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番外編
壱。
「何度きても同じですよ」
お手伝いさんの年齢特有のキンキン声が出る。それに煩そうに顔をしかめてから「何でですか」とヒロは言い寄った。これでこのうちを訪れるのは何度目だろう。手にしたクッキーが、がさがさ音を立てる。姉に教わって拙いながらもお菓子を毎回持参した。今日はバターレモンクッキーだった。クラスでも好評でこうちゃんが喜んでくれる自信があった。
「坊ちゃんはお会いになりません。さっさとお帰りください。」
けんもほろろと行ったところか。ヒロは全く相手にされなかった。レーズンバターに、パウンドケーキ。フイナンシェにティラミス。お菓子だけでも渡してもらえないですか、と頼み込んでも聞き入れてはもらえなかった。
「だからなんでですか」
苛々を隠そうともせずヒロがいうとお手伝いさんはため息を吐いた。
「坊ちゃんがつらくなるでしょう。前住んでた場所を恋しがって、いつまでも引きずられては困るんですよ。」
お手伝いさんの物の言い様にヒロは顔をかたくした。
「一目だけでも」
違う小学校に上がってしまった二人はもう接点などないに等しい。康介の母親が教えてくれるわけがないし、俺は泣き落としで園の保育士さんから居場所を聞き出した。
「あんまり煩いと家の人に言いつけますよ」
子供だから。
子供だから舐められるんだ。
お手伝いさんの邪険の仕方に「子供は大人の言うことを黙って聞きなさい」というニュアンスを感じてヒロは奥歯を噛み締めた。
早く大人になろうと思った。大人になってこうちゃんを迎えに行って、二人で暮らそう。それはどんなにか辛いバイトも勉強も、苦にならなかった。
―――成績優秀者には学費を免除します。
そう言われて俺は目を瞬いた。
「なに岩ちゃん、その文句。」
「お前に奨学金制度がおりた。ありがたくもらっとけ。」
俺は「えー、そんなのあるんですね」と肩をすくめて見せた。
「嬉しくないのか」
「嬉しいですよ」
岩ちゃんは変な顔をした。
「一応俺も教師の端くれだがな。奨学金をもらって不思議そうな顔をする生徒は初めてだ」
「岩ちゃん」
俺は生徒である前に一介の人間だよ、それを考えてほしいな、と告げる。おお、怖、と岩ちゃんは大げさに身をのけぞらせた。
時々こうちゃんのことを思い出す。いろんな人間と付き合ってみたがどれも結局康介と比べてしまってお話にならない。こうちゃんならこういう時にこう言うな、こう言ったら怒るのにな、そればっかりだった。
弐。
舞は目を細めた。妊娠チェッカーを睨みつける。
それは確実に陽性を示していた。
妊娠、している。
堕ろそうかとも考えた。堕胎の費用だけもらって、残りの金であの男の顔でもはたいてやればいい。でも。お腹をさする。
「舞、舞は好きな人はいないの?」
そうからかうようにいつも聞いてきた、優子さんの声が聞こえるようだった。
遊園地のジェットコースターのあとしゃがみ込んだ優子さんの背中を呆れながらさすった。
「駄目なら駄目っていってよ。わたしてっきり優子さんこういう乗り物平気なのかと思ったじゃん。」
青い顔をした優子さんは「ごめん。」と口元を押さえた。
「何か飲み物を買ってくる。」
そのまま自販機まで走って、冷たいお茶を買ってくる。その間に優子さんは見知らぬ男性に、ナンパされてた。間に割って入って「いこう、優子さん。」と引っ張る。男どもの大ブーイングは無視した。
「舞、ありがと。」
心なしか照れたような笑顔にわたしは憤慨した。
「優子さんは自分の外見に自覚持って!それなのにふわふわしてるんだから。」
お茶を手渡すと「えへへ」と言いながらそれを受け取って少し口に含んだ。
「舞、あのね。わたしお弁当作ってきたんだ。」
そういってリュックから布で包まれたお弁当箱を取り出す。それでいやに大きなリュックだったのか。遊園地でお弁当とはこれいかに。
「もう、仕方ないなぁ」
そんなもの適当に備え付けの飲食店で食べればいいのに。舞はため息をつきながら笑った。お弁当は全部わたしの好物で「今度お返しするね」、と言うと優子さんは照れたように笑った。
優子さんはとても可愛らしいのに人とズレてる。おっちょこちょいというか、世間知らずというか。そのくせ物凄い美人で、嫉ましさで陰口がやまない人だった。始めに怒ったのはわたしだった。
「目の前にいるんだから、はっきりいえばいいでしょう!それをわざとこそこそこそこそ!」
わたしは完全に頭にきてた。そう言うのは大嫌いなのだ。まわりは目を点にしたあと「な、なにがよ」と怖じ気づいたように口にした。横に本人を呼び出して、ないがしろにしながらわざとのけものにして悪口を言う。わたしは激高して、彼女の手を取った。
「いこう、優子さん。こんなとこいる価値ない。」
優子さんは戸惑いながらわたしに手を引っ張られ、教室を出た。そうして「えへへ」、と笑う。
「助けてくれた人、あなたが初めてよ。放っておいてくれてかまわな」
パチンと猫だましをくらわされて優子さんはきょとんとした。
「自己回避能力!」
疑問符を頭に浮かべた優子さんにそう告げて、ため息をついた。
「これがあなたの日常茶飯事な訳ね」
優子さんはなんのてらいもなく「うん」と笑った。
それから優子さんとわたしの仲が始まった。
休みの日に友達と出かけたことがないと聞かされて驚き、プールで水に顔もつけられないというので呆れかえり、雪が降ると子供のようにはしゃぐ。どっちか年上なんだか分からなくなるような気持ちによくなった。面倒を見てるのか、見させられてるのか。苦笑してしまう。
「ほら、優子さん。こけちゃうよ。」
手を伸ばして繋ぐと、またざくざく雪の中を歩きだす。優子さんはぎゅっと強く握り返してきた。小さな薄い手のひらだった。
その次の年、優子さんは交通事故に遭って亡くなった。
妊娠したのが分かってからの行動は早かった。すぐにあいつをカフェに呼び出した。妊娠して生んでやるが、一千万では子供は大学まで行かせられない。そう告げるとヒロは目を点にした。
「手切れ金のつもりなんだけど?」
さっさと堕ろせば?と言わんばかりの態度に腹が立った。
「君ね、命をなんだと思ってるの。」
育てあげるのに必要な額を事細かに説明する。認知もされないのだ。これぐらい出すのが当たり前だ、と提示すると一瞬相手が息を呑んだのが分かった。
「生むの?」
「産むわよ」
ヒロはがしがしと頭をかいて、煙草を新しく取り出すとジッポで火をつけた。
あ、と思う。康介の選んだものだ、というのが一目で分かった。シンプルで実用的、物持ちが良さそうな、いかにも康介の趣味だった。心の中がどす黒くなっていくのが分かった。
「今は用意できないけど、あいつらも何万か出させるよ。残りは振り込むから銀行口座教えて。俺もうお前の顔見てるだけでうんざりするわ」
同じ人を好きになった、最低な男。つばを吐きかけたいのを我慢した。
「じゃ、俺ちょっとあいつらに電話かけてくっから。」
席を立ってトイレへ消えていく。その隙に、置きっ放しだったジッポをくすねた。
なんであんたが
なんであんたが康介の傍にいるのが許されるのよ。
腹を撫でる。この中に命が宿っている。本当のことを知ったら、きっと傷つくだろう。泣きたい気持ちになって、慌ててコーヒーを口にした。
苦い。そういえば優子さんはコーヒーが好きだった。砂糖とミルクを大量に入れないと飲めないわたしに無理して合わせなくていいのよ、と困ったように笑っていた。
優子さんの気持ちに気付いてなかったと言えば嘘になる。本当は気づいてた。でも付き合うわけにはいかなかった。優子さんとならそういう関係になってもいいと思った。
でも康介が好きだった。
紙切れに銀行口座を書き込む。ここに振り込むよう指示を書くと、そっと店を出た。これから子供と二人生きていかなきゃいけない。こんな人生を歩むはめになろうとは思ったこともなかった。康介の傍にずっといるつもりだった。ポケットのジッポが手の体温で温まった。ぎゅっと握って駅前まで歩く。
鏑木舞のアパートは既にもずくのからだった。引っ越してからもう何日も経っているらしい。俺は空っぽな部屋を眺めて、舌打ちした。
十中八九、ジッポを盗ったのは鏑木舞だ。なんで気付かなかったんだろう。自分で自分の甘さに笑ってしまう。
どこへ引っ越したか知りませんかと大家に尋ねても、さぁねぇと曖昧な返事が返ってくるだけだった。職場も当たったが、既に退職したあとだった。康介に聞けば実家がどこにあるか分かるかもしれないが、そんなわけにもいかない。俺は泣く泣く康介にもらったジッポを諦めた。
苦味を潰したような顔をしていると、後輩に「どうかしましたか」と言われ、「なんでもない」と笑い返した。
それきり、鏑木舞の行方は分からない。銀行にお金は振り込んだが、機械に飲み込まれていく札束が本当に鏑木のところへ届くのか、なんだか妙な気持ちだった。腑に落ちない。居心地が悪い。それはそうだ。
鏑木舞が産む子は、俺の子でもある可能性があるのだから。
誰の子かは分からないが、それでも一人で育てあげる度胸はたいしたものだ。変に感心してしまう。
店の外で待たせていた客が銀行を出るとべったりくっついて、甘ったるい声でまとわりつく。煩いな、と思いながら甘い文句で口説けば化粧の濃い顔で嬉しそうに笑う。どこか鏑木舞の化粧気のない顔を思いだして、苦笑してしまった。
「ヒロのために整形してよかったぁ」
ぽんぽん頭を叩くとにやけた顔で笑う。
「ヒロの女の趣味にカンナ合わせてあげたんだよ?」
鏑木舞と俺ができてるなんてどこでこの女は間違ったのだろう。鏑木舞そっくりの顔に整形して現れたときは何事かと思った。
「ヒロも好きな子に男がいたからってぇ、めげちゃ駄目だよぉ。カンナがいるから。」
ね?と首を傾げるのに噴き出してしまう。カンナはきょとんとしたあと、なんで笑うのー?と軽く二の腕を叩いた。犬みたいでまぁいいか、と思う。
「寿司奢ってやるよ。タクシー乗ろうぜ。」
女は腕を組みたがったが、わざとはぐらかしてタクシーを止めた。
「カンナの整形費用代分、付き合ってくれなきゃいやだぁ」
ふあ、と欠伸が出る。抱き寄せて湯たんぽ代わりにすると、煩いほど甘い香水の匂いが漂った。
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