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第4話
週初めの仕事を終えいつものように私の書斎に戻った後、何か言いたい事があるならば正直に言え、と言ったのは私だった。
「流石に少々、強引では……」
それに答える私の秘書は酷く真面目に、至って真っ当な意見を口にした。
切れ味鋭い言葉が多いイーハにしては、やけに控えめな物言いだった。普段と違う彼の態度は、内心の戸惑いを表しているに違いない。要するに引いているのだろう。言いたい事はわかる。何故ならば私も自分の意味の分からない行動力と強引さに些か動揺していたからだ。
「確かに私は、少々の手助けをするべきだと助言いたしましたが。まさか、自宅に引っ張ってくるとは」
「……強引な自覚はある」
「でしょうとも。日々貴方の顔を拝見していれば募る罪悪感のお裾分けをいただいている気分になります。後悔するならばやらなければいいだなんて言葉は人間に向けて放つものではありませんね。ただ、本当に彼を拉致してしまうとは思ってはいませんでしたので、なんというかその……」
「私だってできれば馴染みのホテルに泊まっていてほしかった。豪華すぎて申し訳ないと言ったのはノルだ。私は他の信頼できる宿を知らない。それに、お前もこの屋敷に住んでいるだろう」
「私は敷地内の空き家を拝借しているだけですよ。同居とは言えません。オリヴァーはこの屋敷に住んでいます。いくらそれなりに広い家だとしても同居ですよ。……私は時折、貴方の心の強さに慄きます。常に自重しながら愛でるという感覚は、大変精神によろしくないのではありませんか?」
異教徒だというのに、イーハは常に私を慮った言葉遣いを心掛けてくれている。素直に惚れた人間に手を出さないなんて辛くないのか、とは言わないのが彼の素晴らしいところだ。
心の中では何度も否定し、考え、言い訳をしているこの感情が何かと言う事くらいは知っているが、私もあえて口にはしない。
「辛くない訳はない。だがそれを上回る興奮が大きい。彼の話は面白いからな。私の感情はひとまず置いておくとして、未来ある優秀で面白い青年を保護できたことは誇るべきことだと思っている」
「面白いですかね。私はあまり、天文や物理は詳しくないもので、特別な興味は抱きませんが……素直で礼儀正しい好青年だということは認めます。そして彼は見目麗しいですね。正直驚きました。貴方のメール友達は眼鏡をかけたガリガリのナードだと思い込んでいたもので」
「ああ……やはり、おまえから見ても麗しいのか」
正直なところ私は白人の見た目などよくわからない。肌の色も違えば、目鼻立ちのバランスも違う。
ノルの見た目がとても美しく見えているのは私だけではないらしい、という情報は嬉しいものだった。どうやら欲目というわけではなかったようだ。
ノルは理解が早く頭がいい。常に感情と切り離して考える。どんなものに対しても好き嫌いがない青年だ。真っさらな夜の砂が静かに水を吸収するように、言葉と知識を飲み込んでいく。
多少興味が薄い分野(宗教や政治がそれにあたるらしい)に関しては反応が鈍いものの、基本的に素直にこちらの話を聞き、理解し、理解が更に必要な部分は積極的に質問し、意見を述べた。
ほんの少し会話しただけでも、あのメールのノルだと確かに実感する。そしてその実感を得る度に、私の胃と頭はさらに重さを増した。
文書の羅列ですら、私の内の秘めた部分を掴まれていたというのに。実際に動いて喋る肉体をもったノルは、あの心地よい頭の良さで話しかけ麗しい相貌で無垢に笑う。
薄いブルーの瞳に、まつげが薄い影を作るだけでも駄目だ。途端に私は目が離せなくなり、そんな自分の意識をどうにか理性で繋ぎ止める。
私はやはり、彼に会うべきではなかったのだ。……そう何度も悔やむものの、一度手の内に転がり込んできたノルを手放す事ができず、この一週間の私の自責はとうに許容を超えていた。
ため息が漏れる。もう数えることすら飽きた。私の部屋は、今や私の吐き出す憂鬱で満たされていることだろう。
贅沢な悩みから生まれる私のため息を聞き、イーハは少しだけ間を置く。
「……貴方は相変わらず真面目に戒律を守っていますし、オリヴァーとも和やかに会話をする程度で触れることすらないじゃあないですか。もう少しフランクに、彼がいる生活を楽しんでみては?」
姿勢を正したイーハは、真摯なトーンで提案する。彼はいつも、ここぞというところで私に甘い。
「楽しんではいる。正直浮かれすぎていて己が気持ち悪いほどだ」
「あー……そう、ですね……確かに、中々に気持ちの悪いものですね。他人に興味を持ち、常に親切なラティーフというものは」
「私はそれなりに隣人たちに親切だろ」
「貴方の親切は平等な博愛であって、興味からの好意ではないでしょう」
「……時々おまえは神の使者かと思うほど的確な表現をするよな」
「私は偉大な神とは関わりのない、ただの貴方の友人ですよ。友人なので心配をしています。最近はお二人とも体調がよろしくなさそうで――」
「二人? ノルも体調を崩しているのか?」
「貴方は悩みすぎと自責でしょうが、オリヴァーは環境の変化による疲れでしょう。初めての海外だというのですから、仕方のないことです。イギリスとアブダビでは気候が違いすぎますから。食欲はあるようなので平気ですよ。いっそ二人でディナーでも……」
余計な提案をしかけたイーハの声は、軽いノックの音で遮られた。
私の部屋をノックする者はあまりいない。使用人達は私が外出していなければこの部屋には入らないし、仕事の要件は大概イーハの携帯に入る。
どうぞ、と声を上げた後にひょっこりと顔を出したのは、薄いパソコンを抱えたノルだった。
もう一週間も同じ家で暮らしているというのに、つい姿勢を正してしまいそうになる。デスクに座る私にまず目礼したノルは、本棚の前に陣取ったイーハに気が付くと目を開く。感情が、驚く程表情に直結している青年だ。
「あ、すいません、お仕事中でしたか?」
「仕事の話ではないので大丈夫ですよ、オリヴァー。何かご入用ですか?」
私とイーハが同じ空間にいる時は、基本的にイーハがノルに対応するようにしていた。私はただの家主で、友人という肩書を持っているのはイーハの方だからだ。実際にはメールでやり取りをしていたのは私だとしても、それはノルの知らない事情だ。
しかし彼はあまり細かい事が気にならないのか、イーハにも私にも同じように丁寧に、しかしかなり親しみをもって言葉を投げかけてくれた。
「入用というか、質問です。実はイギリスの同居人達に近状報告をしようと思っているんですけど、えーと、このお屋敷のどこだったら背景映っちゃっても平気ですか? というか、このお屋敷内って映像での通話オッケーですか……? 勿論ダメなら音声通話だけにします」
薄いパソコンに目をやった私は、少し考えてから彼がそんな質問をしてくる意味に気が付いた。
当国は石油関連施設内の写真撮影および動画撮影の一切を禁じている。それに関わる立場である私の家も、その禁止範囲に入っているのか、一応確認を取ろうと考えたのだろう。
「私の仕事部屋とイーハの部屋以外ならばどこでも自由に配信していい。特別映って困るようなものも思い浮かばない。屋敷内ならばWi-Fiが飛んでいるから、通信速度の問題もないだろう」
「そうは言っても、廊下でハロー元気だよと言うわけにもいかないでしょう。オリヴァー、こちらへ。こちらの部屋ならそれなりに広いですし、テーブルの高さもちょうどいい筈です」
「え。でも、そっちって、ラティーフの寝室じゃないんですか?」
「……寝室だな。まあ、ベッドがあるだけの、ただの部屋だ」
私の寝室は特別誰かの立ち入りを禁じてはいない。いないが、いきなりプライベートな部屋にノルを招くのはどうかと視線だけでイーハに抗議をしたものの、けろりとした顔の秘書はまるで用意していたかのように言葉を並べる。
「本日は新しい調度品が届く日ですから、リビングは物でごった返していますよ。客間はエアコンが壊れています。滅多に客など来ないからと、この家の主が修理を面倒くさがっているせいで、もう二週間もそのままですので」
「……修理を呼ばなかった事は謝るよ。すぐに業者に声をかけていい。確かにどこで通話してもいいが、私達が近場に居てはノルも困るだろう」
「あ。すいません実は質問と一緒にお願いがあって、そのー……同居人達がぜひ、ラティーフとイーハに挨拶がしたいって言っていて。だから、ええと、できることならお二人も一緒に通話してくれないかなぁーと思ってー……」
駄目ですかね。と、パソコンを両腕に抱えて首を傾げる麗しい青年に、誰が駄目だといえるものか。
遠目の上目遣いに私が心を打ちぬかれ人知れず悶絶している横で、主人に対する呆れを綺麗にしまい込んだイーハは、いいですよと勝手に承諾していた。
いや別に構わないが。どうせ大した私物もない部屋ではあるが。
どうぞと寝室の扉を開けるイーハに手招きされたノルは、私の方を不安そうに見る。
戸惑う彼に対し出来うる限りの気安さを装いながら、私は少し息を吐いた。
「……構わないよ。ただ私は、英語があまり得意ではないが……」
「通訳は任せてください! って胸を張って言えるかわからないんですが、これでも一応通訳の仕事でアブダビに来てますからね! たぶん! たぶん大丈夫です! 多分!」
「多分と三回も言ったな。君の同居人というのは……アパートメントに一緒に住んでいる人、だったか?」
私は彼のメールに時折現れる同居人の名前を全て覚えていたが、そんなことはおくびにも出さない。まるで初めて聞くかのように問いかけると、勢いよく頷いたノルは軽やかに笑った。
「はい。一つの賃貸住宅に、五人で住んでいます。今は僕が抜けているので四人ですけど。今こっちが夕方だから、きっとイギリスは日曜の真昼間ですね。チャックは寝てるかもしれないけど……」
私の国での日曜は、仕事始めの日だ。金曜と土曜を休日とし、日曜から木曜までを労働日としている。世界の大半は今日、日曜が休日だろう。
時差が四時間程度のイギリスとアブダビでは、それ程連絡に困る事もない筈だ。
ノルと共に寝起きしている友人達、というものに、興味がないわけがない。チャック、チリコ、オフェリア、グレッグという名前は、ノルと人生を分かち合える稀有で幸運な人間の名前として記憶している。
けれど内心の興味と興奮を押し殺し、普段私が本などを読む際に使う机とソファーでパソコンをセットしているイーハを眺める。
ノルはその横で、私の寝室をぐるりと見渡し、質素なベッドサイドの机の上に目をやると、アッと声を上げた。
「……ヌジューム! 星の本!」
手直なところに放り投げたままの本は、書籍というよりは図鑑の類で、あからさまに惑星が散りばめられた表紙を晒している。アラビア語が読めずとも、それが宇宙や星に関する本だという事は一目瞭然だ。
しまった。と、額に手を当ててしゃがみ込みたい気持ちを堪える。
しまった、寝る前に星の図鑑をぼんやりと眺める事が癖になっていた。私は宇宙に特別な興味もないし、知識もない。けれどこれがノルの愛している宇宙かと思うと、暗闇に浮かぶ点の集合体は、途端に哀愁漂う絵のように思える。
私は整理整頓が苦手だ。だからむしろ物を置かなくなった。最低限の品しかなければ、散らかる事もない。
それなのに最近は本が急に増えた。大半は英語の辞書で、後の半分は初心者向けの星や銀河の本だ。
せめて私が片付けに熱心な男だったなら、ノルの目に留まる事もなかったかもしれない。そうは思うものの、見つかってしまったものは仕方ない。仕方ないので私は苦肉の言い訳として、イーハが、と口にする。
「……イーハが、最近は星の話をするものだから。私にはわからない星の名前を、少々調べてみようと思ったんだ」
「あー……僕のメールが、星の話ばかりだから。わからない星の名前って、どれです? メインベルトの小惑星群かな」
「……フォボス、とか……」
「あー! そう言えば最近僕は火星の話ばかりしてましたね! あ、フォボスの説明したっけ? え、してないかもしれないですね! なんかこう、地球とか月とか土星とかみたいに、みんな当たり前に知ってるものだと思っちゃうんですよね本当によくないと思います反省します。えーと、フォボスは火星の衛星でー」
「ストップ、オリヴァー。その話はとても長くなりそうなので、夕食後にお茶でも飲みながらぜひどうぞ。ネット環境のセットができましたよ、これで問題ないと思います」
「わー! ありがとうございます! フォボスの話は本当に後でしましょう。でも先にリトル・ヒューストンに通信です」
「リトル・ヒューストン? 斬新なアパートの名前だな」
「勝ったら好きに命名できるっていうゲームで僕が勝ったんですよ。当時は僕とチャックしかいなかったけど。彼が勝ったらヘクセンハウスロンドンになってたみたいです。でも、僕が圧勝だったから、僕達のフラットの名前はリトル・ヒューストンです。僕すごく憧れているんです、あのー、宇宙映画とかにあるじゃないですか。宇宙船とかから地上に向けた、『なんとか号からヒューストンへ』っていう通信」
「ああ、ありますね。確かに私も少々あれには憧れます」
「……イーハ、おまえ文系じゃないのか?」
「理系だの文系だの宗教だの関係ないですよ。むしろ宇宙もこの際関係ない。浪漫の話です。私は一度、『後は任せて先に行け』と言ってみたいと思っていますよ」
「あーそれもいいですねーでも宇宙でそれ言ったら完全に死んじゃう未来ですねーあの何もない空間で、一人で出来ることなんて限られてますから。あ、繋がった? かな?」
オリヴァー・グレイからリトル・ヒューストンへ。この通信が聞こえていますか?
そう話しかける青年の後頭部を眺めながら、私は、宇宙と浪漫の話を考えていた。
浪漫、というものを、果たして私は持ち合わせているのだろうか。
もしかしたらそれは、私にとって未知のものなのかもしれない。
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