。  これほど厳重に守られてきたはずの本名を、一夜限りの客が知ることなどまずあり得ない。  彼が名を知っていることにも言葉を失った静夜だったが、何よりその響きに驚きを隠せなかった。  ここ何年も恋人という存在は不要なものだと思って来た。だから、性欲が満たされれば感情など煩わしいだけのモノだと言い聞かせて来た。  だから――『デウス』のナンバーワンホストとしてやって来られたのかもしれない。  特定の男に心を開いてしまった時、女王としての地位は大きく揺らぐ。  ただでさえ落ち着かない心臓を鷲掴みにされたような衝撃と戸惑い、そして恐怖が静夜を襲った。  丁度、シャツの襟で隠れる首の付け根に唇を押し当てられ、次の瞬間チリリとわずかな痛みが走った。  大切な商売道具である男娼の身体に、キスマークをつけることも暗黙のルール上では禁止されている。  それを知っていて、何の衒いもなく自分の所有物のように情痕を残した広武に憤りを感じた。それなのに静夜の口から洩れたのは熱っぽい吐息と「あぁ……」という小さな喘ぎだけだった。  鎖骨をなぞる様に舌先を這わせ、顔を上げた広武はわずかに開かれたままの静夜の唇をそっと塞いだ。 「うぅ……っん!」  呆気なく絡めとられた舌がピチャリと小さな音を立てる。下半身がゾクゾクするような彼のキス。  意思とは関係なく力を蓄えてしまうペニスを隠すように、静夜は両足を摺り寄せて内腿にギュッと力を入れた。 「はぁ……ぁん」  ブラインドは閉められてはいるが、細く射し込んだ光が平日の昼間だという事を教えてくれる。  ここは夜の歓楽街のど真ん中。『デウス』のVIPルームではないのだ。  それなのに部屋に充ちる空気は濃厚で、二人の香水が重なり合うように淫靡な香りを放つ。  本来、甘い蜜を振りまきながら誘うはずの花が、今はふらりと現れた蝶に惹かれている。  その蝶は、他のどの蝶よりも美しく強烈なオスの色香を放つ。  銀色の糸を引きながら離れた唇はまだ、あの夜のように震えていた。 「――お前は俺のモノだ。この唇も……」 「ん……っ」 「他の男とのキスは許さない……いいな?」  人を見下して、すべてを支配するような傲岸な物言い。静夜が望む、足元に跪いて磨かれた靴に頬を寄せ懇願する彼の姿とは程遠い。しかし、組み敷かれて彼の所有印を残され、挙句の果てには客とのキスまで禁じられた今――なぜか心地いい。  静夜にそういった属性は思い当たらないが、広武にこうされることを心のどこかで望んでいた自分がいる。  その場の雰囲気に流された……という言い訳が通用しないほど、静夜の中で広武の存在が急激に大きく膨らんだ瞬間だった。  胸に圧し掛かっていた重みがゆっくりと消えていく。だんだんと冷めていく肌の熱に寂しさを感じて、静夜は唇を噛んだまま顔を背けた。  離れていく間際、彼の野性的な瞳に憂いを見たような気がして、静夜は胸が苦しくなるのを抑え切れなかった。  金色の髪がソファに散らかり、なぜか長い睫毛を透明の滴が濡らした。 「――俺のせいでナンバーワンの売り上げが落ちたと文句を言われるのも癪だ。今度、一緒に食事にでも行こう。もちろん、アフターで」  今までにない優しい声色でそう言った広武は、自らのネクタイを整えながら部屋を出て行った。  何も言わず、静かにドアが閉まる音を聞いていた静夜は、細く長い指先を軽く曲げて革のソファに爪を立てた。  綺麗に磨かれた爪が、微かに白い擦り傷を残しながら動くのをぼんやりと見つめる。 「――俺が、バカ……なのか」  息を呑むほどの端正な顔立ち、低く甘い声、強烈なオスの色香に歯が浮くようなセリフ……。その反面は、傲岸不遜で絶対的な支配力を持った腹黒策士。  そんな男に口説かれて落ちたヤツはバカで単純だと――思った。  分かっていたはずなのに、抗うことが出来なかった。  ナンバーワンホストの地位が揺らぐと分かっていても、止められなかった。  客やスタッフに対して完璧に装うことは出来ても、自分の心だけには嘘はつけなかった。 『抱かれたい……』そう思ったのはいつぶりだろう。記憶の糸を辿って、やっとその端を掴んだ時、静夜の脳裏に浮かんだのはあの男だった。  自身の初めてを捧げたチ〇コの大きな年上の男――幼い体に強烈な快楽を教え込まれ、抗えないほどの何かをくれた。 「何かって……なんだよ」  それがどうしても思い出せない。メリメリと音を立てて後孔を割り裂いて侵入したあの時の痛みも、快感も、感触もハッキリ思い出せたというのに……。  沈黙と、彼が置いていった微かな残り香の中で、静夜はソファの上で思い切り体を伸ばした。  首の根元に未だに留まったままの熱と、激しい唇の感触を思い出しながら、ゆっくりと目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!