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第17話
どれくらい時間が経ったのだろう。
ぼんやりと目を開けるとそこはまだ赤松の部屋のリビングで、真也はソファの上にうつ伏せに身体を横たえていた。
全裸の身体はすっかり冷え切っていて、なにげなく視界に入った腕にはもうどちらのものか分からないどろりとした液体が残ったまま。とりあえず酷い惨状なのだろうという事は想像に難いが、何しろ身体がだるくて身動きが取れない。
バスルームの方からシャワーの音が聞こえ、赤松が今まさにシャワーを浴びているのだということは状況として把握できた。
「……死ぬかと思った、マジ」
ただ全裸の身体の上に掛けられたタオルケットだけが、唯一の赤松の厚意である気がした。
赤松はどうしただろう。少しは冷静さを取り戻しただろうか。
「……眠い」
心地よさとは程遠い、軋むような倦怠感。身体がだるくてだるくてまるで自分が泥にでもなったようだ。
このままじゃ、やばいな。何とかしてここから帰らないと、と頭では思うのだが、どうにも瞼が重い。
やがてバスルームの扉の開閉音が聞こえ、ゴトゴトと何か物音がしたかと思うと、赤松がこちらにやってくる気配がした。無意識に身体が強張ったのはさっきまでの恐怖感か。
真也が意識を取り戻していることに気づいていないであろう赤松は何も言わずソファの傍らにしゃがみこんで、真也の身体に掛けられたタオルケットの上半身部分をそっとめくった。
肩にじんわりと広がる温かな感触が伝わり、赤松がその温かいものをゆっくりと真也の身体の肩の上を滑らせる。
柔らかなその感触が温かな濡れタオルであるということ。赤松がそのタオルで自分の身体を拭いてくれているのだということが分かった。赤松のその手つきにさっきまでの乱暴さは微塵も感じられず、ただゆっくりと丁寧に真也の身体を拭いていく。
ひとつのタオルが冷たくなると、また温かなタオルが身体にあてがわれ、上半身から下半身に掛けて、それこそ隅々まで赤松が精液にまみれた真也の身体を綺麗にしてくれた。
それから一度赤松がその場を離れ、再び戻って来ると最後に真也の髪をそっと指で掬った。
優しい手つきだった。真也がよく知っている赤松の優しい手。赤松は何度か真也の髪を撫でたあと、今度は丁寧に顔を拭いて行く。
ふっとタオルが離れた瞬間、真也がゆっくりと目を開けると、そこには見た事もないほど頼りなげな赤松の顔があった。
「……なんだ。気がついてたのかよ」
赤松が手にしたタオルを丸めながらぎこちなく笑った。
「あんまり気持ちイイから、夢見心地を味わってた」
あんな酷い抱き方をされたのに、こうして過ぎ去ってしまえばやはり赤松の事を怖いとは思わなかった。
本当に酷い男は、抱き捨てた男の身体をご丁寧に拭いたりはしない。それに普段の赤松がどんな人間かが分かる程度には、短いながらもそれなりの付き合いがある。
「──ごめんな、灰原。酷でぇ事して」
赤松が真也に深々と頭を下げた。
「俺が女なら強姦傷害事件すよ」
「ごめん。……おまえが男だからってあんな事していいわけねぇのに」
普段の、赤松だ。
真也がよく知ってる、いつもの。
「図星突かれて、黙らせてやろうってやり方がアレすか」
「……悪かった」
「図星っつーほうは認めんの」
「……」
赤松が申し訳なさそうに俯いた。
普段自信に充ち溢れてて、腹立つくらい大人で、そんな赤松が真也の前でこんなに小さくなっている姿など、正直違和感しかない。
けれど、赤松だってひとりの人間で、もちろん人に知られたくないような弱さを持ってて、そこを突かれて思わずメーターが振り切れてしまう事だってあるのだ、きっと。
「とりあえず、服。身体冷えて寒いんですけど」
真也がボソリと言うと、赤松が弾かれたように立ち上がってすでに用意していた着替えをこちらへ差し出した。
「身体もだりぃ。起きれない」
そう言って赤松に手を伸ばすと、赤松が傍に来てご丁寧に着替えまで済ませてくれた。
「──他には?」
「喉渇いた」
真也の言葉に赤松が慌てて冷蔵庫から出した冷たいお茶を用意して手渡してくれた。
「まだ、何かあるなら──」
「あるよ。とりあえずここ座って」
ソファに座ったまま真也はチョイチョイと手招きをし、赤松を隣に座らせた。それからそっと赤松の手を取り自分の肩へ手を回すように促す。
「手、ココ。んで、ギュ」
「ギュ、って。──は!?」
「は? じゃないっす。ギュ、はギュでしょうが」
真也が赤松に自分の身体をハグするように促すと、赤松が心底驚いた顔をした。
「……おまえ、怖くねぇのかよ? あんな事した俺が、」
今は怖くない。正直、さっきのトチ狂った赤松はマジ怖かったが。
「怖くなんねーように上書きしてよ。あんた得意の優しいギュ、でさ」
仕方がない。あんな事をされても嫌いになれない程度に、真也はすでにこの男に嵌ってしまっているのだから。
「嫌なら、バラすけど。黒川さんに全部」
「……ちょ、ま! それだけは!!」
赤松が思いきり引き攣った顔でうろたえた。こうしてうろたえた顔もまた新鮮だ。
「じゃ。ギュ、ね?」
「……おまえ、変わってんな」
そう言った赤松が小さく笑い、真也を腕に抱きしめた。
初めて真也がこの部屋に泊まった夜、冗談まじりにやったまるで小さな子供をあやすように赤松が優しく真也の身体を抱きしめる。
赤松の温かな腕に抱きしめられるのを心地良く感じながら静かに訊ねた。
この際だ。赤松に聞けることは全て聞いておきたい。
「──なんで、黒川さんに言わないんすか」
そう訊ねると赤松が呆れたような顔をした。真也にも気持ちは分からなくもない。自分も同じ道を通って来た経験がある。分かっていて敢えて訊ねた。
「アホか、お前は。言えるわけねぇだろ。普通に考えて」
「いつから好きだったんすか」
「知らねぇ。……気づいたら好きになってた。自覚したときは衝撃だったけどな」
「きっかけは?」
「そんなもん分かんねぇよ。職場で初めて会って。イイ奴だなーってとこから。自覚なんてなかったよ。普通に友情としての好意だと思ってたしな」
「……それが、変わったのは?」
矢継ぎ早に質問を浴びせる真也に赤松が眉を寄せたが、諦めたのか再び言葉を続ける。
「──亜紀がいなくなってからだよ。あの時のあいつは、ほんと痛々しくてとても見ちゃいられなくて……ただ友達として支えてやりてぇって思ってたのが、いつの間にかそれを越え始めた」
「……」
真也は黙って赤松の言葉を聞いていた。真也にとっても身につまされる話ではあった。真也が高校の頃好きになったのは当時一番近くにいた男だった。
仲のいい友達だと思っていた人間を好きになる。普通の男女でだって良くあることだ。傍にいて、その人間を深く知れば知るほど惹かれていく事はおかしなことではない。
ただ、その相手が同性だということを除いては。
「一生、言う気はないんですか?」
赤松がどう答えるのかなんとなく想像ができているのに、敢えて訊ねた。
「……ねぇな」
事実、真也自身もその好きになった相手に気持ちを伝えられた訳じゃなかった。
普通の男相手にそんな事を言える筈もなかった。だって、そうだろう? 普通は気味悪がられ、距離を置かれるのが関の山だ。
関係を壊したくなかった。手放したくなかった。自然なカタチでそばにいられる“友達”という最高のポジションを。
「自分とあいつがどうこうなんてはなから望んじゃいねぇんだよ」
赤松がゆっくりと真也から身体を離した。
「──黒川が幸せなら、それでいい。つか、幸せでいてくれなくちゃ、困るんだよ」
だからなのか。真也が見てお節介だと思うほど、赤松が黒川を構うのは。
たぶん、赤松は気づいたのだ。日南子だけが、黒川にそうしてやれる女なのではないか、と。だから強引にでもあの二人をどうにかしようと──。
誰しも自分の事で手一杯だというのに、赤松は自分の想いを押し殺してでも、相手の幸せの為に動こうとする。
そんな愛し方が、果たしてどれだけの人間に出来るだろうか。
「灰原」
「はい?」
「……悪かったな」
赤松がゆっくりと立ち上がって、真也の頭をクシャと撫でた。
「寝るか? 寝室まで運んでやるよ。このまま朝までゆっくり休みな」
赤松が軽々と真也の身体を抱え上げ、寝室まで運んで行く。そっとベッドに降ろされたかと思うと、そっと布団を掛けられた。それから優しく真也の頬を手の甲でそっと撫で、申し訳なさそうな笑顔を向けた。
「ごめんな──もう、二度としねぇから」
そっと離れる手。静かに揺れる空気。
そう言い残して部屋を出て行った赤松は、その夜寝室に戻って来ることはなかった。
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