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第1夜

 上北康介は、28のサラリーマンだった。高校時代に知り合った女性と付き合って九年目、他に好きな人がいると振られた。うすうす分かっていたことだった。彼女の中に他の男の影が見え隠れしていることは。 「ごめん」  なにがごめんだ、そう吐き捨てたいのを必死で堪えて、最後にいつも寄っていたカフェをあとにした。  そのあとに適当にナンパされた男と付き合った。友達が連れ出した歌舞伎町での出来事だった。美しい容姿の男に声をかけられ、のこのこラブホまで出向いて喰われた。喰ったあとに「なんだ、お前から口付けてはくれないのか?」と笑われた。  仕方なく額の髪をかき上げて口付けると抱きしめられた。 「俺と付き合え」  まるでもう命令で決定事項で、俺はなすすべなく、頷いた。  男はヒロ、と名乗った。ヒロ?と聞き返すと源氏名だ、と返ってきた。ああ、だからいつも女の香水の匂いがするのか、と納得した俺は「ヒロ」と呼んだ。 「なんだ?」  大人のようで子供っぽいところがある男だった。今もそう。名前を呼んだだけなのに嬉しそうにはにかんでくる。 「康介、おいで」  男に興味や性欲を抱いたことはなかったが哀しい生き物だ。触れば欲情する。結局男でも女でも気持ちよければいいのだな身体は、と笑ってしまう。 「康介の好きなものをあげてごらん」  ある日、飯を一緒に食べてるとそう言われた。 「魚、野菜とかか?」  飯の最中なのでてっきり好きな料理かと思ってそうあげてしまう。 「康介の好きなものだ。愛してるもの。」  そういって片肘をつきながら俺が食べるのを眺めてた男は指図する。 「愛してるもの?」  困惑してしまう。答えは分かっていても、答えることに抵抗を感じてしまう。数分間ができる。 「ヒロ」  仕方なくそう言うと男は満足そうにプチトマトを俺の口元に運んでくれた。 「どうも」  もしゃもしゃ咀嚼すると酸味が口を支配する。俺はトマトは嫌いだったのに、男はそんなことはお構いなしに押しつけてくる。 「褒美をやらねばなぁ」  ヒロはニヤニヤ笑いながら、俺の頬を撫でた。髭は剃ってるしもともと薄いそれを、感触を確かめるように撫でる。 「褒美はもう、もらってるだろう」  ヒロはいささかつまなそうな顔をしながら「そうか」と返した。 「いつまでたっても康介がデレてくれん」  ヒロがそう溢すと友人は戸惑った顔をした。 「は?」 「康介がデレてくれんのだよ。俺はこんなに甲斐甲斐しく尽くしてるというのに。」 「ヒロさんさ、それうちの店の女の子聞いたら泣くぜ」  ヒロは鼻を鳴らした。 「あれは脂肪の塊だろう?それにいくらか知恵と知識をつけただけだ。」  友人は呆れかえって「お前なんでこんな職ついてんの」と言った。 「好きな人が女にモテモテな方がいいというから」  そういう彼に友人は「あーあ」と答えた。 「うちのナンバー1が男色家とはなぁ。」 「なに、珍しい話でもあるまい。女に興味がないから金だけとれるのだ。ビジネスと割り切ってな。」  友人は笑って「そりゃそうだ。」と欠伸した。 「康介。」  最近ヒロがやたら甘えたがる。口を開けば康介、康介、だ。 「なんだ。」 「茶を入れてこようか?」 「さっき煎れただろう」 「コーヒーのおかわりは?」 「水っ腹になる。」  ヒロは眉毛を下げてそうか、といった。同棲を決めて半月、ヒロの接触過多は目に余るものがあった。まるでリミッターが外れたように俺の名を呼ぶ。 「少し散歩でもしないか。美味しい茶菓子屋を見つけたのだ。」  俺がいつまでも小説を読んでることに焦れたのか、ついにヒロは根を上げた。 「お前な」 「せっかく一緒にいれるのになぜ本など読む?」  たしかにお互いの通勤時間を考えると貴重な休みの重なった日は、大事だ。 「分かった。出かけよう。」  ぱっとヒロは顔を輝かせて嬉しそうに笑った。  ヒロの言った茶菓子屋はこじんまりとした年季の入ったカフェだった。柱など手垢で黒ずんでいる。 「俺コーヒー」 「茶菓子屋でコーヒーはなかろう」  ヒロはさっさと店のお姉さんに、わらび餅と抹茶を注文した。どうせお金を払うのは彼なのだ。別にかまわないだろう。  さて、と鞄にしのばせていた小説をとりだそうとしたらその手を押さえられた。 「なんだ」 「ここで俺以外のことにかまけるならキスをしてしまうぞ。」  周りの人間もぎょっとしたと思うことをヒロは堂々と口にした。俺は慌てて鞄から手を離す。  だいたい話すことなど何があるというのだ。お互いの仕事の話をされてもよく分からないし興味がない。ヒロの本名さえ俺は知らないというのに。 「康介、今日は康介の好きなものを俺が作ってやろう。なにがいい?」  幸せ満タンという締まりのない顔で俺に笑いかけるヒロは、いつもの男前が台無しだ。俺はため息をついて、笑ってしまった。 「あんたが好きなものを作ってくれ。それでかまわない」 「康介が好きなものを作りたいのだ」  彼は器用貧乏でどれも程々にうまくできてしまうのでいきなりリクエストしても困ることは先ずない。 「じゃあ、ハヤシライス」 「ハヤシハイス?」  黒羽色の髪が傾く。 「ああ、あんたが作ったハヤシライスが食べたい。」  早速スマホで検索し始めて材料はなにがいいか聞かれてる間にわらび餅と抹茶がテーブルにきた。俺は人生初の抹茶に苦い、と思った。  帰り道を買い物袋で両手をふさいで歩く。ヒロは機嫌がいいらしく鼻歌など歌っている。 「その歌聞いたことあるな」 「店に来る子に教えてもらったのだ。いい曲だから是非聞いてほしい、と」  じゃあこれはどうだあれはどうだ、と歌の当てっこをする。ヒロの職業柄だろうか。どの歌も大体知ってるようだった。  マンションに戻ると玄関で口付けられた。ねっとりとしたそれに「長い!」と怒ると「じゃあ続きをしていいか?」と迫られる。  だいぶ性欲をもてあましてるらしい。 「遠慮しても?」 「聞かん子だ」  頭をぺしりと叩かれて、さっさとヒロは台所へ向かった。俺は「手伝うよ」と言ったが、「お前は料理下手だからな」と笑われた。  ハヤシライスをつつきながら夕飯を共にする。 「ヒロ」  男は顔をあげて笑った。 「なんだ」 「いや、あんたの作る料理はいつも旨いなと思って」  ヒロは嬉しそうに「そういってくれると思った」と破顔した。 「俺なんかでは出せない味だな」  ヒロは首を傾げて「教えようか」などという。 「余計なことまで教えられそうだから、いい。」  クツクツとヒロは笑った。まるで懐かない猫だ。腹すら見せずに堂々と俺の部屋に居座る。 「なにがおかしい?」  康介が怪訝そうに言うと「いや」とヒロは笑いを引っ込めて口の端に浮かべながら、ハヤシライスを咀嚼した。 「…はぁ、んっ、んんっ」  寝室から康介の苦しげな声が聞こえる。 「…出るぅッ」  ヒロはチュッと口付けた。二人とも素肌を汗ばませて摺り合わせた。 「あっ、ああっ、ん、…」 「誰が先にイってよいとイった。」  ヒロが更に激しく穿つと康介が涙をこぼしながら背をのけぞらせた。 「んあっ、ん!」  自分の中でヒロのものが痙攣する。その感触に浸りながら、ずるりと引き出された。  はぁ、と康介はため息をついた。ヒロが口付けてくる。 「お前だいぶ色香がついたな」  「色香?」と聞き返してしまう。涙で赤くなった目の縁をなぞられる。 「色っぽくなった」  康介は興味がなさそうに煙草に手を伸ばした。  町中でヒロを見かけたのはほんの偶然だった。ケバい女と腕を組んで女がもたれかかりながら歩いていた。  驚くほど嫉妬しなかった。どちらにすればいいか分からなかったし、ヒロは女にさして興味がなさそうだったから。女ばかりがヒロの興味を引こうと必死で哀れですらあった。そうしてそれは、九年間付き合った俺の彼女だった人だった。 「ヒロ」  そう呼ぶと男は嬉しそうに目を覚まして俺を抱きしめた。 「お早う」  そうして顔に口付けを落としてくる。最近朝は見送りたいとヒロがごねるので、出勤前に起こすのが常だった。どうせ二度寝するくせに。玄関で写メる音が聞こえたので、何かと思ったらヒロが俺の姿を撮っていた。 「いつもな、康介のスーツ姿は格好いいと思っていたのだ。」  そんなこと言ったらヒロの出勤服はその倍は格好いいのだが。 「行ってらっしゃい」 「ああ」  俺たちは軽く口付けて、マンションを出た。  電車に揺られながら彼女にちらついてた男の影はヒロだったのか、誰だったのか、ただ男狂いになってしまったのか悩んだ。でももう別れたのだ。関係なんて、ないだろう。  俺はそれ以上考えるのをやめて今日の仕事を能率良くこなすにはどうすればいいか、考えた。  会社に着くといつものデスクに座る。 「なんか先輩、女物の香水のにおいしますよ」  後輩に言われて「そうか?」と首を傾げた。ヒロの女客の香水の匂いが股移りしてしまったか。 「消臭スプレー缶、女性陣が誰か持ってるんじゃないかな。俺、借りてきましょうか」  そう言ってくるので「すまん、頼む」と借りてきてもらった。帰り道に消臭するものを買わないとなぁ、と思った。  残業で帰ってくると部屋の玄関の入り口の灯だけはつけてくれている。こういうヒロの気遣いはありがたかった。その代わり俺は、自分の夕飯兼ヒロの明日の朝ご飯を作る。簡単に総菜を作ってご飯を炊いておいた。その間に換気扇を回して、煙草を吸う。ヒロの影響ですっかりヘビースモーカーになってしまった。副流煙のせいだ、と舌打ちをする。  飯をお笑い番組を見ながら終え、茶碗を洗って風呂に入る。  ぼんやり湯に浸かりながら考えた。この前の夜、見かけたヒロと元カノの姿がちらつく。どちらにも嫉妬する気になれなかった。ヒロのシャンプーも石けんも使っていいよと言われているが、どれもべらぼうに高いものばかりなので気が引けて、俺は自分で買ってきた安物のシャンプーと石けんでざっと洗った。  夜中ごそごそという物音に俺が目を覚ました。なんだろうと眼鏡を取って電気をつけるとヒロが帰ってきていた。 「あ、わり。起こした?」 「いや」  ヒロは何かを探してるらしく部屋中を荒らしていた。 「どうしたんだ。」 「いや、それが。」  ヒロはご自慢の美しい顔を陰らせた。 「ないのだ。」  俺は頭に疑問符を浮かべながら「なにがだ。」、とたずねた。 「康介にもらった、ジッポ」  そういえば職業柄、百均の使い捨てライターはないだろうと思ってジッポをあげた気がする。 「また買えばいい。」 「あれじゃなきゃいやだ。」  俺はくあ、と欠伸をした。 「また買ってやる。店に戻らないとまずいだろ。」  まだ夜中の一時では店はかき入れ時だろう。俺はそう提案した。 「でも」 「ヒロ」  一瞬たしなめるような間ができてから、俺は言った。 「モノなんかいっぱいあるだろ。仕事、いってきな?」  ヒロはうなだれてから「分かった。」とのろのろ家を出て行った。少し、いやな予感がする。  次の日、飯をどこで食おうかと話しながら社を出ると、会社の玄関に彼女が立っていたので驚いた。  彼女はチュッパチャプスを舐めながら、寒そうにズボンに手を突っ込んでいた。 「久しぶり」  チュッパチャプスの棒を弄びながら彼女は言う。 「…久しぶり」 「どうしてた?」 「煙草、やめたの?」 「まぁね。肺がん怖いし。」  俺は同僚に「飯、彼女と食ってくから」と言って彼女と並んで歩いた。  彼女が転職したこと、新しい彼と結婚を考えてること、最近犬を飼い始めたこと、ぽつんぽつんと話し始めた。俺は黙って相づちを打つ。 「康介」  彼女は唐突に踵をあげて唇にキスした。飴のせいで唇が甘くなる。 「ありがと。今まで。幸せに、なります。」  そうして辛そうに笑う。俺はその頭をぽんぽんと叩いた。 「それ、してほしかったの。付き合ってた頃、不安になるといつもそうしてくれたでしょ」  彼女ははにかむ。俺は「うん。」と言った。 「じゃあ、な」 「じゃあね」  そこで俺たちは別れて俺は飯を食わずに社に戻った。ころんとひとつだけ、涙が落ちた。 「康介ー。か-まーえー」  ヒロが退屈そうに足を俺の背にやってぐりぐりしてくる。 「ちょっと待てって。」  俺は持ち帰った仕事をパソコンに打ち込んでいた。 「休日まで仕事とかー、まじありえないー。」 「仕方ないだろ。今クビ切りが流行ってんだから。」  そう、今働いてる会社はリストラで世間が騒がなくなったところを見計らうように、クビ切りを始めたのだ。 「なぁ、終わった?まだ?」 「まだ。」  ヒロはむくれて煙草に手を伸ばした。 「康介-、チューしちゃうから仕事やめようぜ」 「どういう理屈だそれは。」  ふう、とため息をついて眼鏡を外す。 「終わった?」 「ああ」  ぎゅうう、とヒロは抱きしめて指を絡めてきた。 「康介、最近働き過ぎ。」  「痩せた?」と聞いてくる。 「少し、痩せたかもな。」 「そんな康介にプレゼントがあります。」 「なんでしょう」  ヒロは照れくさそうに指輪を取り出した。 「形だけでも、俺のモノだって証明したいから」  俺はその場で指輪を身につけた。少し窮屈な気がしたが、それぐらいが抜けずにちょうどいいだろう。 「ありがと」 「それだけ?」  不服そうな彼に俺は立て膝をたててキスをした。 「大切にする」  ヒロは嬉しそうに笑って「昼間から酔ってヤっちゃうなんてどうでしょう」とブランデーを振る。今日は土曜で二人とも明日は休みだった。 「いいね。」  二人で口つけ合いながら酒を飲んだ。ぼんやりした頭で泥酔した俺の髪をヒロは撫でた。 「ごめんね。康介」  哀しそうにヒロは口にする。  小さな頃の夢を見た気がする。俺がまだほんの小さかった頃。俺の家は貧乏で、よく義理の姉のお下がりを着せられていた。 「こうちゃん俺のこと好き?」  男の子は綺麗なスッキリとした顔立ちをしているのだけ分かるのに、夢の中では判然としない。 「俺、女の子にモテる子が好き」 「なんでこうちゃん女の子にもてる子が好きなの」  男の子は若干、不服そうに言い募る。 「女の子にモテる子は性格がいいってお母さんが。」  相手の子はしばらく考えたそぶりを見せたあと「わかった!」と言った。 「俺、女の子にモテモテになってみせるよ。こうちゃんの心を掴むために。」  俺は頭を傾げると男の子はいつものように俺の頭をぽんぽん優しく叩いた。そうされると安心して嬉しくて、俺はえへへ、と笑った。 「俺、××君のこと好きだよ。」 「知ってる」  男の子は訳あり顔に頷くと「将来俺のお嫁さんになってね」とはにかんだ。 「およめさんてなに?」 「俺のものになってって意味」 「??。××君のものに?」  男の子は手をぎゅっと繋いだ。 「絶対だよ?」 「うん」  そうして男の子は俺の手の甲にキスをした。  目が覚めると夕方で腰がだるかった。なんの夢を、見ていただろう。隣でヒロがすーすーと寝息を立てている。  起こすのも可哀相なので一人ソファから離れた。ヒロの精液の入ったコンドームと俺の精液を拭ったティッシュをゴミ箱に捨てる。  夜は寿司でも買ってきて食べようかな、と思った。休みの日はヒロが作るときもあれば俺が作るときもある。今日は疲れたからスーパーで寿司でも買って食おう。そう思うと俺はヒロの傍にうずくまって二度寝した。  夏の日差しに遠くミンミン蝉が聞こえる。

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