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【4】
「はっ、は……っ。んん……んあっ」
ダブルベッドの片隅で背を丸めるようにして体を痙攣させた静夜は、自身の手にねっとりと絡みつく精液の熱さに胸を喘がせた。
緩いTシャツを着たまま、しっとりと汗に濡れるシーツに体を横たえ、ヒクつく後孔に手を伸ばして、ふと躊躇う。
今まで数えきれないほどの男性客を相手にしてきたとは思えないその場所は、穢れを知らない処女のような淡いピンク色で、慎ましく薄い襞を閉じている。それなのに、この体のどこよりも貪欲で食い締めて離さない。
いつものルーティンならば、精液の滑りを利用して指を徐々に増やしながら二度目の絶頂を迎えるところだ。しかし、静夜は蕾の入口を数回指先で撫でただけで、その手を下ろした。
気怠い体をのそりと起こして、サイドテーブルに置かれたボックスティッシュに手を伸ばし数枚引き抜くと、つるりとした下腹に散った白濁を乱暴に拭った。
「悔しい……。ムカつく……。虚しいっ!」
あの日から、広武の影が脳裏にチラつき、振り払おうと足掻いても消えてはくれない。
有言実行。彼はあの日を境に再び『デウス』に数回訪れていた。だが、VIPルームを使うことはなく通常のフロアで数人のホストを侍らせ、シャンパンを飲みながら他愛のない会話を交わす。
そして、それに飽きた頃、いつものように静夜をVIP指名し、会計を済ませると夜の街へと繰り出すのだった。
静夜にしてみれば納得のいかない事ばかりだ。自分よりもはるかにナンバーステータスの低いホストを指名して、高いシャンパンを数本オーダーする。その売り上げは自動的にテーブルに着いた者のモノとなり、少しずつではあるが真鍋広武の名を借りてランクアップしていく。
下から追い上げられるという危機感はまだないが、売り上げ実績の大半を占めるオーダーを静夜以外の者にするあたり……。静夜をテーブルに呼ぶのは来店当初からではなく、店を出る直前――アフターのみの指名。
あんな騒動があった後で、店のスタッフからは「和解したのか?」とか「まさか付き合ってるんじゃ……」という憶測が飛び交い、彼と一緒に店を出る時のバツの悪さといったらない。
店長やフロアマネージャーと顔を合わせるたびに二人の関係をしつこく聞かれ、いい加減うんざりしていた。
彼らが心配するようなことは一切ない。ただ、広武があらかじめ予約しておいたホテルのレストランでゆったりと食事と会話を楽しみ、店でラスト勤務して帰宅するよりも早い時間にマンションのベッドで眠っている。
表向きの店の規定通り、アフターで彼との体の関係はない。ただ、キスだけは許可されているが、別れ際に軽く唇を合わせるだけに留まっていた。
あの日、静夜が彼に抱いた感情は日に日に大きく膨れ上がり、今では彼の全てを圧迫していた。
昼も夜も広武の事ばかりを考え、接客中でも彼が来る日は落ち着かず、マネージャーに注意されることが多くなった。
「ナンバーワンとしての自覚を持ちなさい」
そう言われるたびに、自身の地位とはそれほど大切なモノなのか? と考えるようになるほど、静夜は広武に溺れていった。
本来、ホストに入れあげ財産を使い果たし、最悪の場合は飛んでしまう客もいる。そういう客のツケを払うのは担当したホストになるわけなのだが、今回は異例中の異例。しかも、ナンバーワンである静夜が客である広武に熱をあげているのだからどうしようもない。こんなことは立場上、口が裂けても店の者には言えない。
食事を終え、淡い期待を抱く静夜を知ってか知らずか、それまでド鬼畜のように振る舞っていた彼は、じつに紳士的にキスをして静夜がタクシーに乗り込むまで見送ってくれる。
静夜が彼に求めているものはこんな事ではない。確かに、客にちやほやされて傅かれるのは嫌いじゃない。
でも――何かが違う。
あの野性的な瞳を滾らせて、牙を剥かんばかりに組み敷いて滅茶苦茶にして欲しい。
荒々しく唇を割って舌を絡め、淫らに喘がせてほしい。
そんな願いも虚しく、静夜は夜な夜な自分で慰めることが多くなった。広武の息遣い、舌の感触、眩暈がしそうなほど甘い声と香り。それを脳内再生しながらの自慰はすぐに達することが出来る。しかし、後に残るのは虚しさと、胸を締め付ける苦しさだけだった。
「広武……」
そう呟いて、自身の本名を囁いた時を思い出す。そのたびに既視感を覚え、記憶を辿ってみるが思い出すことが出来ない。
彼の思わせぶりな態度も、ここまでくると怒りを通り越して逆に不安になってくる。
「抱いて……っておねだりしたら、抱いてくれるかなぁ」
ボソリと呟いて、慌てて首を横に振る。そんなことは自身のプライドが許さない。
如何なることがあろうとも、自身はナンバーワンホストであり、誰もが崇拝する女王様でなくてはならないのだ。
そんなモヤモヤがそろそろ限界を突破しそうになった、とある夜――静夜は広武にドタキャンされた。
こんなことは今まで一度もなかった。しかし、こちらが逢いたいと願ったわけでもなく、客としての広武の都合を責めることは出来ない。
「静夜さん、飽きられたんじゃないっすかね? そろそろ『旬』も終わりでしょ!」
「しっ! 聞こえるだろっ」
隙あらば自分の座を狙うホスト達の声が嫌でも聞こえてくる。そんな彼らから庇うように、剣斗がそっと寄り添ってくれた。普段はチャラいが、こういう時は頼りになる。
悔しさと寂しさ、それをはるかに上回る不安に苛まれ、静夜は針のむしろの様なツラい勤務時間を終え、彼に支えられながら店を出ようとした。
「静夜さん……。アイツらの言う事は気にしない方がいいっすよ。ただのやっかみですから。真鍋社長だって忙しい人なんでしょ? 急な仕事とか入ったんじゃないですかね」
「でもさ。キャンセルとか……あり得ない」
「あの……。俺がこんなこと言うのはどうかと思うんですけど。静夜さん、もしかして真鍋社長に恋とかしちゃってます?」
「――恋? あぁ……恋かぁ」
剣斗にそう言われて、静夜の中にあったモヤモヤがシャボン玉のように弾け飛んだ。
胸が苦しくて、絶対に抗うことの出来ない感情。
それを経験したのは、バックバージンを捧げた年上の男。きっと彼に抱いていた感情は恋だったに違いない。まだ小学生だった静夜は、何とも表現出来ない燻ったままの想いを彼に告げることなく離れ離れになってしまった。あれが初恋というのなら、広武に抱いているこの想いは二度目の恋という事になる。
「スタッフ同士はもちろん、客との色恋沙汰は禁止されてますからね。バレたらマズいっすよ」
「恋……なのかなぁ。俺、イマイチ良く分かってないんだけど……」
店の前の歩道に立った剣斗がタクシーを拾おうと手を挙げるが、今日に限ってなかなか止まってくれない。
剣斗は小さく舌打ちをしながら、茫然と立ち尽くしている静夜の肩を抱き寄せてゆっくりと歩き出した。
「スイマセン、静夜さん! ちょっと歩きますけど……いいですか?」
「構わないよ。別に急いでないし……」
深夜になっても人通りが途絶えることがない街。ネオンが輝き、ありとあらゆる人種が溢れる。
煌びやかに着飾った街も、裏を覗けば金と欲に塗れた汚い世界。
その中で咲いた妖艶なバラに皆、視線を投げかける。すれ違ってから何度も振り返る者、以前店に来た客、そして顔馴染みのホストやキャバ嬢。
この街で静夜を知らない者はいない。だからこそ、本当はショックで泣き崩れそうになっている自分を奮い立たせる必要があった。
優雅な笑みを湛えて歩く静夜ではあるが、他店のホストからの羨望と妬みが入り混じった視線にいつも怯えていた。いつ刺されてもおかしくない――そう思って生きて来た。
この界隈では会員制のホストクラブは比較的多いが、男娼館も併設している店は『デウス』同様、営業年数も長い。その中の一つ、ライバル店の『レークス』から出て来た長身のホストに気付き、静夜は足を止めた。
「どうかしたんですか?」
突然立ち止まった静夜を心配してか、剣斗が顔を覗き込んだ。そして、静夜の視線の先を追うように道路の反対側に目を向けると、そこには『レークス』のナンバーワンである黒咲 瞬 と、彼の腰を抱き寄せるようにして身を寄せ合って歩く広武の姿があった。
剣斗は慌てて静夜の前に立ちはだかると、何も言わずに静夜を抱きしめた。
長身の剣斗の胸元に顔を埋めた静夜は、目の前で起きている現実を受け入れることが出来ずにいた。
「――退けよ」
「イヤですっ」
「剣斗、俺の言う事が聞けない? こんな屈辱、あり得ないだろ……。俺よりも、黒咲の方が良いっていうのか?」
「違いますって! きっと『レークス』も真鍋社長が買い上げるつもりなんじゃないですか? そうじゃなきゃ……っ」
「そうじゃなきゃ……なんだよ! 俺の方をドタキャンして……。ど、して……思わせぶりな、ことばっかり……するんだよっ」
静夜は剣斗のジャケットの合わせを掴み上げると、髪が乱れるのも構うことなく彼の胸元に額を押し付けて声を震わせた。
鍛えられ、薄く筋肉のついた背中を抱く手に力が入る。剣斗の手は温かかったが、静夜が求めてやまない熱とは全く違っていた。そう――心も体も蕩けてしまいそうな広武の熱は、今はここにはない。
ギューッと何かに締め付けられるように心臓が痛い。怒りのせいか、こめかみで血管が脈打つ音が聞こえる。
見たくなかった……。
あの広武の事だ。『レークス』がライバル店であることも、黒咲が次期女王を狙っていることも知っているはずだ。それなのに……。
「静夜さん。マジでスミマセン! 俺……すぐにタクシ―拾えば良かった」
「お前のせいじゃねーよ。あの男が全部悪い……」
もしも『デウス』の関係者にあの二人の姿を見られてしまったら……。背筋がゾクリとした。
今の静夜と広武の関係には不審な点が多く、誰もが一線を引き始めている。この事がバレたら、静夜の地位は確実に揺らぎ、足元を掬われるだろう。
「――なぁ、剣斗」
「はい?」
「この事は店の連中には絶対に言うなよ」
「言いませんよ……。でも、静夜さんっ」
「ん?」
「お願いですから、無茶な事だけはしないでくださいね。俺がフォローしきれないようなことだけは……」
グスッと小さく鼻を啜り上げた静夜は、顔を上げることなく言った。
自分でも驚くほど、先程までの震えはピタリと収まり、恐ろしいほどに冷静な自身がいる。
混乱していた頭は冴え渡り、心臓の痛みも高鳴りも消えた。
「お前には迷惑かけない……から」
広武と黒咲はこれからどこへ行くのだろう。表向きはアフター、でも向かう先はホテルかもしれない。
黒咲も静夜と同様、各界のVIPな固定客が付くほど人気がある男娼だ。
男らしく、野性の獣の様なしなやかな体躯を持つ彼を抱いた者は、他の者を抱けなくなるほど溺れると聞く。
アソコの具合がどれほどのモノかは知らないが、静夜とはまるでタイプの違う男だという事だけは確かだ。
客によって好みは違う。しかし、彼が応接室で言ったセリフを黒咲にも言ったのかと思うと、腹が立って仕方がない。広武の思わせぶりな言動は相手を本気にさせる。やはり黒咲にも同じ手を使ったのだろう。
「――静夜さん?」
急に黙り込んだ静夜に、剣斗は恐る恐る声をかけた。
負けず嫌いで、先輩ホスト達の陰湿ないじめにも耐え、今の地位を築いてからは不動のナンバーワンである静夜が泣いたところを初めて見た剣斗は動揺を隠せなかった。
抱き寄せた手に伝わったのは嗚咽を押し殺すための震え。気丈に声を発していると分かったのは、いつも一番近くにいて静夜を見ているから。
絶対的な人気と美貌、そして何が起きても揺るがない自信とプライド。それが彼にとって最強の武器のはずだった。
振りかざした剣は刃こぼれをおこし、身を守るための盾は真っ二つに割れた。
真鍋広武という男との出会いが彼の全てを変えてしまったのだ。
「静夜さん……」
もう一度声を掛けてみる。すると、静夜はのそりと顔を上げて、真っ赤に充血した目で剣斗を睨みつけた。
くっきり二重の大きな瞳は涙で潤み、長い睫毛にも滴が光っていた。
「――コンタクト、マジ……いてぇ」
「は?」
「も、帰るわ……」
「はぁ……」
テンションが急降下し、口調も投げやりになる。ぐっと剣斗の胸を押し退けるようにして体を離した静夜は、ゆらりと歩き出した。その背中がまだ小刻みに震えていることに気付いた剣斗は再び声をかけたが、もう振り向くことはなかった。
あの涙に濡れた瞳は、決してコンタクトレンズなんかの痛みではない。もっと深いところ――そう、彼の心の痛み。
普段見せることのない彼の弱さを目の当たりにした剣斗は、なぜか自分のことのように胸が締め付けられるのを感じた。
すれ違う人々の好奇の視線に晒されながら歩く女王の姿に、彼もまた目にうっすらと涙を浮かべていた。
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