2 / 15

第2話

 秘書という輩は小言が好きだ。  と、言い切れるほど、私は他の秘書を知らない。が、少なくとも私がよく知る唯一の秘書は、顔を合わせれば息をする程の気軽さで小言を放った。 「髭を、剃るなと、何度言えば貴方は、私の助言に耳を貸してくれるのか」  自室のドアを閉めた途端、背後から投げつけられるのは低く響く声だ。  あまり目つきのよくないイーハが眉間に皺を寄せる様は、出来れば他の社員には見せたくはない。ただでさえ堅物でとっつきにくい外人だと思われている彼に、より一層近づきがたいイメージが付いてしまう事だろう。  そんな心配をするものの、主である私も、世間的には近づきがたいと思われている事を知っている。その点でもイーハと私は良いコンビだと、勝手に思い込んでいた。  良いコンビというものは、お互い歯に衣着せぬものだ。故に私は彼の小言を愛していたし、イーハは私の頑固な反論をもちろん期待している、と思うことにして、いつも通りつるりと剃り上げた顎を撫でた。 「嫌いなんだよ、髭が。鏡を見るたびに親族全員の顔が頭に浮かぶ。とんでもなく滅入る。今日の会議にはきちんと髭を伸ばして出席したんだから満足だろう」 「そのまま一週間は剃らずに我慢していただきたいものです。叶うことなら貴方の生活範囲から刃物を全て奪いたい」 「物騒な物言いをするもんじゃない。私が神に背く自傷者のようじゃないか」 「貴方はアッラーを尊び命も尊ぶ敬虔で誠実な方ですが、社会的な尊厳も維持していただきたいと思っているだけです」  内心では『髭くらい我慢して生やしていろ』と思っていることは見え見えだが、それを口にしないイーハは根本的には私に甘い。  彼の小言は常に耳に痛い事実と助言でできていて、決して私の感情や規律を批判するものではない。  生真面目な五歳年上のアイルランド人の秘書との付き合いは、もう十年を過ぎた。  元々は歳の近い家庭教師だった彼は、遊び友達も兼ねていたためそのまま素直に友人となり、今は居なくては困る片腕となった。  イーハが居なくては、面倒事が嫌いな私は細々としたメールを見逃すし、スケジュール管理も出来ずに日々頭を抱えるだろう。書類や読書に熱中しすぎて、出勤や退勤の時間を忘れることなどザラだ。  とは言っても、私の仕事などはたかが知れている。個人的に手を伸ばしている企画や提案を除けば、居ても居なくても変わらないような管理職が私の日々の業務だ。  アラブ首長国連邦。ペルシャ湾に面したアラビア半島の先端に構える我が国の経済は、言わずと知れた石油産業で回っている。  膨大な富を生み出す石油産業は、今は国営となっている。しかしながら、結局は王族が国の中心となるので、石油産業は貴族王族の物である事に変わりはない。個人的な匙で石油を売る事が無いだけだ。  私達には、がむしゃらに働かねば会社が立ち行かない、という感覚がない。豊かな石油産業を運営しているのは国で、私達は国に従い働く。近年脱石油を掲げ始めたアブダビで、新しく提案する事業や企画は山ほどあるものの、向上心や野心を抱かなければ比較的緩やかに生きることができる。  石油以外の事業を提案すべく勤労の日々を送る私とイーハは、この国では奇異の目を向けられる事も多い。  もとより、爪弾き者である。今更体裁を取り繕ったところで何が変わるわけでもない。  変わり者は変わり者らしく、見た目からも主張していれば、面倒な馴れ合いに巻き込まれることもない。私の顎などつるつるなくらいがちょうどいいのだ。  そんな言い訳を胸に、私は出来るだけ長い時間、髭を剃り落として過ごしている。  口周りと顎の髭は、成人男性の象徴ともいえる。髭がないのは子供かゲイだけだ、などと巷では囁かれる。  髭がない変人だと思われている私は、社交面がかなり弱い。生まれが保証されている貴族の末端だとしても、偏屈そうな変人などとは誰も仲良く付き合いたくないだろう。  これはもう何度もイーハと話し合っている事柄だが、彼は軽口がてら何度でも私の髭の話を蒸し返す。もはやライフワークのようなものだ。 「社交とは外面です。貴方は真面目で素晴らしい人間ですが、それをアピールする力がなさすぎる。ほんの少し髭面を我慢するだけで、あと五人は貴方の話に耳を貸す筈なのに。貴方のお父様が新しい事業を任されたのも、多くの議員の信頼と融資があったからだと伺っております」 「髭と新事業の議論は飽きたよ、イーハ。この国の石油以外の事業に金を出す金持ちは、全てドバイに奪われている。かの派手な観光地ならともかく、この街はまだ石油が第一だ。例え石油の次に金になる事業を考えています、と提示していても、まだ動く人間は少ない。例え私に髭があろうとなかろうと、その事実は変わりないさ」 「日々の積み重ねはいずれ力になるとは思いますがね。今日もムハンマド氏が……」 「どのムハンマド?」 「失礼しました。ムハンマド・アル=ハーリド氏が、せっかく貴方の話に興味を持っているそぶりをお見せでしたのに」 「ああ……いや、あの人は、今は宇宙計画に熱心だ。握手を求めた瞬間、火星移住への夢を懇々と語られて辟易するに違いない」 「気が合いそうじゃないですか」 「……何故そう思う」 「最近は火星の話で盛り上がっていませんでしたか?」  思わず、座った椅子から腰を浮かしそうになる。なんとか平然とした顔でこらえてから、出来うる限りの渋面を作り、涼し気な顔の秘書を睨みつけた。  確かに先週届いたメールには、笑える程の長文で火星の気圧と大気の説明が綴られていたが。 「……メールを読んだのか」  苦い顔で言葉を絞り出す私に対し、秘書はしれっと答えた。 「私のパソコンに届くメールには全て目を通しますよ。私のメールアドレスですから。それが私の仕事です」  まったくその通りだ。イーハが使っているパソコンに届くメールはダイレクトメッセージ以外ほとんどが仕事に必要な話だ。その膨大な量のメールを読み、それぞれに的確な返事を返す事も秘書の仕事である。  彼の仕事用パソコンに届いたメールは、確かに全て彼に宛てられたものだ。それは承知している。承知しているのだが、この件に関して私はいかんともしがたい感情を抱えていた。  きっかけは一通のメールだった。  人類は本当に孤独ですか? というタイトルのメールが届いたのは、半年ほど前の事だったと記憶している。  その日は珍しくイーハが休暇を取っていて、私は珍しく暇を持て余し普段はほとんどやらない雑務を黙々とこなしていた。その雑務の中には、私の秘書宛のメールを少々分類する、という仕事も含まれた。  イーハのパソコンもメールアドレスも完全に仕事用で、私はそのメールを全て閲覧する権利を持っている。大層な件名を眺め、迷惑メールか宗教のDMの類か、とそのメールを開いた私は、まず膨大な量の英語の羅列に目を見張った。  英語は話せなくもない。だが文字を読むことは苦手で、積極的に勉強することも避けていた。私は、苦手なものと向き合う忍耐力に欠けている。  日常会話は出来るが進んで英文を理解しようとも思わない。その程度の外来語知識しかない私は、膨大な量のテキストをざっと見渡し、少々気になる不思議な単語を拾っていった。  宇宙。科学。大気圏。軌道。資金。どうやらこの文章は宇宙開発関連の機関もしくは企業からの融資勧誘目的の営業メールだと理解した。  常ならばそのメールは、勤勉で判断を誤らないイーハの手でゴミ箱に放り込まれていただろう。しかし私は絨毯模様のようなぎっしりと並べられた英文を掻い摘んで読み、その下部に記されたアラビア語の翻訳のようなものを顔を顰めながら読み終えると、返信のアイコンをクリックした。  まずは融資の誘いはお断りすることを簡潔に述べたうえで、この文章を書いた署名者に向かって『下部のアラビア語はあなたが翻訳したものか』と問いかけた。  オリヴァー・グレイと名乗ったイギリスドメインのメール主は、私の質問にYESと答え、私はたどたどしい英文であなたのアラビア語はなかなかひどいがもう少し直せばとても美しくなる、と添削を添付した。  そして二時間後には、例の言葉と共に私の酷い英語に対し、あまりにも丁寧すぎて善意しか見えず全く腹が立たない見事な添削が添えられた返信が来た。  以来、私はイーハの名前とパソコンとアドレスを借りたまま、オリヴァー・グレイとの奇妙なメール交換を続けている。  ノルという愛称を名乗った彼は、イギリス人の若者だった。バッキンガム宇宙生物研究センターに所属し、日々地球外生命体の探索や宇宙開発について研究し、時折各教授や職員の雑用をこなし、その伝手で更に他の研究所や宇宙開発企業の雑用バイトもこなしている。無差別メールも恐らく、どこかの誰かから頼まれたものなのだろう。  なんでも彼は、我がUAEが二○二○年代を目標に火星に打ち上げる予定の有人探査船の計画に興味があり、まずは言葉だ、とさっそくアラビア語の勉強を独学で始めたらしい。  読めなくはないが若干散らかったアラビア語を綴っていたノルは、最近では私もはっとする程に難しい表現を使うようになった。私にとっても彼とのメールのやり取りは、英文の勉強として有意義な時間である。  イーハのメールアドレスを拝借しているせいで、ノルからの返信は大概イーハに読まれる。我々のメールの内容は実にどうでもいいものが多い。ノルはひたすらに宇宙の話を綴ったし、私は気候や食事の話や、彼の専門用語が散りばめられた宇宙談議に些細な質問をする程度だ。特別、イーハに読まれて困るような文章はない。  しかしながら、覗き見されているような気分はぬぐえない。その上私はイーハの名を騙っている。先方からその名で呼ばれる度に、名を偽っている罪悪感が募る。  最初に名乗り損ねた私が悪いだけの話だが、とにかく私は大変身勝手な、なんとも言い難い悩みを抱えているわけだ。 「いい加減、ご自分のメールアドレスを伝えて、改めて自己紹介から始めたらいかがですか?」  私の悩みをほとんど完璧に理解している旧友は、相変わらずの澄ました顔で機械的に書類を捲りながら、滔々と口だけを動かした。 「嫌だ。無理だ。なんて説明したらいいんだ。『やぁノル、実はキミが半年間イーハ・オコナーだと思ってメールを送っていた人物は、ラティーフ・オマール・アブドゥッラーという名前の変わり者のアラブ人なんだ』なんて言えるか? 多少フランクに言ったところで、質の悪い冗談にしかならないだろ……」 「アメリカンジョーク風で良いと思いますけどね」 「彼はイギリス人だ」 「存じています。しかしオリヴァーも最終的にはNASAに就職したいのでは? ヒューストンはアメリカでしょう。何より彼は、貴方の些細な偽りに腹を立てるとは思いませんけどね」  確かに、ノルは怒らないとは思うが。……思うが、どうにも私の方に勇気がない。怒らないと予測はしても、連絡を絶たれる確率はゼロではない。  臆病な私を笑うかのように、イーハはちらりと視線を寄越して目を細めた。 「……さっさと誤解を解いて、会いに行けばいいでしょうに」  この言葉に、私は思わず息を飲む。頭が痛く、そして非常にもどかしい気持ちだった。 「昨日からアブダビに来ているのでしょう?」 「一昨日だ」 「時間が合えばぜひ会いたいと熱烈に誘われていたじゃないですか。返事はしたんですか?」 「多忙でまだ予定がわからない、とだけな。いいか、私はどう見ても白人ではないしアイルランド人でもない」 「アメリカンジョーク風に自己紹介する案は却下ですか?」 「却下。私は彼に名を明かさない」  私の決意に対し、イーハは軽くため息を吐いた。言葉にせずともイーハの言いたい事はわかる。意気地なし、頑固者、不器用。まあ、だいたいそんなところだろう。  しかし私は断固、自分の決意を貫くつもりだ。ともすれば己の精神を殴りつけるようなこの感情を、今やすっかり持て余している。そのことをイーハには再度伝えるべきだと腹をくくり、私はできるだけ私の精神を殴らない言葉を探した。 「彼に会えば、私はアッラーに背く」  イーハは暫くの無言の後に、ほとんど顔色を変えずにいつも通りデスクのパソコンを開いた。いつも通りの仕草に、いつも通りの定位置に、いつも通りの顔だ。しかし声だけが少しだけ湿ったように低い。  それは彼の、私に対する憐憫だ。 「……本当に、随分と入れ込んでいますね。顔も知らないのに」 「うるさい。私は彼の真摯な文章を尊敬しているんだ」 「会えば、イスラムの禁を冒す自覚があるほどに? いえ、すいません悪いなどとは全く思っていません、私は貴方の動揺を歓迎しています。ですが面白がっているわけではないし、野次馬でもないんです。どうにか平和的に、誰も不幸にならずに、貴方の心が救われる事を願っているんですよ」 「……知っているよイーハ。おまえが酷く私に甘い事も、私の宗教を理解してくれている事も、配慮してくれている事も。私は神に背けない。信仰する宗教に従い生きていく。だから、せめて電子の文章の上だけでも、他宗教のおまえの名前を貸してくれ。……申し訳ない、とは思っているよ」 「いえ、私は特に、何の実害もないですし。単に個人的にもどかしいだけですので――」  ようやくこの面倒で頭の痛い話が終わる予兆を見せた時、けたたましいアラームのような音が響いた。  イーハの携帯の音だ。さっと端末の画面に目を走らせた秘書は、剣呑な顔で眉を寄せてから通話ボタンを押しつつ、私の部屋から退室した。  さて、すでに夕刻が近い。日没後の礼拝まではまだ時間があるし、ささやかな食事はその後になる。  断食月であるラマダンの最中は、日が昇っている間は何も口にしてはならない。とりあえず暑苦しい正装を脱ごうとしたところで、つい先ほど退室したイーハが颯爽と戻って来た。 「申し訳ありません、ラティーフ。服はそのままで。今から少々、外出していただきます」 「……いまから? 別に、構わないが、何か急用か?」 「できるだけ急ぎたいと思う筈ですよ、貴方も。市内の警察から連絡がありました。ノルという外国人が、盗難と暴漢に襲われた被害者として拘束されているそうです」 「………………なんだって?」 「落ち着いてください。とりあえず今のところ、彼に怪我はないそうです。なんでもラティーフ・オマール・アブドゥッラーとその秘書に連絡を取ってくれと喚いているということです。ひどく混乱していて要領を得ないと警察の職員は訴えていますが、こちらこそ何が何だか全く理解できなかったので、今からそちらに向かうと言って一度切りました。オリヴァーが言葉を話せる状態ならば、彼に直接聞いたほうがいいでしょう」 「いや……待て、盗難と暴漢? と言ったな……何で、被害者であるノルが、拘束されているんだ?」 「どうも、行き違いがあるというか、勘違いがあるようですね。とりあえず行きましょう。私だけではただの外国人と思われるかもしれない。先ほどけしかけておいて何ですが、こんな形で貴方を彼と会わせることになるとは思ってもいませんでした」 「――いい。私が行った方が早いのは確かだ。急ごう、外はひどく暑い。精神的にも肉体的にも、彼はいま辛いだろう」  どんな状況か、全くわからない。しかし、ノルが困難な状況に放り込まれているということだけは確かだ。  私はこの半年間で、彼の勤勉さと少しばかり間の抜けているところを知り、そのどの特徴もすべてが愛おしい長所であることを知った。  彼に会えば私は己の禁忌を破ってしまうに違いない。そう思い、遠いイギリスから通訳の仕事で入国するノルに、忙しいから会う時間は作れないかもしれないと返信した。  車を用意し、慌ただしく乗り込み街を走る間、私はイーハとどんな話をしていたのか。ほとんど記憶にないのは、あまりにも動揺していたせいだろう。  観光客には多少寛容とはいえ、ここは宗教の国だ。私達にとって当たり前である戒律は、外国人には馴染みが薄いものだろう。ほんの少しの不注意が、彼の人生を狂わすような罪や汚点になってしまっては困る。  ほとんど記憶もないまま、私は目的の建物にたどり着いた。  私はノルの顔を知らない。私達はプライベートな話をしなかったし、休日の写真をやり取りするような間柄ではないからだ。けれど私は、部屋の隅に座らされている白人青年が彼であると、すぐに確信をもった。  オリヴァー・グレイは、二人のアラブ人と同じく拘束されていた。涙をこらえるような顔で口を引き締め、床を見つめていた青年は、私と連れに気が付くと目を見開き、息を吐いた。  半分引きちぎれかけたような服を纏い、ぼさぼさになった長髪を垂らした彼はとても美しかった。男性の美というよりは、中性的な、女性を思わせる可憐さがある。とはいっても彼はどう見ても男性だったので、素直に女性だと勘違いされることはないだろう。  麗しい人は青く薄い瞳で私を見上げた。  その白い手を取った私は、まずは息を吐いた。  彼が無事で良かった。彼が、涙を流していなくて良かった。私は私の生活が最良とは思ってはいないが、私の国を愛している。願わくば彼に、私の国を嫌いになってほしくはない。  まずは手を取り謝罪を述べ、そして歓迎の言葉を連ねる。  少し下から私をのぞき込む薄い青は、ぱちぱちと瞬きをした後にふわりと甘く微笑んだ。 「よかった。……思っていた通りの人だ」  ありがとうラティーフ、と言った軽やかな声を、私はどれ程正確に理解していたのか、自信がなかった。

ともだちにシェアしよう!