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第3話

 大変だったねぇ、と声をかけられた僕は、その単語の主語がどこに潜んでいるのかちょっとだけ頭を捻ってから、ああそうかこれはあれだ、僕の一昨日から続く一連の出来事に関するとてもふわっとした感想だ、と気が付いた。  確かに、散々な二日間だった。  一昨日の夕方の騒動はもう思い出すのも嫌だから省略するけど、昨日は朝からパスポートの再申請の為にドバイに向かわなきゃいけなかったし、ついでに携帯も買わなきゃいけなかったし、そのための休暇を申請しただけで山ほど小言をもらった。  ちなみに昨日、困るとか仕事が進まないとか現地の通訳は学がないとか腹が減ったとかドバイに行くならデーツを買ってこいとかうるさかったのは、今目の前でへらへらしている教授その人だったんだけど。御本人はさも災難だったねみたいな顔でパソコンに向かっている。  ジョージ・アニストン教授は、大体の人に『悪い人ではないんだけど』と紹介される感じの人だ。  僕だって、彼は一体どんな人? と訊かれる事があるならば、同じ台詞を口にする。  頭はいいし実績もあるけれど若干性格に難がある。僕に言われたくないだろうけど。うーんでも、ちょっと高飛車で自意識過剰なところが疲れるなぁと思わせる要因だとわかっているし、いきなり怒鳴ったり殴ったりはしないので、一応人間としての最低限の対話はできている筈だ。たぶん。  昨日僕が買ってきた高級デーツをつまみながら、アニストン教授はずり落ちそうなメガネを骨ばった中指で押さえた。白髪の混じる髪はボサボサで、アブダビ四日目にして、早くもシャツはよれよれだ。 「君が一日災難だったおかげさまで、まぁ、ぼくも中々災難だったんだけどね。こっちの国が用意した通訳は本当に腹が立つほどこちらの言葉を理解しない。まったく今時慣性や空気抵抗も通じないとか信じられないね……優しい英会話物理学編をしに来たわけじゃないんだからさ、ぼくは。いいかげん英語は世界公用語になるべきだ」 「えーと。……すいませんでした?」 「うん。災難は仕方ないけど、誰にも迷惑かけないようにしてほしいよ。それで、キミは今も定住してないの? 連絡が取りにくくて嫌なんだけどね」 「あ、宿はえーと、こちらの友人の家にお世話になっています」 「はー。友人。友人ねー。そんなものが居るならば最初から、見栄を張らずにタダ宿してたらいいのに。そうか、友人ね。友人なんてものが居るのか、君にも。私たちのような生き物は、得てして孤独だと思っているんだがねー」  アニストン教授の口調には、馬鹿にした様子も、特別機嫌が悪い様子もない。本気で、思ったことを素直に口にしているだけなのだ。  だから僕も言葉尻を捉えて勝手に悩んだりへこんだりはしない。適当にそうですねと答えてから、明日のスケジュールを確認して、今日はもう帰っていいよと手を振られる。流石にホテルの場所くらいは覚えたようだったので、ありがたく僕は先に帰ることにした。  書類やパソコンやタブレットを片付け、新しく買ったボディバッグを掴んで身に着けながら、アニストン教授の言葉を反芻する。  私たちのような生き物は、得てして孤独だ。……うーん、まあ、わからなくもないなぁ。なんて偉そうに頷いてしまう。  科学者は変人だ。変人には友人ができない。だから孤独が当たり前だ。僕は科学者ではないけれど結構な変人だと思うから、友人なんて呼べる人たちが数人でも存在している事を不思議に思う。  物好きな人たちがたくさんいて、ありがたいことだ。  なんとなくしみじみと故郷が恋しくなる。みんな元気かな。そういえばほとんど生存確認レベルのメッセージしか送ってないけれど、いい加減顔を見せてゆっくり話したい。  なるほどこれがよく聞くホームシックってやつかぁ、なんて思いながら宇宙センターの狭いロビーに出た時だった。 「ノ――……オリヴァー・グレイ!」  すたすたとエントランスに向かって歩く僕の後ろから、聞き慣れない男性の声が追いかけてきた。  僕は変人で、ただでさえ友達や知り合いなんてものが少ない上に、ここは異国の地アブダビだ。まさかそう頻繁に自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったので、うっかりびくっと飛び跳ねてしまう。  ちょっと声が出てたかもしれない。どきどきして心臓によくない。慌てて振り返ると、なんだか見慣れないハンサムな男性が僕に向かって悠々と歩いてきていた。 「君は案外歩くのが早いな……危うく置いていかれるところだった」 「………………」 「……オリヴァー?」 「あ。あー! ラ……ミスター・アル=アブドゥッラー!?」 「ラティーフで良い。なんだ、私だと気が付かなかった?」  気が付くわけがない、という言葉を飲み込んだつもりだったけれど、びっくりしすぎて素直に『ハイ』と頷いてしまう。  そういえば初めて彼に会った一昨日は、彼の頭には髪の毛をすっぽり隠す白いクトゥラが被さっていた。昨日ドバイまで同行してくれたのはイーハで、一日中ラティーフの姿は見ていない。という訳で僕は、顔以外をすっぽりと覆ったカンドゥーラ姿のラティーフしか見ていないのだ。  今目の前にいる彼は、なんていうか、とんでもなくラフで、どう見てもちょっとカッコイイ外国人観光客だ。こんなの気が付くわけがない。 「気づきませんよ……! だってどう見ても……」 「外国人観光客みたいだろ。……どうせ髭がないだけで怪訝な視線をもらうんだ。開き直って外人ぶったほうが堂々と歩ける」  ジーンズではなく綿のパンツだったし、スタイリッシュなトップスではなく不思議な柄のティーシャツだったけれど。野暮ったい眼鏡をかけているのに、なんでかすごく格好良く見える。  頭を隠す白い布はなく、ウェーブっぽい髪の毛は片側に雑に流してあった。髭がないから尚更外国人観光客っぽい。よく見たらサンダルだけど、暑いアブダビではサンダルスタイルの観光客はたくさんいた。 「なんかこう、随分軽装ですけど……何か僕にご用事でも……」 「いや特にないが、その辺をふらふらしていたらこの建物を見つけたんだ。案外近いもんだな。帰るついでに近道を教えようかと思ってさ」 「……迎えに来てくださった、ってことです?」 「迷惑だったか?」  びっくりしすぎて変な間が出来た。ラティーフは僕が困っていると思ったのか、少し眉を寄せて小声で囁く。  彼の好意に対して迷惑だなんて思ってはいなかったので、素直にびっくりしただけですと答えた。  僕の返答を聞いたラティーフは、ほっとしたように息を吐く。派手に笑ったり微笑んだりしないけれど、詰めていた息を吐く瞬間に少しだけ柔らかい表情になった。 「お気遣い嬉しいです。実は僕、あんまり地理とか地図とか得意じゃなくて、帰り道怪しいなぁと思ってました」 「だろうな、と想像できる。今朝も玄関までたどり着けずに中庭に迷い込んでしまったそうだしな」 「……イーハの告げ口ですね?」 「私が尋ねたんだ。客人は私の家に満足してくれているのか、気になって。気分を害したのならば謝る。……オリヴァーそっちじゃない。私の家はこっち」 「…………ノルでいいです」  呆れたような優しい顔で進行方向を指さす彼に走り寄り、恥ずかしさを誤魔化しながらさっさと歩いた。  僕が昨日の夜から寝泊まりしている豪勢な屋敷は、イーハではなく、その主人の自宅だった。  一昨日、不運の連続で暴漢に襲われた僕を救ってくれたアラブの富豪は、なんと不運なイギリス人の為に高級な宿まで手配してくれた。  けれどそれが笑っちゃう程高級なホテルだった為、一晩で懲りた僕はちょっと申し訳ないけれど落ち着かないし無理ですと訴えた。その結果何故か、本当に何故かよくわからないのだけれど、ラティーフの家に居候させてもらう事になってしまったのだ。  ラティーフは、きみはこの街では目を引くし安い宿ではイーハが心配するから、と言っていたけれど。  彼らの慈愛というか奉仕というか優しさはあまりにも大きすぎて、宗教と人種の違いってすごいなぁ、なんて納得できるまでにはまだ時間がかかりそうだ。  そういえばこの国にはザガートという施しの習慣がある筈だ。たぶん、生まれた時から奉仕とかの考え方が僕達とはズレているのだと思う。もしくは彼が、イーハがいつも言うような『理解しがたい変人』であるだけの話なのかもしれない。  ラティーフ・オマール・アブドゥッラーというアラブ人の事について、僕はほとんど何も知らない。  国営の仕事である石油産業に関わっている、ということはわかる。そしてそういう立場なのだから、王族とか貴族とかの一員なのだろうなぁということも、なんとなく察していた。  ただ、詳しくは知らないし、別に知らないままでもいいかなぁと思う。僕にとって大切なのは彼がどんな仕事をしているかではなく、イギリス人の居候の事を煩わしく思っていないかどうかだ。  迎えに来ちゃうくらいだから、きっと、本当に面倒がられてはいないのだと信じたいけど。もしかしたら一人で街を歩かせるのは危ない、とか思われているだけかもしれないし。  たぶん、ちょっとどころかかなり過保護なラティーフと並び、僕は蒸し暑いアブダビ市街に足を踏み入れる。  きょろきょろと物珍しい町並みを眺める僕は、不思議な違和感を覚えた。なんだか昨日までとは雰囲気が違う。今まで何もなかった場所に露店が出ていたり、きっちり閉まっていた店に看板が出ていたり。  街に静かな活気がある。昨日まではぴりぴりとした空気が漂っていた路地は、ほんのすこし、けれど確実に華やかになっていた。 「……あ! ラマダンが終わった?」  今さらそんな事に気が付いた僕に、隣の男性はふと優しい気配を零した。きっと目に見えて笑っているわけじゃないけど、柔らかく息を吐いたのだと思う。 「そうだ、我々の九月は昨日で終わりだ」  ラマダンは旧暦の九月に行う。西暦のカレンダーだと、年に十日程ずれる為、毎年期間が変わるのだという。今年のラマダンは五月の半ばから六月の半ばまでだった。 「今日からは日中何を口にしようとも問題はない。勿論ハラールに限るがね」 「戒律に従って摂取してもよいとされるもの、ですね? ええと、禁止されているものがハラーム?」 「そう。豚、犬、虎、猫、キツツキ、ロバ、ラバ、そして撲殺絞殺された動物の肉が主なハラームにあたる。他にもあるが、まあ、この街で出される食品はほとんどがハラールだ。君にはあまり関係のないことだろうが……君は酒を好む人間か?」 「いえ、あまり。飲酒も禁忌ですよね?」 「私達はね。この街は我々の宗教圏内では比較的、大らかな信仰心と罰則を敷いている。酒が飲みたければあの角のバーで外国人だと証明できれば飲める筈だ。リカーショップもあるにはある。買い求める際に許可証と身分証が必要になるかもしれないが……」 「貴方の御屋敷で、僕がお酒を飲んでも怒らないんです?」 「君は異教徒だ。信じるものが違う人間に、思想の無理強いはしない。よって戒律の無理強いもしない。規律は、私が守ればいいだけの話だからな。ただし酔っぱらって公道で暴れるような事があれば、最悪逮捕されるから気を付けること。私の家の中でならば、好きに過ごしていい」  彼の言葉は僕を拍子抜けさせるものだった。てっきり、ある程度の戒律に配慮するように求められるものだと思い込んでいたのだ。  ホテルならば個人の空間だし勝手になんでもできるけど、流石にムスリムの個人宅ではお祈りの時間とか門限とか、そういうものもあるのだろうと覚悟していた。  僕はカミサマってやつを信じていない。信じていないから、祈るという気持ちがどういうものか本当にわからない。わからないものを形だけでも真似することは、あんまりいいことじゃない気がしていて、祈れと言われたら何と言って断ろうかと考えていた。  でもたぶん、ラティーフの異教徒に対する考えは優しすぎると思う。ほとんどのアラブ人は飲酒に眉を寄せる筈だ。 「この裏の路地は道が悪い。観光客目当ての少々強引な店もある。できるだけこちらの道を通った方がいい。ラマダンの時期を過ぎればあの角にサンブーサの屋台が出る。小腹が空いたときにちょうどいい」 「サンブーサ?」 「野菜が入った包み揚げのようなものだ。揚げた小麦粉というか。わりとうまいよ」 「え、貴方も屋台でつまみ食いとかするんですか?」 「する。普通に住んでいるからな。君たちはたまに勘違いをしているようだが、金を持っているからと言って高級車を乗り回して毎日パーティーをしなければいけないわけではない。王族も今は全て公務員だ。私もただの高給取りというだけの、ただのアブダビ市民だよ」 「ほえー。なんていうか、普通なんですね。あ、いえ、普通っていうのは、悪い意味じゃなくて……思っていたより身近な感じです」 「貴族であることは確かだがな。自国民は外国人労働者よりもかなり優遇されている。外国人が我が国民と結婚しても、定住圏が得られるだけで決して国民にはなれない。そういう意味では身分というものはきちんと存在はしているが、それは君の国の貴族制度も似たようなものだろう」 「はー。確かに。お金がなくても貴族は貴族ですもんねぇ」  イギリスの貴族は、完全に家に割り振られた階級だ。そこに経済状況や偉業は全く関係ない。金が無くても落ちぶれても、貴族の家は一生貴族だし、どんなに頭が良くてもどんなに金持ちでも、一般市民は貴族にはなれない。一代貴族の称号を得る事はできても、子孫含めて貴族の仲間入りをすることはできない。  確かにちょっと似ているのかも、と感心していた僕は、だらりと続く坂を下る彼を追いかけて少し小走りになる。 「気安くしてもらった方が私もありがたい。大きな括りで言えば君も私も『人間』だ。異教徒だろうがムスリムだろうが無神論者だろうが、結局は人間なのだから、譲り合えば隣人にもなれるさ」  着いたぞ、と言われるまでもなく、僕はその道の先がゴールだということを知っていた。  何しろ結構な豪邸で、百メートル先からも彼の家はちらちらと視界に映っていたからだ。これでもきっと、控えめな方なんだろうなぁと思う。ラティーフの経済状況を邪推したわけではなく、彼の控えめで真面目な人柄を考慮してそう思った。 「ありがとうございました」  さっさと家に入ろうとする彼の背中に向かって声をかける。振り向いたラティーフは、野暮ったい眼鏡の下で少しだけ怪訝な表情をした。 「……私は、何か礼を言われるようなことをしたか?」 「迎え、嬉しかったし助かりました。あと、この辺のお店の案内と説明も。今度サンブーサ買ってみます。三つ買ってきたら、ラティーフもイーハも食べますか?」 「……あいつは食べないかもしれないが、私は一度に三つは食べる」 「じゃあ六つ買ってきます。半分こにしましょう」  うだるような暑い日差しを避けて、クーラーの効いた涼しい部屋に入る。にっこり笑って今日もお世話になりますと言うと、何とも言い難い怪訝そうな顔をしたハンサムな人は、気まずそうに目を逸らした。  気分を害したというよりは、照れているように見えたので、僕は自分に都合の良いように解釈することにした。  ラティーフ・オマール・アブドゥッラーというアラブ人の事について、僕はほとんど何も知らない。  けれど彼はイーハの主人かつ友人で、僕より七歳も年上の二十八歳で、髭のないハンサムで、びっくりするような豪邸に住んでいて、そして優しく笑いかける事は無いけれど恐縮してしまうほど親切だということは知っていた。

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