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【5】

『デウス』で毎晩行われているサービスタイム。特に時間は決められてはいないが、フロアマネージャーの合図でシックで落ち着いた店の雰囲気がガラリと変わる。  高額なシャンパンのオーダーが次々に入り、フロアのいたるところでコールが聞こえ始めると、客のテンションも上がっていく。スタッフが煽れば煽るほど、客の財布の紐は緩み、理性も弾け飛ぶ。  この短い時間の間に、どれだけこの後の指名を入れてもらうことが出来るか……。新人は自分を知って貰うためのアピールに専念し、中堅は時に色仕掛けも厭わない。ホスト達にとってこの時間は、いわばプライドを賭けた客の争奪戦となる。一晩に数十万稼ぐ者もいれば、閉店まで店に残る者もいる。  売り上げはホストの命であり、ランクを上げるためには太客を自分の懐に抱え込むことが重要になってくる。  そんな騒ぎの中、スタッフルームから続く大理石の床に硬質な靴音が響いた。  まるで、客を煽るコールが自身に向けられたものであるかのように、ゆったりとした足取りで優雅にフロアに現れたのは静夜だった。  スワロフスキーのシャンデリアが放つ虹色の光を金色の髪に浴び、細身で光沢のある黒のスーツに素肌に纏ったシースルーの白いシャツといったいで立ちで現れた彼。指にはシルバーのリングを嵌め、耳元で揺れるピアスもリングと同じブランドで統一している。いつもよりも美しく、そしてどこか憂いを秘めた彼の白い肌から香るブルードゥシャネルがふわりとフロアに拡がった。 「静夜さん?」 「え……? 今日は休むって言ってなかったか?」 「マジかよ……」  予想外の真打ちの登場に、躍起になっていたホスト達の間に動揺が走る。  そう――静夜は今夜、この店に来る予定はなかった。体調が優れなかったのも、気分がアガらなかったのも嘘じゃない。  でも――もう、限界だった。  マンションで一人、あの男の事を想っては泣き崩れ、そして自己嫌悪に陥る毎日に終止符を打つべく、彼は完全武装でフロアに出た。  広武のキスの感触を思い出しては泣きながら自慰に耽り、バカだと自分を罵りながら幾度も達し、手を濡らす白濁を見て強烈な虚無感に襲われながらまた泣いて……。  彼の名刺とスマートフォンを交互に見つめ、何度も番号を押しては躊躇って消した夜。  こんな情けない自分を認めたくなかった。でも、ぽっかりと開いてしまった心の穴は、そう簡単には塞がってはくれなかった。  広武が超絶イケメンで、自分の好みであることは認める。だから、一目見たあの夜に落としたいと思った。  飽きたら、いつものように見切ればいい……そんな軽い気持ちだったはずなのに、なぜか落とされたのは自分だった。  思わせぶりな言動、腰が砕けるようなキス、そして――自身の本名を囁いた低い声。  きっと黒咲だけじゃない。他の店の男にも同じことをしている。頭では分かっていて何度も言い聞かせるのに、それを否定し続けるもう一人の自分。  客に体と至福の時を与えて稼ぐウリ専ホスト。その一方で、仕事だと割り切った体と心を満たして欲しいと願う自分。その狭間で揺れ続けた静夜は、眠れぬ夜過ごした。  望んで手に入らないものはなかった。欲しいものは客が嫌というほど貢いでくれた。  でも、それはナンバーワンホスト水城静夜が満たされているに過ぎなかった。  本当の自分――辻本湊太は何一つ手に入れていない。  客に抱かれたあと、素の自分が何度も責め立てる。「それで満足か? これで満たされたのか?」――と。  だから……壊しに来た。何もかもをぶち壊して、苦しみから一刻も早く逃れたかった。 「盛り上がってるね……。今夜は、お前らの邪魔をするつもりで来たんじゃないから安心して」  薄っすらと笑みを湛えながら、テーブル席を見回して舌先で唇をゆっくりと舐めた。まるで品定めでもしているかのような彼の仕草に、フロアマネージャーが背後から近づき小声で彼を制した。 「静夜さん。これは何の真似ですか?」 「ちょっと面白い遊びを思いついたんだよね。だからさ……来たんだよ」 「遊び?」  フロアの奥のバーカウンターにいた剣斗が静夜の姿を見るなり慌てて歩み寄る。不安げな目で見つめる彼に、静夜は「心配すんな」と一言だけ告げると、ジャケットを脱ぎながらフロアの中央に足を進めた。  先程までの盛り上がりが嘘のように静まり返ったフロアに静夜の凛とした声が響いた。 「俺とセックスしたいヤツ、いる? 今夜は滅茶苦茶にして欲しい気分なんだよね。何人でも相手するからさ、抱いてよ」  うっとりと目を細め、焦らすように舌を見せて誘い、細い腰を揺らめかせる。  眩い照明の下でも十分に匂い立つ彼の色香に、誰もが生唾を呑み込んだ。 「――VIPルームで待ってる。ちょっと気が立ってるから早く来て……」  そう言い残すと、脱いだジャケットを引き摺りながらフロアの奥にあるVIPルームへと向かった。水を打ったように静まり返ったフロアでは、誰もが顔を見合わせていた。  ナンバーワンホストである静夜の誘いは特別魅力的ではあるが、一晩でどのくらいの金額になるのか想像がつかない。  胸元の財布を手で押さえながら、真剣に頭を抱える者もいる。  彼を指名し、体を繋げることが出来るのは会員の中でも上位クラスのメンバーでなければ不可能だ。  それを知っているからこそ、その場にいた客は二の足を踏んでいたのだ。  頭を抱えていたのは客ばかりではなかった。話を聞きつけた店長もマネージャーも、静夜の突拍子もない『遊び』にどう対処していいか困惑していた。  シフトがない今夜、いくら『遊び』と言ってもナンバーワンである彼とセックスするという事は、それなりの料金が発生する。しかし、今回の様な事例は今までになく、サービス・料金設定にも該当項目がない。  それぞれが顔を見合わせ、ざわつく店内。テーブルについていたホスト達も困惑の色を隠せなかった。 「――あの。ちょっと待ってください!」  店長にそう声をかけたのは剣斗だった。彼の声に弾かれるように、フロア中の視線が一気に集中する。 「多分、試しているんだと思います。ご来店いただいてるお客様を信頼しているからこそ、静夜さんはこの遊びを思いついた……。あの人が待っているのは、たった一人だけなんです」 「一人? じゃあ、アイツは客とそう言う関係だったってことか?」 「違います! プライドを賭けて……待っているんです。ナンバーワンホストの地位を守るために、それを揺るがす客を跪かせるために……。お願いです。今は黙って見守って貰えないでしょうか。下っ端の俺が言っても説得力ないけど、ここはひとつ! お願いしますっ!」  深々と頭を下げた剣斗をしばらく黙って見つめていた店長だったが、呆れたように大きなため息を一つ吐くと、彼の肩をポンと軽く叩いた。 「――今夜のVIPルームのチャージ、お前の給料から引いとくからな。まったく……気まぐれな女王様にも困ったもんだ。ちょっと甘やかしすぎたな……」  隣りに並ぶマネージャーにチラリと視線を向け、店長は各テーブルの客に謝罪の意味を込めてシャンパンを振る舞うことを決めた。  様子を窺っていたホスト達が一斉に動き出し、バーカウンターへと向かう。固唾を呑んでいた見守っていた客も、ホッと肩の力を抜き各々に煙草やグラスを口に運び始めた。 「すいません……」  小さく謝ったマネージャーではあったが、その口許には厳しさはなく、むしろ楽しんでいるかのように見えた。 「剣斗。あとは頼みましたよ」 「はいっ」  背筋を伸ばして敬礼した彼のお尻に大きなワンコの尻尾が見えたような気がして、マネージャーはクスッと肩を揺らした。  その頃、VIPルームでは静夜が何本目になるか分からない煙草に火を灯していた。  テーブルに置かれたクリスタルの灰皿には吸殻が積み重なり、周囲には灰も散らかっている。ホストの基本中の基本として灰皿の取り換えは入店当時に厳しく指導される事ではあるが、今はそんな余裕はない。  静夜から「セックスしたい」と誘われれば、我先にと客がここを訪れるものだと信じて止まなかった。  しかし、足音どころか人の気配さえも感じない。  何度も足を組みかえ、重厚な木製のドアがノックされるのを黙ったまま待ち続けていた。  このまま誰一人としてここをノックする者がいなければ、静夜はホストを辞めようと決意していた。  誰からも必要とされない、相手にされない男娼ほど悲しいものはない。  そうなったら地位も名誉も、ただの飾りだったとしか思えない。ちょっと美人で、着飾って可愛い声をあげれば、誰もがナンバーワンになれる――そういう時代なのだと。  細く息を吐いて煙を吐き出す。ゆらりと揺れる煙がエアコンの風に頼りなげに流れては消えていく。  まるで今の自分を見ているかのようで、静夜はそっと視線を逸らした。  黒い革張りの豪奢なソファ。この場所にあの男は座っていた。  ダンヒルのフルオーダーで身を包み、長い脚を組んで煙草を燻らせていた。野性的な瞳は静夜だけを捉え、逃げる隙さえも与えなかった。その代わりに静夜に与えられたのは強烈な印象と色香、そして蕩ける様なキスだった。 「――この期に及んでまだアイツの事を考えてるとか。俺ってホントにバカだよなぁ」  ボソリと独り言ちて、吸いかけの煙草を灰皿の縁に押し付けると乱暴に投げ込んだ。  未練がないと言ったら嘘になる。でも、追いかけても手に入らないものならば早めに見切った方が良い。  誰にも抱かせない、キスもさせないなんて……。男娼としては致命的な束縛を静夜に施して、彼は黒咲と寝た。  自慰では満たされない欲求、広武に気付かされてしまったアノ感情。  静まり返った部屋に、静夜のため息が散らかり、その場の空気を余計に重々しいものへと変えていく。  背凭れに体を預け、靴の踵をテーブルの端に引っかけた時、控えめなノックの音にビクリと肩を震わせた。  慌てて灰皿をテーブルの端に押しやり、散らかった灰を掌で力任せに払うと、静夜は小さく咳払いをして「どうぞ」と努めて明るい声で応えた。  鬼が出るか蛇が出るか……。どんな客でもいい。今は広武の事を忘れられるくらい快楽に溺れさせて欲しい。  静夜の顔つきが一瞬で女王の貫禄へと変わる。  優雅に湛えた笑み、誘うような眼差し、そして抗う事を許さない色香。 「――さぁ、来いっ」  ゆっくりとドアが開いていく。廊下の新鮮な空気がすうっと部屋に流れ込み、静夜はそっと唇を舐めた。

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