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週末の憂鬱、幻のブルー
カフェの夢をみた。
駅から続く道を歩いていくと、右側に円筒形のビルがある。二階はガラス張りで、洋服屋のようだ。
合成樹脂のカラフルなテーブルと椅子が並ぶ一階のカフェは、夜になる手前の半端な時間のせいか、空いていた。
僕は入口近くの席に座った。
店内には西陽がかすかに差し込み、手元は少し暗い。
遅れてきたキシが向かい側に座って、何だか嬉しそうな様子で、
「これ、プレゼント」
と、テーブルに小さな箱を置いた。
濃い青の包装紙に、白いリボンがかかっていた。
目が覚めてからしばらくの間、どの駅だったかを思い出そうとしていた。キシとあのカフェに行ったことはあるが、プレゼントを貰ったことはない、と。
そのうち、頭がはっきりしてきた。
キシとカフェに行ったことはない。あの店は、現実には存在しない。駅もない。もちろんプレゼントもなく、全部が夢の中だけにあったのだ。
僕の前に箱を置いたキシの手が、心に刻まれていた。
夢をみた翌日、聞いた? 岸君のこと、という出だしで、女性二人からそれぞれ、キシが辞める理由を聞かされた。
前の日に、デスクが近い同期から聞いた話と合わせて、キシはオーストラリアにいる父親の会社を手伝うために退職すること、退職日は十二月末だが、有給休暇を取るため、十一月中旬から出社しないことがわかった。
家族が海外にいるとか、高校の時と大学に入る前に一年ずつ向こうにいたので、キシの年齢が上だとかは、同期の全員が知っていた。
キシは、僕と二人の時に自分の話をしなかった。
一度だけ、初めて男としたのは?と聞いた時、
「十五か、六か」
と言っていた。
「彼女いたのは?」
「まあ、そのあとかな」
「初恋は?」
僕が枕から顔を上げて聞くと、キシは、
「初恋とか言うなよ、あほらしい」
と呆れた顔をして、
「人に聞くなら、まず自分のことから話しなさい」
と言った。
僕が笑うと、キシはちょっと体を引いて僕の顔を眺め、
「誤魔化したな」
と呟いた。
「これまで、何人たぶらかしてきたか、言ってみなさい」
「言うかよ、ばか」
キシは、僕自身についてはほとんど何も質問したことがないが、僕がどんな夢をみたのか、しょっちゅう聞いてきた。
聞いた相手を嫌な気持ちにさせる内容なので、僕は質問されても話さなかった。
一度も答えないことに、キシは途中で気づいていたと思うが、それでも、泊まった朝は必ずと言っていいほど、昨日どんな夢みてたの、と尋ねた。
キシの退職について三人から聞いた週の土曜日、男とカフェにいた。
芝田(男だ)と会う時は、待ち合わせてすぐホテルに行って、終わってからお茶を飲むのが、決まりのようになっていた。
キシには「元彼」と言ったが、僕の中では「男」で、セフレという言葉は好きじゃなかった。
ペーパーカップの半分までコーヒーを飲んだ時、芝田に、
「元気ないな」
と言われた。
「何かあったのか?」
「んー、別に。昨日あんま寝てない」
「さっき、寝ててもよかったのに」
「まあ、落ち着かないから」
芝田には、夢の内容を話したことがあった。付き合っていた時だったが、何だよそれ、と話の途中で嫌な顔をして、二度と聞いてこなかった。
僕は芝田に執着し、一緒に住みたい人がいるから別れる、と言われた時は泣いてすがり、別れてしばらくは夜眠れなかった。そのうち彼から連絡が来るようになった。電話で呼び出されると、いつでも会いに行った。
「お前から連絡してくるの珍しいから、話でもあるのかと思って」
と、芝田は言った
「珍しいって、初めてだよ」
「そうか、そうかも。何かあったのか?」
その時、入口の自動ドアが開く気配がして、目をやると、キシが店に入ってきた。一緒にいるのは、営業の佐倉さんだった。
二人を見た途端、冷笑なのか失笑なのか、笑い声が頭の中に聞こえてきた。
こんなばかみたいなこと、あるかなあ。
驚きで、その場に釘付けにされた状態になった。
さらっと二人に挨拶をすることが最重要課題だ。デートを目撃したことなど何とも思っていない感じを出さなくてはいけない。
次に、キシが芝田に無関心でいてくれればいい、と願った。
まあ、今更関心はないだろう。
会社辞めることも言わなかったくらいだし。
僕は彼らを正面に見る席にいたが、奥まったスペースで数段高くなっているので、向こうはまだ気づいていなかった。
向かい合って座っている芝田が僕の顔を見て、入口の方へ振り返ったので、
「見ないで」
と制した。
「知り合い?」
芝田は僕に向き直った。僕はキシから視線を外した。
「会社の人」
「どっちが?」
「両方」
答えてから、もう一度キシを見ると、キシも僕を見ていた。
さっきまで芝田とさんざんやりまくって空っぽだったはずなのに、キシの顔を見ると、下腹の奥が捻られたように痛み、瞬く間に欲望が拡がって体を満たしていく感覚に息が止まりそうになり、僕は目をそらした。
最後に部屋に行った後、社内でキシとすれ違ったことは二回ある。二回ともキシは誰かと一緒で、少し笑って目で挨拶した。
僕は、自分がどうしたか、憶えていない。
その時も、会えた、とは思ったのだが。
「顔が赤くなってる」
と芝田が言った。
「会うとまずいの?」
最初に会計を済ませて、注文したものを受け取る店だった。
入口の方を見ると、キシと佐倉さんはまだレジカウンターにいた。
「いや、たぶん大丈夫」
座席は、僕と芝田がいるスペースと、その奥の階段で上がる二階にあった。
「挨拶すると思うよ」
僕は二人を見ないために、芝田に目をやった。
「まずいって顔してるけどな」
と芝田が言う。
芝田といるのをキシに見られたくなかったし、「元彼」だと気づいてほしくなかった。
キシに誘われなければ、自分から連絡して芝田と会っているのが僕の本性で、それはキシには隠しておきたかった。
頭の中の笑い声は嘲笑に変わり、僕が自分を笑っているのだった。
これまでキシからうまく隠していたつもりだったが、それ自体が勘違いなのだろう。
いずれにせよ、もう会えなくなる人だ。
しばらくして、佐倉さんがこちらに向かってきて、笑顔で僕に手を振った。
僕も笑顔を作って、立ち上がった。
ストローをさしたプラスチックのコップを手に持ち、会社ではまとめている髪が、今日は巻いて下ろしてある。飲み物、アイスレモンティーか。
「上野さん、こんにちはー」
「こんにちは」
「いいって、立たなくて」
と佐倉さんは言い、芝田を横目に見て軽く頭を下げた。
「こんなとこで会うことあるんだね」
「びっくりしました」
「今日、岸くんと映画に行ったの」
「そうでしたか」
「席、上に行くね。お邪魔しました」
佐倉さんはにっこり笑って、芝田にも微笑みかけてから、階段の方へ歩いていった。
椅子に座り直すと、すぐにキシが来て、黒いトレイにアイスコーヒーとケーキっぽいものを載せていた。
「どうも」
とキシは言い、僕は片手を上げた。
キシはブルーのシャツを着て、少しだけ袖を折ってたくし上げていた。部屋着とスーツ以外の彼を見るのは初めてで、どきっとした。
同時に、何か妙な感じがしたが、その時はなんだかわからなかった。
顔が赤くなったに違いない。芝田が一瞬怪訝そうに僕を見て、座ったまま身を乗り出し、自分の横に立ったキシを見上げた。
「大学の時の先輩」
と僕はキシに言って、
「こんにちは」
とキシが芝田を見下ろした。
「どうも、上野がいつもお世話になってます」
芝田が言うと、キシは、
「いえ、こちらこそ」
と芝田に笑いかけ、
「じゃ、またね」
と言いながら、もう一度僕を見た。
磨き上げたように綺麗なめがねの奥の目が、あの獰猛な感じで重く光っていた。その視線は、欲望に、胸の高鳴りに、体の奥の熱さに、いつも直接届く。
心臓が思い出したように激しく打ち始め、キシは立ち去った。僕は大きく息を吐いて、冷めたコーヒーを飲んだ。
「あの二人はカップル?」
と芝田が聞いた。
「さあ…同じ部署の先輩、後輩で…」
「へえ」
芝田はしばらく黙っていたが、おもむろに僕に顔を近づけ、
「んで?あいつと何があるの?」
と囁いた。
「あいつって?」
「男の方」
「何もないよ」
「嘘つけ」
芝田は体を引いて、椅子の背にもたれた。
「あいつ、恐ろしい顔で俺のこと見たぜ」
「…」
「自分も女連れだったしねえ」
僕はテーブルに突っ伏した。ため息が出た。
「同僚とかやめとけよ、めんどくせ」
芝田が頭の上でつぶやいている。
「…あの人、会社辞めるんだって」
「男の方?」
「うん」
「それで落ち込んでたのか」
「違う」
ぐったりと疲れて、胸は痛み、欲望がざわついて残っていた。
キシからの電話は、日曜の夕方5時過ぎにかかってきた。
何となく、電話があるような気がしていた。
僕は寝転がっていたベッドから起き上がり、表示を確かめて応答ボタンを押した。
「もしもし」
−今、いい?
キシの声が耳に響いた。
「うん」
−会えないかな。と思って電話した。
僕は、小さく息をついた。
「会うとは」
−話したい。
「…僕は、別に話すことないよ」
キシはそれには答えず、ひと呼吸置いて、
−昨日はどうも。
と言った。
「ああ」
−あの人が元彼?
「まあ、そう。セフレだけど」
聞かれたらそう答えると、決めていた通りに答えた。
キシが何も言わなかったので、
「キシさん、佐倉さんとああいう関係だったの?」
と聞いた。二人に何かあるとは思っていなかったが、聞こうと決めていた。
−あのさ、
椅子を引く時の音がして、キシは立ち上がったようだった。
−そういう関係だったのは、上野だけだよ。
僕は目を閉じた。
−俺、そんなにあちこち行かないよ。お前にはどう見えたかしんないけど。
キシの言葉は、聞きたかった言葉でもあり、聞いても仕方のないことでもあった。あとになって、キシを思う時は必ず思い出す言葉だった。
−続けられないのは、俺の都合だけだから。
「キシさん」
−だから、悪かった。
「謝られても、意味ないよ」
キシが黙り込んだので、僕は思いきって口を開いた。
「さっき、会おうって言った?」
−うん。
「セックスだけなら、会うよ」
電話がかかってきたら言おうと思っていたことは、これで全部言ったことになる。
キシの沈黙はその後長く続き、胸の痛みに耐え切れず、僕はベッドに仰向けに倒れ込んだ。
陰惨なストーリーを生成する心が、時折、合図のように穏やかな夢を送ってくる。
白いリボンで飾られたプレゼントは、心が見せた別れの風景だとわかっていた。
夢の中で、嬉しそうだったキシは、あのブルーのシャツを着ていた。
袖は少しだけ折ってたくし上げられ、僕が開けることのない箱をテーブルに置いた手は、既に優しい記憶に変わっていた。
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