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エピローグ
寒いでしょ、と訊いてみたけれどわりと頑固な僕の恋人は、すごく寒そうに肩を竦めながら、きっと火星よりはマシだと答えた。
そりゃ確かにマイナス四十度とかに比べたら、カナダの秋はまだマシな方だと思う。でもアブダビ育ちのラティーフには絶対寒い。一般家庭なら暖房もきいているだろうけれど、だだっ広い公演会場のエントランスは僕でもわりと寒い。
だから通話でもいいのにと言ったのに、君の晴れ舞台だぞとアブダビのスポンサーは眉を寄せた。
「僕じゃなくてグレンジャー教授の晴れの舞台ですよ~僕も研究メンバーに入ってますけど。いやでも久しぶりのMETIプロジェクトがこんなにも早く実現するなんて、ほんとびっくりです。グレンジャー教授からあなたに会ったらくれぐれも丁寧にお礼を述べるようにって、逐一言われちゃってますよ。多額の援助、本当にありがとうございます、ラティーフ」
「気にするな。ぎりぎりポケットマネーだよ。君はいつも金はいいから寝る前に本を読んでくれとか料理を作ってくれだとか、簡単そうで面倒なリクエストばかりするしな。小切手を書くだけなら簡単だ。たまには石油王めいたことをしておかないと、チリにはそろそろ富豪のなりすましだと疑われそうだと思っていた頃合いだ。……ところで、休息はきちんと取っているのか? また痩せたんじゃ?」
「もーイーハと同じ事言うー。痩せてないですよーちょっと太ったくらいなんですから! ちゃんと寝てちゃんと食べてたまに運動してます、健康じゃないと短い人生更に短くなっちゃいますからね! 宇宙に挑むには健康が第一ですから。ラティーフこそ痩せました? ていうか髭ちゃんと作ってこなくて良かったの?」
「構わん、これはポケットマネーだ。別に私の事業じゃないし、私がテレビに映るわけでもない。マスコミの取材を受けるのは私ではなく、私のノルだ」
「うふふ。いいですねその響きすごくどきどきしますーもっと言ってほしいー。ドヤ顔のあなたも最高です。あ、ちょっと今恥ずかしくなってるでしょ? もーかわいいんだからーうへへへへ」
「……君は相変わらず変人だ」
「僕もそう思います。あなたもね。何年経っても僕の事が好きだなんてほんと変な人です」
顔の肉が上手く戻らなくてずっとにやにやしてしまう。そんな僕を呆れたように眺めたラティーフは、いつもの外国人みたいな顔にちゃんとした民族衣装を纏った不思議な姿で、寒そうに白い息を吐いた。
「METI、というのは、あれだな……あー……積極的な、知的生命体調査だったな」
「うん、そうです。受け身のものがSETIですね。宇宙から受信する電波を解析するやつ。有名なMETIプロジェクトは一九七四年のアレシボメッセージ送信ですけどまあ割愛します、なんか三回くらい話した事ある気がするし」
「二十回は聞いたよ。ドレイク・セーガンのアレシボメッセージ。君の崇拝するドレイク方程式の提案者の話だ」
「そうそれ。それですラティーフは記憶力がいいし僕の散漫とした宇宙の話をちゃんと聞いてくれて理解してくれるから好きですー。まあでも詳しい話はまた夜にしましょう。会見始まる前に教授に挨拶します?」
「いや夜でいい。他にも投資者は多いだろうしな」
「おっけーです。ええとじゃあまた後で――、ん?」
関係者控室に戻ろうとした僕の尻ポケットにつっこんでおいた携帯が震える。仕事用じゃなくて、プライベート用の携帯だ。だいたいはラティーフが鳴らすのだけれど、今彼は目の前にいるからきっと他の友人に違いない。
案の定、メッセージの送り主はリトル・ヒューストンのオフェリアだった。彼女は相変わらずマメだ。ちゃんと僕の仕事の時間を見計らって激励の文章を送ってくれる。気遣いができすぎる友人に学ぶ事は多すぎる。
「オフェリアです。あんたやればできるんだからちゃんとやんなさいよみたいな事が書いてある。イメージする事、落ち着く事、祈る事を忘れるなって」
「相変わらず彼女は出来た人間だな……私も見習いたい」
「ラティーフはもうそれで充分ですよ、僕が追い付けなくなっちゃうからちょっとダメなくらいでいてください。あと追伸があります」
PS:あなたのフォボスは元気?
僕の携帯をのぞき込んでこの言葉を見たラティーフは、ふと柔らかい息を零して目を細めた。
返信したいところだけど、集合の時間が迫っている。僕は携帯をラティーフに預けると、返信しといてくださいと声も一緒に投げた。
「いいのか?」
「いいですよ。オフェリアはあなたの事好きだから、むしろ喜ぶと思います。あなたたちロマンティックな会話するから見ていて楽しいです。かっこいいですよね『あなたのフォボスは元気?』なんて。僕なら一生出てこないような気障な台詞……あ、やば、ほんとに行きますまたあとで! 違う携帯から連絡しますから、それまで僕の携帯の番人お願いしますね!」
「私でよければ、そのくらいはこなすよ。ただ会社で腕組みをしているだけのアラブ人ではない、とチリコに示さなくてはいけないしね」
冗談めかしたラティーフは、僕の腕を引き寄せると周りに誰もいない事を確認してから、額に静かにキスを落としてくれた。
ラティーフはあんまりキスをしない。それでいいし、そんな真面目な彼が好きだと思うから不満はないけど、やっぱりこうやって愛情表現してもらえると嬉しいと思う。
今日ちゃんとうまいこと教授の補佐ができたら、僕は今晩恋人に久しぶりにご褒美をねだってもいいかなーなんて自分勝手な事を考える。ラティーフは優しいけれど相変わらずちょっと頑固だしやっぱり神さまに忠実な人だから、相当甘えたおさないと僕が神さまに勝つことってないんだけど。
「……シャツで迫ったらいけるかなー」
どうかな。どうだろう。あの人ってフォーマルっぽい恰好の僕が結構ツボみたいだから。ストライプのかっこいいシャツの第二ボタンくらいまで開けたらちょっとサービスしてくれないかな。どうかな?
ちょっと不埒な事を考えながら、僕は冷たいエントランスを軽い早足で駆け抜けた。
まだまだ、僕は夢の途中だ。宇宙は遠い。とても遠い。宇宙人は更に更にもっと遠い存在だけど、もしかしたら手が届く可能性だって、ゼロじゃない筈だから。
僕は今日も一瞬の人生を勝手に楽しく生きれるように、近くて遠い火星に祈った。
僕の人生が、楽しいものでありますように。僕のラティーフの人生が、素晴らしいものでありますように。そして全能の神さまが、今晩くらいはほんのちょっとよそ見してくれますように。
僕は祈る。今は一億六千キロ離れたかの星は、きっと今も静かに、地球の喧噪を眺めている筈だった。
From: Oliver gray
To: Ophelia Levski
Subject: Re:元気?
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慌ただしい火星の信者は走り去ってしまったよ。また夜にでも、連絡がいくだろうから、その時に存分に小言をぶち込めばいい。彼は今日も慌ただしいが、君の助言をもとに成功を収めるだろう。
フォボスからリトル・ヒューストンへ。
私は今日も火星を見つめているよ。
END
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