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第8話
「お邪魔しまーす」
電話を切ってから三十分。
途中近所のドラッグストアに寄りビールを調達。そして真也はいま正に赤松の部屋の玄関先に立つ。赤松は手ぶらでいいと言ったのだが、余程気心の知れた相手ではない限り手土産くらい持って訪ねるもの。その程度の常識は身に付けている。
「一応ビールっす。飲む気で来てるんで、途中酒が足らなくて買い出しとか避けたいんで」
ぞんざいに袋に入った缶ビールを取り出すと、赤松が口の片端を上げて笑った。
「そりゃどーも。手ぶらでいいって言ったのに律儀だな。そのへん適当に座れや」
「あ。どもっす」
以前、泥酔した赤松を部屋まで送った時に来たことがある部屋だが、こうして改めて招かれるのは初めてのことだ。
前に来た時にはソファに脱ぎっぱなしの服が散らばっていたりしたものだが、今日はそれがない。
人を招き入れるにあたってそれなりに片付けたのだろうが、部屋の何処にも以前のような乱雑さのようなものは感じられなかった。
「おまえ、ワインとか飲む?」
「甘いの苦手なんで、赤なら」
「んじゃ。これ開けるか。一人だとなんつうか、全部は飽きるし億劫で」
赤松がキッチンのほうからワインのボトルとオープナーを持ってこちらにやって来た。
「ちょい。開けとけ」
「え。丸投げっすか!?」
「バァカ。つまみとかグラスとか持ってくっから。ワイングラスとか洒落たモンねぇけどいいよな?」
「ははっ。何でもいいです、そこは」
不思議だと思う。まるで自分の上司ほど歳の離れた男と、こうして気を使うこともなく過ごせるなんて。
開けたワインで乾杯をし、赤松が用意したつまみを肴に酒を酌み交わすこと数時間。
共通の話題と言えば黒川や日南子の事ぐらいではあるが、それ以外にもいろんな話をした。それこそ、昨日見たお笑い番組から明日のサッカーの試合の事。ありとあらゆる雑談というやつだ。
たいして中身のある話をする訳ではないが、それでも退屈だと思わないのは赤松の話術の所為か。
「そーいや。さっきから気になってたんですけど、そこに映ってんの黒川さん?」
真也はリビングのチェストの上に飾られたいくつもの写真立てを指さして訊ねた。
いくつかある写真立てが置いてあるチェストの上に不自然な空間が出来ているのは、多分この半分ほどの空間には赤松の元妻の写真なども飾られていたのだろう。
残された写真立ての中に、濃紺のタキシードと真っ白なウェディングドレスを纏った今より少し若い“元夫婦”の姿も飾られたままだったが、敢えてそこには触れなかった。
「ああ。同じ職場だった頃のな」
真也はソファから離れると、ゆっくりと這うようにチェストに近づきその写真を眺めた。
「うわ! 黒川さんスーツとか着てたんだ! しかも超カッケーし!」
今よりも少し長い髪を整髪料で整え、今やトレードマークとなっている顎髭もないその若々しい顔が新鮮だった。元々整った顔立ちだとは思っていたが、こうしてみると正統派の美形だ。
「髭ないほうがイケメンじゃないすか? ……なんかちょい優男感溢れちゃってますけど」
「ははっ。だろー? 意外と童顔だから本人それ気にしてんだよ。んで、今はあんなん」
「や。今のは今のでいいっすけどー、こっちのが小奇麗?」
「は。今は小汚いって? ……酷でぇな、おまえ」
「そこまで言ってないです」
真也が小さく睨みつけると、赤松がカハハ、と楽しそうに笑ってグラスに残ったワインを全部飲み干した。
「この赤松さんたちの間にいるのは誰っすか?」
職場の同僚なのか、十人ほど映りこんだ写真の中央に赤松と黒川。その真ん中に映るショートヘアの女性。笑顔の素敵ななかなかの美人だ。気になったのは仲の良い赤松と黒川の間に守られるように佇む女性のその存在感だった。
「──それな、黒川の婚約者」
思いがけないその言葉に、真也は心底驚いて赤松を見た。
「……つっても、過去形だけどな。もうこの世にはいねぇし」
「え」
さらに驚いて目を見開いた真也に、赤松が片方の口の端を上げて再び写真のほうへ視線を向けた。
「結婚目前だったんだよ。……三年前の夏に事故で亡くなったんだ。あん時のあいつ、いま思い出してもちょっと胸痛くなる。亜紀───あ、その彼女な? そいつとは俺も仲良かったんだよ。何かっていうとよく三人で……」
そう言った赤松の横顔が寂しげに映る。その表情から赤松が二人のことを特別大事に思っていたことが読み取れた。
「俺からしたらさ、親友同士の結婚だろ? 幸せになって欲しい、って心から思ってたんだけどな……」
普段の二人の軽快なやりとりからは想像もできない、あまりに意外で重い過去だった。
「……で、黒川さんは?」
「あいつ、しばらく抜け殻みたいだったよ。そりゃそうだよ。好きな女、突然亡くしたんだから。で、会社辞めて。前から継ぐって決めてたいまの店の手伝いを始めて──。元々継ぐ気だった店だからその準備とかも前から進めてたらしくて、あっという間に定食屋のオッサンに」
身近な人間の意外な過去。
誰にだって表に見えるだけでない心に抱えたものはあるのだろうが、あの黒川がその悲しみを乗り越えるために一体どれだけの涙を流したのだろう。
「ああ見えて、まだ引き摺ってるみたいなんだよなー。辛い思いした分、次こそは──って幸せに貪欲になったっていいだろうにさ」
なんとなく分かった気がした。赤松が必要以上に黒川に構いたがる理由が。
黒川のそんな過去を知っているからこそ、彼を一人にしておけない。放ってはおけないのだろう。
「──愛、っすね」
なにげなく言った真也の言葉に赤松がワインボトルを持つ手を止めた。けれど、それはほんの一瞬の事で赤松の空のグラスがみるみる深い赤に満たされていく。
「はは。……愛っつっても友情という名の、な?」
そう言って小さく微笑んだ赤松の横顔が、なぜだか妙に寂しげに見えた。
「……なぁ」
「ん? 何ですか?」
「大概酔ってるから訊くけど。おまえの元恋人って男?」
ふいに赤松に訊かれて、真也は今まさに口に含んだばかりのビールを盛大に吹き出した。
「……ゲホッ、…ッ」
「あ。悪りぃ。タイミングミスったわ。つか、これ使えよ」
そう言った赤松がテーブルの上にあった布巾を差しだしたので、それを真也は黙って受け取りシャツの襟元を拭った。
「……」
数時間前の友和との電話の直後に掛かってきた赤松の電話にうっかりとした勘違い。
赤松があまりにサラリとスルーしたことに安心していたのだが、ここにきてまさかの追及を喰らうとは。
何かと察しがいい赤松の事だ。ひょっとしたら……と思っていたが、そこは敢えて放置しておいて欲しかった。
「──や。答えたくねぇならべつにいいけど。あん時のおまえの言葉普通に捉えたら、そういう事なのかなーと」
「そこ。普通突っ込みますか? 黙って大人の対応してくれればいいだけの事じゃないすか」
真也はテーブルの上を拭きながら、何故否定しなかったのだろうと思った。
今までもこういうことが無かったわけじゃない。
『灰原、何で彼女作んねぇのー? もしかして、ソッチ系とか?』
なんて友人に冗談交じりに訊かれる事は数え切れない程にあった。その度に「んなわけねぇ」と否定してきた。
それは、世の中を上手く立ち回るための自衛策。マイノリティーが社会でどんな扱いを受けるかなんて想像に堅い。
「まー、そうなんだけど。おまえモテそうなのに女の子にはどっか一線引いてるみたいな態度があるなーって思っててよ。そうならなんか納得だなって思っただけ」
「何すか、一線引いてるって」
「表面上は優しいんだけど、俺には惚れないでねーみたいな空気っつうの?」
「出てましたか、そんな空気」
「や。知らんけど。俺はそう感じただけ」
赤松はやはりなかなかにして鋭い。確かに真也自身、そういうふうに振る舞っていた部分はある。こちらにそういうつもりはなくとも、ちょっとした優しさを好意だと勘違いされ、トラブルになったことが過去に何度かあったからだ。
けれど、意識的にしていた対応について誰かに指摘されたことなどなかった。この男の観察力と洞察力は侮れない。
「──で? 俺がそうだって認めたらどうするんすか?」
そう訊ねると赤松が不思議そうな顔をした。
「べつに。どうっつう事はねぇよ。おまえは、そういうヤツっつーだけの話だろ?」
「気持ち悪いとか思わないんすか?」
「は? なんでだよ?」
赤松がますます不思議そうな顔をする。
「べつにそんなモン好みの一部だろうが。例えば巨乳が好きとか、マッチョが好きとか、その程度の。男が必ずしも女に惚れるって訳じゃねぇし、その逆も然りだろ? 世の中にはいろんな人間がいるんだし、マイノリティーだからってそれを恥じることも隠すこともねぇ。それが灰原の個性ってだけだろが」
赤松の言葉に真也はただ唖然とした。こんなふうに堂々と言ってのける人間を真也は見たことがなかった。
この手の話題は、まるで理解できないというように眉を顰められたりすることはあれ、その存在を当たり前のように肯定されたことなど無かったに等しい。
「……変わってんすね、赤松さんは」
「それ、褒められてんのか?」
「いやー。半々くらい」
「何だ、そりゃ」
「はは」
何というか。これはヤバイ。
真也はさっき吹き出してグラスの半分ほどまでに減ったビールを無理矢理喉に流し込んだ。
一緒にいてその居心地がとんでもなくいい上に、自分がひた隠しにしてきた性癖を否定しないとか。
だからといって受け入れられるとは思っていない。けれどありのままの自分を肯定してくれるこの男の存在に真也の心が小さく波立ったのは事実だ。
「おい、灰原。そろそろ寝るか?」
そう声を掛けられ半分閉じ掛かった目を無理矢理見開くと、赤松が少し呆れたような顔をして真也を見降ろしていた。
「……やっべ、俺寝てました?」
「ああ。その感じだと風呂は無理そうだろ? そっち、廊下出たトコの左が寝室だから。適当に寝とけ」
「……ああ、はい」
赤松に手を引かれぼんやりと起き上がると、それまで缶ビールやらグラスやらで散らかったテーブルの上があらかた綺麗に片付けられていた。
自分ではしっかり起きているつもりでいたのだが、どうやら知らぬ間にうつらうつらしていたらしい。
「ほれ。これ着替え。気力残ってたら着替えとけ」
「はい。……あざっす」
正直ものすごい強烈な睡魔に見舞われていたが、仕事帰りの堅苦しいスーツ用のシャツではさすがに寝苦しいのが想像できて、黙ってシャツを脱ぐと赤松の用意した着替えに手を伸ばした。
「意外と鍛えてんだな。もっとガリッガリかと思ったぜ」
赤松が笑いながら真也の脱いだシャツをバサッと振って、そのへんにあったハンガーに引っ掛けた。それには答えず真也は黙ったまま赤松の用意してくれたティーシャツに袖を通した。
「……デカイ」
「文句言うな。人のモン借りといて」
「べつに頼んでませんけど」
「……っとに、かわいくねぇわー」
そう言って白い歯を見せた赤松は決して怒っているふうではない。
元々世話焼きな性格なのだろう。ああして黒川に構うところも赤松らしいし、こうしてただの知り合いの真也にまで何だかんだと優しいのもやはり赤松らしいのだと思う。
「俺、軽くシャワー浴びてから寝るから。ベッド空けとけよ?」
「……はいはい」
「部屋。出て左な!」
「……ふぁい。了解っす」
さっき聞いたっうの! と言い返そうかと思ったが欠伸の途中だったので素直に頷いた。
リビングを後にし、赤松の言うように廊下に出てすぐ左側の部屋のドアを開けると、そこにはシングルベッドとそれより少し大きめのダブルベッドが並んで置かれていた。
シングルのほうは、シーツなどが剥がされむき出しになっている。ここに二つのベッドがあるということ。むき出しのベッドには以前は使用者がいたのだろう。その使用者というのも、当然赤松の元妻であるという事実に間違いない。
「……夫婦の寝室だったっつーわけね」
そう呟いて今も使用されているシーツの掛かったダブルベッドに腰掛けて、そのスプリングを確かめる。
「……」
夫婦別々のベッドで寝るなど人それぞれだが、あらかたこちらのベッドでは夫婦の営みというものもされていたのだろう。ギシ、とわざとベッドを軋ませ、ベッドの真ん中に寄っていた掛け布団を広げて整える。
そのままベッドに潜り込むと、当然だがその所有者である赤松の匂いがした。
ここで。このベッドで。赤松が妻を抱いていたのだ。
あの男はどんなふうに女を抱くのだろう。そんな事をふいに想像してしまう自分に戸惑う。
「……最悪だ」
頭の中の想像を打ち消すように敢えて声に出して言った。それからギュッと目を閉じる。
ほんの一瞬でも妙な想像をしてしまったことを激しく後悔した。
あれ程の睡魔に襲われていた数分前のことがまるで嘘のようだ。一度冴えた脳は急に活発さを取り戻し、真也の頭の中で次々としなくてもいい想像を繰り広げる。
「……マジ勘弁」
ボソと呟いて必死に眠ろうと試みた。──が、そう都合よく眠気が戻って来るわけでもなく、ベッドの中で何度も寝がえりを繰り返しているうちにシャワーを済ませたのであろう赤松が静かに部屋に入ってきた。
赤松に背中を向けたまま寝たふりを決め込んでいると、モソと布団が動いて赤松がベッドに滑り込むように入ってきた。 布団の中にフワリと広がる石鹸の香り。シャワーを浴びたばかりのまだ熱を伴った温かな赤松の身体の一部が、偶然背中に触れた。
赤松の気配になぜか心拍数が上昇する。
俺は一体、何に緊張しているのだろう。
「おやすみ」
赤松が寝ている──正確には寝ているふりをしている真也に向かって言った。もそもそと布団が引っ張られるような感覚のあと、赤松が眠りにつく気配がした。
しばらくして聞こえてきた赤松の規則的な寝息に真也は心からほっとしていた。
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