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【6】
煙草の煙が充満したVIPルームに華やかなムスクの香りがふわりと拡がった。
静夜はその香りをよく知っていた。フェラガモのアクアエッセンツィアーレ。
フレッシュで爽やかな香りの中に大人びたムスクを漂わせる優雅で華やかな香水。
(本当に因果な職業だな……)
忘れたくて……でも、絶対に忘れることの出来ない香水の香り。彼の事を忘れるためにここに来たというのに、今ドアの向こう側にいる客が彼と同じ香水を使っている。
気を緩めたら泣き出してしまいそうになるのを必死に堪え、女王様の威厳を保ちながら細く息を吐き出した。
『デウス』のナンバーワンである静夜を抱く男だけが入室を許されるVIPルーム。
そして――その男は彼の前に現れた。
黒地にピンストライプが入ったスリーピースにシンプルな濃紺のネクタイを合わせ、曇り一つなく磨かれたダークブラウンの革靴が良く似合っている。
長身で筋肉のついたガッシリ体型、少し癖のある黒髪を緩く後ろに流し、顔立ちは端正で日本人離れして彫刻のように美しい。切れ長でくっきり二重の野性的な瞳、狂おしいほどに魅力的な薄い唇……。
静夜は大きく目を見開いたまま動くことが出来なかった。息をしていたのかも覚えていない。
「――滅茶苦茶にして欲しい気分だと? 何人でもいい? ハッ、冗談もいい加減にしろっ」
低く甘いはずの声が、今は地の底から響く悪魔の声に聞こえる。わずかに寄せた眉間の皺が、彼の苛立ちを顕著に現わしていた。
「アンタが……なぜ、ここにいる?」
いきなりバンッと勢いよくドアを開けて仁王立ちで静夜を睨んでいたのは真鍋広武、本人だった。
「足りない頭でよく考えろ。おバカなビッチに振り回されているのは俺の方なんだぞ。他の男とのキスもセックスも許可した覚えはない」
「そんなの、俺の勝手だろっ! じゃあ、言わせてもらう。俺はアンタのモノになった覚えはない。俺は俺だ……っ」
広武は後ろ手にドアを閉めると、表情をピクリとも動かすことなく静夜の前に歩み寄ると、彼の襟元を掴み上げて端正な顔を近づけた。
「――何度も言わせるな。この淫乱ホストがっ」
「な……ん、だとっ」
苦しさに顔を顰めつつも、彼に対して抱いていた感情がグルグルと巡り始める。
誰もが惚れ惚れするこの体で、あの黒咲を抱いたのだと思うと苛立ちが止まらない。
この声で甘い言葉を囁きながら彼を幾度となく啼かせたのだろうか。
「もう、信じ……ないっ。アンタなんか……信じるもんかっ。上手いこと言って、俺を騙して……。でも、黒咲と寝たんだろ! 俺に誰とも寝るなって言っておいて、自分はイイ事してんじゃねーか。俺……バカだから。バカだから……あんたの言葉、鵜呑みにして……。苦しいんだよっ。ずっと忘れてたのに……もう、しないって思ってたのに……あんたのせいだからなっ」
どんな状況であれ仕事中は涙を見せない。そう決めていたはずなのに……。
何かが壊れたかのように涙が溢れ出し、静夜の頬を伝い落ちた。その滴が広武の手に落ちては流れていく。
唇を震わせて込み上げる嗚咽をぐっと抑え込むが、耐えれば耐えるほどその声は大きくなっていった。
目の前に突如として現れた脅威に慄く子供の様に身を縮めて顔を歪める静夜に、広武は溢れた涙を掬うように唇を押し当てて言った。
「――お前が望むのなら何度でも言ってやる。お前は俺のモノだ」
襟元を掴んだ手がふわりと解け、代わりに両肩を優しく掴まれてソファに押し倒される。
広武の甘い言葉に騙されまいと、唇を噛んだまま顔を背けた静夜だったが、彼の真剣な表情と、揺るぎのない真っ直ぐな瞳に目を奪われた。
「嘘つき……」
「嘘? いつ俺が嘘を吐いた?」
「そうやって黒咲も落としたんだろ……。アイツのアソコはどうだった?」
「何を言っているのか分からないな」
「惚けるのもいい加減にしろ。俺、見たから……。アンタが黒咲と歩いているところ。俺にドタキャン食らわせて……なんでアイツなんだよ。俺って、そんなに魅力ないのか? アンタを落とせないほど……」
こみ上げる怒りと不甲斐なさに、静夜の精神状態はもう限界に近づいていた。
もう、これ以上彼の側にいたくない。なぜならば、密着した体の熱で心臓が高鳴り、痛みを増しながらその想いが大きく膨れ上がっていたからだ。
触れれば触れるほど、恋しいという気持ちが止められなくなっていく。
彼からの視線を遮る様に、自身の腕で目元を覆う。こうしていれば、あの眩いばかりの力を持った瞳にやられることはない。
広武はそんな静夜の腕をそっと掴んで顔から押し退けると、再び真っ直ぐ視線を合わせて言った。
「――逆だ」
「え?」
「魅力がない? バカを言うなっ。どれだけ無自覚なんだ、お前は……」
「なに、言ってんの? アンタ、俺を拒んだだろ? この店のナンバーワンである俺に『セックスしよう』って言われて拒める奴なんかいないのに……。しかも精液臭いって……これが仕事なんだから仕方ないだろーよ」
「開き直るな。いろんな男に対して、いつもそう言っているのかと思ったら無性に腹が立った。俺だけのモノだと思っていたのに……」
「だからさぁ。どうして俺がアンタのモノにならなきゃいけないわけ?」
目じりに溜まった滴をグッと手の甲で拭いながら、静夜はため息交じりに問うた。
初対面で拒絶されつつも唇を奪われ、再会したら自分のモノ宣言。それを真に受けていたらドタキャンついでに他のホストに手を出して……そして今、また束縛しようとしている。
広武の行動は謎だらけだ。それに振り回されて一喜一憂している自分も情けない。
(実は偏愛主義者で思い込みが激しく、俺に愛されていると勘違いして自惚れている……とか)
ハッと気が付き、ストーカーの罠に嵌っていたのではと、今度は恐怖に慄く。顔を引き攣らせながら広武を恐る恐る見上げると、彼はいたって真面目な顔で静夜を見つめていた。
「――思えばあの時に、もう落ちていたのかもしれない」
「は?」
後ろに流していた癖のある髪が一筋額に零れ、その隙間から覗いたこげ茶色の瞳に静夜は再び既視感を覚えた。
「湊太……」
底なしに甘い声でその名を口にする。腰の奥がジン……と痺れるのを感じて、静夜はモゾリと体を動かした。
「なんで……知ってんの」
「なんでって……。お前こそ、なぜ俺を思い出さない?」
「え?」
「出世したら必ず迎えに行くって約束したよな? セックスしながら……」
「はぁ?」
「可愛い声で啼きながら「おにぃと結婚する!」って何度も約束させられた」
広武の口から次々に語られる嘘か誠か判断が付きかねる逸話に、ポカンと口を開けたまま聞き入る静夜だった――が。次の瞬間、昔を懐かしむように目を細めて口許を緩めた彼の言葉に絶句した。
「俺のペニスを食い締めて離さなかったよな……小学生のクセに。あの頃から淫乱だった」
カチャリ……。
静夜の脳内の奥のさらに奥に封印されていた記憶の扉。そこに掛けられていたやたらと頑丈な鍵が、じつに軽い音を立てて解錠された。今に思えば、なぜそこまで厳重に守られなければならない事だったのかという程度の昔話。若気の至り……にしては、ちょっと幼すぎる気もするが。
「――あ。デカいチ〇コの……おにぃ?」
やっと掴んだ記憶の糸を掴み寄せるように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
どこを探しても見つからなかった最後のピースがストンと空白の場所に嵌り、広武の言動の全てが腑に落ちた。
近所に住んでいた幼馴染。四つ年上の男の子に静夜――いや颯太は生まれて初めての恋をした。
運動神経抜群で女の子からもモテていたが、なぜか彼は湊太を可愛がってくれた。そして、お互いが好きだと分かるとその関係は急激に加速し、何となく得ていた幼い性の知識をフル活動させて二人は体を繋げた。
広武のペニスは同じ年頃の男の子たちに比べるとかなり大きく、興奮してフル勃起した時には大人のそれと見紛う程太く大きかった。当時、男同士のセックスなんて見たこともなかった二人だったが、自然と導き引き寄せられるままに繋がることが出来たのは奇跡としか言えない。
排泄器官であるアナルに、あり得ない程の太さのモノが入ること自体信じ難いことではあったが、一度受け入れてしまえば痛みもなく、与えられるのは底なしに甘い疼きと快感だけだった。
湊太が小学校を卒業する頃には、後ろだけでイケるようにまでなっていたことは広武しか知り得ない。
しかし、都内の進学校に進むことを決めた広武とはそれっきりになってしまった。幼子の戯言とはいえ、結婚まで約束していたとは……。
「――ちょっと待ってよ。名字……真鍋じゃなかったよな。確か……小寺 だった気がする」
「お前と離れてすぐに両親が離婚したんだ。真鍋は母親の姓だ」
「そっか……。おばさん、元気か?」
「おかげさまで……。お前の方は?」
「う~ん。しばらく実家に帰ってないから分からない。――って! この状況で、一体なんの話してるわけ?」
十数年ぶりの再会で昔を懐かしむのはいつでも出来る。しかし、今はそんな状況でも雰囲気でもないことに気付く。ここは店のVIPルームであり、静夜は広武に押し倒されたままなのだ。
自身を思い出してくれたことが余程嬉しかったのか、先程までの険しい表情から一変し、満面の笑みを浮かべて見下ろす広武の顔になぜかホッとしている静夜がいた。
「――で。子供の頃の約束を律義に守って、迎えに来てくれたわけ? あんなに回りくどいやり方して……」
「戸惑うお前が可愛くて、つい……」
「つい……じゃねぇ! 俺、マジで病みそうになったんだけど。おかげで店の奴らには散々な言われよう。責任とれよっ」
「自業自得だ」
「はぁ? お前がややこしくしたんだろうが! それに……黒咲との事だって、まだ許したわけじゃないからな」
静夜がムッと顔を顰めると、待っていましたとばかりに広武がその唇を塞いだ。厚い舌がぬるりと滑り込み、まだ文句の言い足りない静夜の口内をねっとりと蹂躙する。
「っふ……。うぅ……んん」
何となくキスで誤魔化されているような気がして、静夜は彼の舌先にやんわりと歯を立てた。眉を寄せて睨む彼に、静夜は口角を片方だけ上げて挑むように囁いた。
「――アイツとしたのか?」
「してない。あの夜は『レークス』の買収絡みで、どうしても彼に話を通す必要があった。指名が多い彼とタイミングを合わせるために仕方がなかったんだ。キャンセルしたことは謝る」
「それだけか?」
「何を期待している?」
「俺のナンバーワンのプライドをさんざん傷付けておいて、それだけかって聞いてんの!」
静夜は広武の首に両腕を絡ませると、唇をわずかに開いてキスを強請った。そこには、あの頃と変わらない小悪魔の静夜がいた。男を惑わす魔性の色香を纏う天性のビッチ。
そんなビッチに惚れてしまった広武ではあったが後悔は全くなかった。むしろ、他の男にこの体を抱かせていると知ってからは、燻り続けていた恋心に火が入り、より一層支配力が高まったといえよう。
広武はチュッと音を立てて軽いキスを交わすと、体を起こしてネクタイを引き抜き、上着を脱ぎ捨てた。
ベストのボタンを外し、ワイシャツの前を開けると、鍛えられた体が静夜の目の前に晒された。
「煽るのも大概にしろ。お前の方こそ責任を取ってもらわなきゃならないぞ」
「何の責任だよっ」
「――お前と離れてから何度も試してみたんだが。――ないんだよ」
「は?」
「勃たないんだよ。自慢の宝刀が! お前以外……受け付けなくなったみたいだ」
黙ったまま、ただ立っているだけで誰もが振り返るこのイケメン。仕事も遊びも百戦錬磨のツワモノで、泣かせた男女は数知れず。裏社会とも繋がりのある仄暗い一面も覗かせる謎多き青年実業家。
しかし、その実態は――。
「へ? じゃあ……セックス出来なかったってこと?」
「試してはみた、男も女も……。でも、ダメだった。お前を見た瞬間、久しぶりに痛くなるほど張り詰めた。その後で襲った強烈な射精感……。やはり、お前の中でしかイケない」
全身プライドという名の鎧で固めた彼の口から、他人には口が裂けても言えないような言葉が次々と溢れ、静夜は呆気にとられながらも心の奥から沸々と湧き上がる喜びに胸を躍らせた。
本来であれば静夜の思惑通り、その場に跪かせて「セックスさせてください」と懇願させたいところではあるが、自身の理性もそろそろ限界に近づいていた。
スラックスの薄い生地を押し上げるように膨らんだ彼のソコを掌でやんわりと撫で上げると、広武の野性的な瞳にギラリと光が宿った。あの頃よりもっと大きく成長したであろうペニスを堪能するのに、もう駆け引きはいらない。
「こんなに膨らんでる……。これ、俺だけのモノって言っていい?」
「もちろん。お前のモノだよ……湊太」
「あ、そう呼ぶのはもうちょっと待って。今はまだ『デウス』のナンバーワンでいたいから……」
ゆっくりと体を起し、シースルーの生地に透ける胸の突起を指先で撫でながら、静夜はぺろりと下唇を舐めた。
ぴったりとフィットした黒いパンツ越しに兆したモノを彼の下肢に押し付けて、肩に手を掛けて耳朶に息を吹きかける。
「今夜は、一人でこの部屋を出させるなんてことはしないでよね……広武」
「当たり前だ……。今夜の指名料は一生懸けて払うつもりでいるからな」
「じゃあ……。死ぬまで愛して……俺だけを」
どちらかともなく重なった唇は角度を変え、小さな水音を響かせて絡み合う。
互いの額を押し付けて、はにかんだように笑い合う幼馴染の姿がそこにあった。
「セックス、しようか……」
「セックスさせてください……。朝が来るまで」
そのままソファに倒れ込んだ二人は、会えなかった時間を埋めるように、そしてぽっかりと開いた心の隙間を満たすように、夜の野獣と化したのだった。
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